私と魔法少女と現代音楽 Ⅱ 辻田絢菜

私と魔法少女と現代音楽 Ⅱ 辻田絢菜

私と魔法少女と現代音楽 Ⅱ

辻田絢菜

*この論考は2020年9月に公開した 「私と魔法少女と現代音楽」と関連付けてお読みいただけます。

自分らしさとは

 特に現代音楽作品を書いたり、鑑賞する上で、私にとって「その人らしさ」はいつも気にかけている重要なテーマです。器用とは全く言えませんが、ある程度TPOに合わせた作曲ができてしまう自分の音楽について、「自分らしさ」とはなにか、昔から少々疑問に思うところがあります。自分でもまだまだわからないことが多い自分の作品について、この機会に整理してみようと思います。
 自分の作品について、まず第一にテーマ選びが自分らしさを形成している重要な部分にあたるのではないかと考えています。たとえばこれまでの作品を挙げてみると、「幻獣」、「妖精」、「魔法少女」、「Qun(胸キュンの”キュン”)」、「おまじない」etc…フィクションやファンタジーから連想されるテーマが多いです。

「音楽」で表現する必要性について

 またこれらを音楽作品のテーマとして用いる上で、近頃自分自身に問いかけているのは、「表現したいことを表現する方法として本当に音楽が適切なのか」ということです。表現の方法には絵を描いたり、文章にして綴ったり、音楽以外にもさまざまな方法があります。
 音楽でなければならない理由として、テーマと音楽との間に「音楽表現としてでなければ成立しない部分」があると良いと思っています。そのため、なるべくテーマと、作品の音楽的アイデアがリンクするものを選ぶ場合が多いです。
 たとえば2019年にアンサンブル室町から委嘱された作品《Gemini rabbits / ふたごうさぎ》(2019)では、作品名の「ふたご」の部分を楽器編成に反映しています。アンサンブル室町は西洋古楽器と邦楽器という特殊な編成をもつアンサンブルです。この作品の中では、古楽器と邦楽器の発音方法が似ているものを一つずつ対になるように編成を組み、似て非なる楽器同士をアンサンブルさせる試みに取り組みました。尺八とフラウトトラベルソ、笙とパイプオルガンetc…という具合に、「ふたご」をイメージしています。
 また、音楽には「時間の経過」が必ず付き纏います。絵のようにその瞬間を永遠に留めておくことができないことが最大の特徴とも思えます。ごく短い一瞬で消えてしまうような表現から、長い時間をかけてその経過を楽しむような表現まで、方法はさまざまあり、私の作品では時間に対する色々な感覚を組み合わせて、浮かんでは消える何かをさまざまな角度から感じることができるような作品を作れたらと考えています。
 ごく短い一瞬で消えてしまうような音であれ、長い時間をかけた経過を聴く表現であれ、それらを生き生きと響かせたいという目的から、作品の中でよく使うアイデアに「アニメーション技法」、「カット」と「リピート」があります。

アニメーション技法からのインスピレーション

 視覚表現である「アニメーション」は時間の経過によって楽しめる表現方法の一つです。
 私がインスピレーションを受けたアニメーション技法は、ディズニーアニメーターによってまとめられた「12の原則」に基づいています。キャラクターを魅力的に動かし命を吹き込むためアニメーターたちが生み出した約束のようなものです。視覚表現と聴覚表現という違いがありますが、時間の経過によって成り立つ点でアニメーションと音楽はリンクしているところがあります。アニメーション作品を見て直感的に受ける印象を、この技法を元に音楽表現に変換し取り入れることによって、音楽にリズムが生まれ、自分らしい表現の特徴を形作っているのかもしれません。
 この原則を具体的にアイデアとして用いたNHK FM「現代の音楽」からの委嘱作品《CollectionismⅪ/Sidhe for orchestra》(2018)から、いくつかの譜例と共に、要約した12の原則の内容を紹介します[1] … Continue reading


① Squash and Stretch(潰しと伸ばし)
 キャラクターの動きに「潰し」と「伸ばし」の表現をつけることによって、生き物の柔軟性を感じさせる。

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② Anticipation(予備動作)
 キャラクターがあるアクションをする前に予備動作を入れることによって、次に何が起こるか、見ている人が予測して心の準備をするようにしむける。

③ Staging(演出)
 キャラクター以外の部分の演出によって何が起こっているかを伝える方法(例:「不気味な感じ」が必要なときは、不気味さを感じさせるシンボルでカットを埋め尽くす)。

