Styles and Ideas 樋口鉄平

Styles and Ideas 樋口鉄平

2021年12月4日

Styles and Ideas

樋口 鉄平

Paik:差し支えなければ、あなたが作曲するとき、記譜notationについて、或いは音について、どちらを最初に考えるか教えてもらえますか?

Cage:はい……双方は分離不可能な実体です……私はこれらを隔てることができません[1] … Continue reading

John Cage and Alison Knowles, Notations (New York: Something Else Press, 1969).

1.楽譜の不可能性

 作曲という行為を、文字通り曲を作ること、すなわち「音楽作品を創作すること」とする辞典的な定義に対しては[2]『広辞苑』第六版, (岩波書店, 2008年)。、──ひとえにこの音楽という語を広義に解釈することを許容すれば──おそらくそれほど多くの反論が寄せられることはないだろう。これら「音楽」や「作曲」という語の定義自体に関しても後に検討したいのだが、ここでは次のことを問いたい──しかしながら、「作曲という行為は音楽作品を創作することである」というこの言明はまた、同時に多くの人々に対し何らかの形で「楽譜」という存在を暗黙の裡に前提するのではないだろうか。もちろん、(幸運にも)否と応える人も少なからずいるだろう。「音楽作品を創作する」ための方法論が複数存在すべきであるとすれば、必ずしも楽譜の存在に囚われる必要はない。

 興味深いことに、「作曲という行為≒楽譜を書くという行為」という近似値的な関係性は、教育制度的な定義に近くなればなるほどに、ほぼイコールの関係となっていく。例えば音楽大学の作曲専攻の学生が、どのような形であれ──例えばテクスト、図形などによるものを含めて──「楽譜」というものを一度も制作する機会がないということは想定し難い。

 音楽制作の、そして実践の現場における楽譜の存在が当然の前提となるにつれて、この「楽譜」という存在自体に関する問いかけは稀薄となっていく。私自身、2019年にカリフォルニア芸術大学に留学し Michael Pisaroに師事するまで、この問いに十分に取り組む機会は無かった。しかしながら、現在においても尚、私は楽譜という存在に大いに囚われている。私は楽譜というシステムの不可能性に関心があるからだ。ここまで述べてきた作曲の定義からすると矛盾のようだが、私は大抵、楽譜によって書き記すことのできないものの存在可能性に出会ったときに、創作の目標が──その書記の不可能性に対し──設定される。したがって、この節では「楽譜の不可能性」について検討してみたい。
 Michael Pisaroはある時私に、「差異はこの世界に無限に存在し得るが、全ての書く行為は『縮小-還元 reduction』に過ぎない」という趣旨のことを話した。私の記憶が正しければ、彼は次のように続けた。

君がたとえ100の小説を書いたとしても、100の物語の中に差異は還元される。そしてJohn Cageが世界のあらゆる音事象を書こうとしたとしても、音の要素は『易経』の64マスの中に64の事象として縮小-還元されるだろう[3]私は2019年秋学期から2020年の春学期にかけて、カリフォルニア芸術大学(California Institute of the … Continue reading

彼のこうした発言は、例えばSimon Aeberhard(2017)による次のような言説と共通する。

音現象の偶発的な特性を省略omissionすることは、記号や符号symbols and signsによって音楽を視覚的に定着することの必然的な前提条件である。音響現象における本質的特性として考えられるものは、書記によって安定化されるもののみであるし、またそうであり得るのだ。まさにそれらが形式的に記入することのできないという理由によって、また[記号が]介在して(最も緩い意味において)「書き記される」ということが不可能であるという理由によって、またそれらが音楽的形式[を成すもの]として理解されないという理由によって、同様の[音響]現象における他の捉えにくい特性──例えばテンポ、音高、音色──は偶発的なもの、したがって一時的なephemeralものとして考えられるだろう。

Simon Aeberhard, “Writing the Ephemeral. John Cage’s Lecture on Nothing as a Landmark in Media History,” Journal of Sonic Studies, no. 13, 2017: 5. https://www.researchcatalogue.net/view/323127/323128/0/0 [accessed 09/08/2021]

Aeberhardがここで示唆していることは、楽譜は、その書記体系によって常に何らかの音響事象を「省略」している、ということである。Aeberhardはこの現象を別の箇所で「捨象-抽象化abstraction」と呼んでいるのだが、彼の仮説は、ここで例の一つとして挙げられた「音高」のみについて考えてみても妥当であるように思われる。例えば、中世の西洋音楽の実践において、教会旋法から大きく外れた音は、──たとえ現代の十二音半音階システムによって命名可能な音高(例えば「ドのシャープ」など)であっても──「音高」という認識の下で捉えられることはなく、偶発的な事象として捨象されたかもしれない──まさに十二音の体系無しに、「4分音」や「6分音」といった認識も存在し得ないのと同様に。楽譜として捨象-抽象化できない音響事象は、音楽としての認識から除外される。言い換えれば、楽譜がこの捨象-抽象化のプロセス自体を規定しているのだ。
 冒頭に引用したCageの「記譜notationと音とを隔てることはできない」という言説に言い表されているように、音への想像力と楽譜は切り離すことはできない。同一の音現象に対してさえ、それを書き記すための楽譜の複数性に対応するように、複数の認識の方法論が存在する。例えばPauline Oliverosが、多くの冷蔵庫には「第6倍音から第7倍音の間で明滅する」音が認められるという観察を述べる際[4] Pauline Oliveros, Software for people: collected writings 1963-80 (Baltimore: Smith Publications, 1984), 22.、しかしながらこの音響事象は、五線による書記体系では近似値的にしか書き記すことができない。例にこのOliverosのテクストが一つの楽譜であるとすれば、ここでは同一の冷蔵庫の音に対して、テクストによる描写と五線紙による転写という二つの異なる“reduction/abstraction”の方法論が与えられていることになる。
 こうした(音的)世界の観方を提示するものとしての楽譜の在り方は、例えば言語派の詩人(Language poets)の代表的人物の一人であるCharles Bernsteinが語る言語と世界の関係に似ている。

私たちが世界を経験するのは言語を通してであり、意味が世界の中に、そして存在の中にもたらされるのも言語を通してなのである。[……]私たちが言語を学ぶこととは、その言葉を通して一つの世界の観方を学ぶことなのだ。

Charles Bernstein, “Thought’s Measure,”  L=A=N=G=U=A=G=E, Vol. 4, Ed. with Bruce Andrews [co-published as Open Letter 5:1, Toronto], 1982,7. http://eclipsearchive.org/projects/LANGUAGEvol4/contents.html  [accessed 09/11/2021]

言語が「世界の観方」を提示するものであるとするこの言説自体には、人はそこまでの新奇性を見出さないかもしれない。しかしながら、私が言語派の多くの詩人たちに興味を抱くのは、言語に記号的な負荷を掛けることによって、言語の「言葉性wordness」や「不透明性opacity」を強調しようとしたことにある── 私が後段で詳述する「楽譜の不可能性」という考えは、Jackson Mac Low、Susan Howe、Hannah Weiner、そしてDavid Antinといった、程度の差こそあれ言語派と何らかの関わりを持った詩人たちのテクストから多くの影響を被っている。例えば上に引用したBernstein(1982)では、後段で以下のように述べられている。

言語を可能な限り透明transparentにするというよりもむしろ、──その際には言語の他の性質は、(言葉性wordnessや構造が見えないものthe invisibilityであるという錯覚を文体として作り上げることによって)技術の問題として抑圧されるのだが──この態度は不透明性/稠密性opacity/densenessに、すなわち媒体を半透明translucentとすることを通した言語の可視性the visibilityへと向けられている。