④ Straight Ahead Action and Pose-to-Pose Action(逐次描きと原画による設計)
 逐次描きはカットの頭から順番に絵を描いていく方法。成り行きの自発性がある。
 原画による設計は、まず動きの計画を立て(原画)、そこまでの動きを動画でつなげていくという方法。明快さと説得力がある。

⑤ Follow Through and Overlapping Action(あと追いの工夫)
 次の行動に移るときにキャラクターの全ての部位が一度に動きを止めることはない。最初にある部分が止まり、それから他の部分が止まる。重量感と奥行きを感じさせる。

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⑥ Slow In and Slow Out(両端づめ)
 生物の動きは、加速と減速に時間がかかる。動きの始まりと動きの終わりの速度は徐々に落ちていくことでキャラクターの動きに勢いが出て、活気が生まれる。

⑦ Arcs(運動曲線)
 生物の動きは普通かすかな曲線を描く。この発見により硬くこわばった動きが使われなくなった。

⑧ Secondary Action(副次アクション)
 主となる動きに対して副次的なアクションを加えることによって主の動きを引き立てる。主要なアクションに対して副次アクションと呼ばれた(例:悲しみに暮れたキャラクターは、顔を背けつつ涙をぬぐう)。

⑨ Timing(タイミング)
 キャラクターが無気力か、興奮しているか、そわそわしているかくつろいでいるかということも動きの速さで決まる。ある動きにどれほど時間がかかるのかによって、同じ動きでも全く違ったキャラクターの心情を表すことができる。

⑩ Exaggeration(誇張)
 戯画化されたリアリズムによって、より印象付ける。

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⑪ Solid Drawing(実質感のある絵)
 アニメーションである前に、遠近法や立体感を無視せずに絵を描く技術。

⑫ Appeal(訴える力)
 人を惹きつける性質、楽しいデザイン、観客に訴える力などの要素を持った、人が眺めていたいと思えるものを作ること。


 これらからインスピレーションを得ることは、子供の頃から大好きだったアニメーションや映画に付随する「劇伴音楽」への興味が関連しています。映像の中のキャラクターの動きに一体化する音楽は、たとえ映像が目の前になかったとしても生き生きと何かが動いている感覚をもたらします。
 これらの技法を使用した一瞬で消えるような音の作りは、オブジェのようなものが並んでいるような感覚と大学時代に師匠から例えられたことがあります。
 古典的な西洋音楽では「旋律」、「ハーモニー」、「リズム」が音楽の三大要素とされていますが、私の作品ではこのなかの「旋律」と「リズム」に当たる部分を、このオブジェのようなものに置き換えて、それをひとときアニメーションの主人公のように動かしている感覚もあります。

カットとリピート

 私にとってこの音楽の三大要素とされている項目が今も生きていて、たとえば、あらゆる音楽を鑑賞する際に時間の経過と共に「ハーモニー」の推移に多くの楽しみを見出している側面があります。「旋律」と「リズム」のオブジェ化に伴って、「ハーモニー」も加えた音楽の全体像にも、これまでと違う感覚を与えるために「リピート(繰り返し)」というアイデアを多用します。
 聴き馴染みのある響きの連続の記憶を残しながら、それをオブジェのように「カット」して切り刻んでしまう、ときにはそれをさらに繰り返す(リピートする)ことによって、非日常を感じる不思議な感覚を作り出せないかと考えています。
 私たちの生きている時間は普通一方向にしか進みませんが、音楽作品の中では流れをカットしたり、繰り返したりすることによって、擬似的に時間を巻き戻しているような感覚を得ることができるのではないかという狙いです。
 これらから得られる非日常性が、私の作品でよく扱うテーマとなっているフィクションやファンタジーと合わさることによって、ひととき別の世界にいるような感覚を楽しむ手助けをしているように思います。
 これは私の場合、コンピュータによる浄書で用いることが可能な「コピー&ペースト」という機能を使うことによって生まれた側面のあるアイデアでもあると感じています。手書きとは違い、コンピュータによる浄書ではいくらでも同じ部品をコピーして貼り付けていくという作業が可能になります。手書きでも不可能ではないですが、コンピュータで行うある種の軽やかさは、不思議な感覚となって実際の音に残るのではないかと思います。

なぜ西洋音楽と西洋の楽器での表現にこだわるのか

 このように作曲作業にコンピュータを使いながらも、果たして西洋音楽の延長線上でこの世界を表現することになぜこだわるのか、どんな意味を見いだせるのか、このことに関しても自分自身に日々問いかけています(打ち込み音楽など、音楽作りにはさまざまな方法があるため)。
 これは自分のルーツや、西洋音楽に対して長年持っているイメージに起因しているのではないかと思っています。
 私の両親は音楽家です。子供の頃から母のピアノで演奏されるクラシック音楽をあたりまえのように耳にしながら育ちました。オーディオから流れる音楽もやはりクラシック音楽が多く、古典的な編成から奏でられる響きが私は大好きでした。中学の頃に作曲の勉強をはじめ、高校では作曲科に身を置き、やはり西洋クラシック音楽的な価値観について触れる機会に恵まれました。この頃までに形成されたかつての時代の西洋音楽に対する漠然としたイメージは、理性に対する感情の優越を主張する「疾風怒濤」の精神です(西洋音楽の精神はこれだけでないですが、自分にとっては特別に印象に残ってしまうほど強い影響力だったのだと思います)。ところが、西洋音楽で使われる楽器から奏でられる響きは大好きなのに、この精神だけがどうしても感覚にフィットせず、違和感のようなものが私の内にありました。
 ところで、音楽を勉強する一方で私が好んで読んだり見たりしていたフィクションや娯楽に共通しているものは、伝説上のお話であったり、実体を伴わない仮想的・疑似的・バーチャル…といった作られた世界です。個人的な趣味の話になりますが、作られた世界における無機物的な可愛さや、生物の本能を無視し、美しさのみを抽出した現実世界の模倣としての純粋な存在…まっさらなものにずっと憧れがあります。過去に作品の題材として取り上げたことのある「魔法少女」といった存在も同じく、私にとって希望の存在としてキラキラと輝き続ける憧れの対象です。これらは作られた存在なので感情らしい感情はマスクされ、(言い方が悪いですが)暴力的に感情を押し付けることをしません。こういったものを題材に選び、非日常に浸りたいという願望は「人間に憧れるアンドロイド」の逆で、「アンドロイドに憧れる人間」のようなものなのではないかと考えています。
 ストレートに人間らしい感情を表現する「疾風怒濤」の精神をもった音楽表現がずっとひっかかっているのは、このような理由からなのかもしれません。そんな違和感に対する抵抗として、かつての西洋音楽のスタイルに執着を持っており、その音楽的要素を拾いつつも自分独自の方法で仮想的な世界を作り出すことに何か創作活動として大切な意味を見出し、そうしてできた世界が美しいものになるように感じています。

無機的な有機物

 先ほど自分の作品スタイルの由来の一つを「疾風怒濤の精神への違和感に対する抵抗」と喩えましたが、一見矛盾するような作品を書いたことがあります。この《Collectionism Ⅶ / QUN for orchestra》(2016/2017)という作品はいわゆる「胸キュン」という一種の感情をテーマにした作品です。本作はアンサンブルフリー及びアンサンブルフリーイーストにより委嘱された作品です。初演当時のプログラムノートをこちらに掲載します。

Collectionism Ⅶ / QUN for orchestra(2016/2017)

 サブタイトルであり、本作のテーマである「QUN」とは日本語の「きゅん」を意味する造語。 「きゅん」とは感情を表現するオノマトペで、強く感動して瞬間的に胸が締めつけられるように感じるさまを言い表す。 「胸キュン」といった言い回しもされる。 私達は生きていく中で様々な「きゅん」を感じる。 例えば素敵なことに出会ったとき、可愛いものを見てたまらなくなったとき、恋をしているとき、また悲しくて辛いときでさえ「きゅん」と感じる。 言葉だけでは言い尽くせないこの「きゅん」という複雑な感情を、音で表現した。 本作にはいくつかのセクションが存在し、それら一つ一つは、方向性の違う様々な「きゅん」のイメージを表現したものになっている。 セクションの配置方法には一貫したものはなく、感情の移り変わりなどは行われない。 その瞬間、瞬間のイメージの連続として音楽は進行する。 またそれぞれのセクションには「きゅん」の方向性を大まかに分類する表情記号が付け加えられている。 

Hope 希望 
Throbbing(doki-doki) どきどき 
Deep breath 深呼吸 
Error 解析不能 
Sigh ため息 
Painful 痛ましい 
Stimulation 刺激、興奮 
Tension 緊張 
Delight 喜び 
Longing 憧れ、恋しさ 
Dying of cuteness キュン死 ……… 

たくさんの人間が音楽表現に携わる「オーケストラ」という編成に於いて、ひとつの「感情」を表現するということがどういったものになるのか。 もし表現する側、聴く人が違ったら、「きゅん」という感覚はどうなるのだろうか。 様々な探求心と、未来への希望を込めて、この作品を書きました。 お聴きくださった皆様の心に、何かが「きゅん」と響きましたら幸いです。

プログラムノートにあるように、ひとことに「キュン」といってもさまざまなキュンが存在します。あくまでも演奏家や聞き手、それぞれの感性によって「キュン」を感じてほしいと思いました。聞く人によってはとてもあたたかく聞こえるかもしれませんし、人によってはキュンという言葉が虚無に聞こえるかもしれません。
 各セクションごとに少しずつキュンの方向性の違いを示唆しつつも、この作品には作曲者一人の主張に全員が応えて演奏しよう、聴きとろうという狙いはありません。
 前半の表現の方法の話と合わせると、私の作品は、たとえばオーケストラのような大人数が携わるような編成において、演奏者それぞれの奏でる生きた音が統合され、なにかまとまったオブジェとしてそこに現れるというイメージを持って作曲しています。一つ一つの生きる音が統合されたとき、その瞬間限りの思ってもみなかった響きや、それによって生まれる思考に巡り合う瞬間が、命はないけれど生き物のようでとても面白いと感じます。シンセサイザーから作り出している確定された音ではなく、人間の動きによる物理現象から発した振動による音という部分と、それを演奏する人間の演奏の僅かなズレ等によって生まれる「不確定な部分」が情報量を上げます。また、演奏者それぞれの解釈から情報量が増し、作曲者個人の主張のようなもの=不純物がとりのぞかれた、優しく透明感のある音楽がそこに浮かび上がるようなものになればと思いました(「キュン」が題材になっているという以外に、それぞれのキュンに対して具体的な主張はありませんが…)。
 このように振り返ると感情を扱った作品とはいえ、やはり疾風怒濤の精神とはかけ離れているように思います。
 あえて大勢の生身の人間が携わる必要がある西洋音楽の編成をベースとした創作で、このようなテーマを扱うということは、「生きているけれど、人間臭さを排除して生物から逸脱していきたい」という願望でもあります。簡単にまとめるとすれば「感情を露出しない」ということですが、しかしこのような私の視点も、抑制を求めるという点ではある意味とても人間的な考え方なのかもしれないとも思います。

おわりに

 これまでは西洋音楽の三大要素とされる聴き馴染みのある表現を残しつつ、アニメーション技法や同時代らしい題材からアイデアを得て音楽を構成することによって、西洋音楽に抱いていた人間臭いイメージを脱し、自分らしい別の世界観を持った音楽を作ることを実践してきました。この「人間臭さから脱する」という方向性をより深めていくならば、西洋音楽へのイメージという大きなくくりではなく、もう一歩細部に踏み込んで、人間の演奏技能の限界に関する境界を探ることなどに行き着く必要があることは、友人からのヒントもあり密かに今後も創作のテーマになりそうです。
 「自分らしさ」という視点から、自分の作品を見つめここまでたどり着きましたが、振り返るとやはり…まとまりきらないたくさんのことで私の頭の中はいつも溢れかえっています。演奏会で音楽を聴いていると、もう自分自身が音になってしまいたいと思う瞬間があります。自分らしさはやはり大切な要素だと思いますが、私の個人的な想いや願いは音楽にとって不純物のようなものだとも思うのです。今回、頭に溢れかえっている情報の一つ一つに理由付けしていくことで、なるべく自分の音楽から不純物を取り除きたいという想いがありましたが、いまだに自分の軸とするところはどこか、どこに属せばいいのか、はっきりと断定できない部分は多く、私の場合はそれを探るためにこれからも音楽を鑑賞し、作曲を続けるのだと思います。またそれは自分のことだけでなく、周りの人々や世の中、音楽とは何かを、作品を通して考えることにも繋がるのではないでしょうか。
 好きな音楽に触れるといつも、丘の上に一人で立ってる女の子のイメージが浮かびます。どこにも属すことができず、これから先も巨大な力を持つことはないかもしれない私の音楽ですが、これらの想いやエピソードと共に、必要としてくれる人がいるならば、その人の所に届くことを願っています。

脚注

脚注
1 以下はフランク・トーマス、オーリー・ジョンストン『生命を吹き込む魔法』スタジオジブリ(訳)、徳間書店スタジオジブリ事業本部、2002年、51-73頁による。