Ibid., 12

言語をあたかも透明なものとして考えるのであれば、専らその言語による伝達内容が問題となり、言語のあらゆる要素はその伝達のための「技術の問題」、すなわち文体論的な努力によって「見えないもの」へと追いやられるだろう。ところがBernsteinにおいて主眼は言語そのものに向けられており、すなわち言語に対して負荷を掛けることによってその「不透明性」を開示し、言語の「言葉性」を「可視化」することが中心的な問題となっている。
 こうしてBernsteinの提起する言語の「言葉性」、「不透明性」、「可視性」は、John Cage自身が詩人として言語派に非常に接近していた時代に述べた「言語の不可能性impossibility of language」としても理解することができるかもしれない[5]John Cage and Daniel Charles, For the Birds (Boston: M. Boyars, 1981), 113.。つまり、言語は「何を云わんとしているのか」の全てを転写可能な媒質ではないのであり、言語自体の開示する抵抗、言語の不可能性に目を向けるとき、言語のもう一つの異なる世界が開示されるのである。
 たとえ何かを言おうとするときに於いても、言語自体がそうした“reduction/abstraction”に抗うということが在り得るように、楽譜も作曲家の表現を転写する「透明」な媒体では決してない。しかしながら、こうした「楽譜性」、すなわち楽譜の「不透明性」や「不可能性」に着目した例にはどのようなものがあるだろうか。
 Aeberhand(2017)によれば、第二次世界大戦の直後から「電気音響工学的にどのようなノイズのパターンも記録、保存、配分し、その全てのレヴェルにおいて文字通り技術的に操作し、分配するという可能性が[……]音楽を書き記すということと書き記された音楽に関する概念自体を完全に改変」するという思想的転換が起こった[6]Simon Aeberhard, “Writing the Ephemeral: John Cage’s Lecture on Nothing as a Landmark in Media History,” Journal of Sonic Studies, no. 13, 2017: 5. … Continue reading。すなわち、楽譜そのものの存在可能性──何を書き記すことができ、何を書き記すことができないのか──が問いに付される時代が、20世紀半ばに開始したことになる。音響工学的技術によってもたらされたこうした楽譜の表象(不)可能性への問いかけというパラダイムには、上に挙げたOliverosのみならず、一定の中断の時期を経ながらも、その長いキャリアが20世紀の後半まで及んだEdgard Varèseも属する。例えばVarèse(1966)では以下のように述べられている。

私は確信している、作曲家がグラフを用いた楽譜を実現した後に、この楽譜が自動的に機械の上に載せられ、忠実に音楽的内容を伝達する時代が来ることを。周波数や新しいリズムが楽譜に記されなければならないので、我々の現行の記譜notationは不適切となるだろう。新しい記譜はおそらく振動計の形を取るだろう。

Edgard Varèse and Chou Wen-chung, “The Liberation of Sound,” Perspectives of New Music, vol. 5, no. 1, 1966: 12.

「機械」との関わりにおいて「現行の記譜notationは不適切」であると述べるVarèseは、ここで確かに楽譜の不可能性を認めている。しかしながら、Varèseが夢想するのは振動計の形を取った新しい楽譜システムが「自動的に[……]忠実に音楽的内容を伝達する時代」、すなわち現行の楽譜の不可能性が超克され、楽譜が再度「透明なもの」となる未来なのである[7] … Continue reading
 Aeberhard(2017)の設定する音響工学的技術によってもたらされた楽譜の不可能性への問いかけというパラダイムには、民族音楽の記録という観点から録音技術について考察したCharles Seegerや、電気音響工学的技術の編入を最初期から模索していたJohn Cageも同様に属している。しかしながら、SeegerとCageの両者は楽譜の「楽譜性」、すなわち楽譜を「不透明」なものとする記号表象システムを詳細に分析することで、「楽譜の不可能性」の新たな地平──それもVarèse(1966)において表明されたような、楽譜が透明化される未来を夢想する立場とは全く異なる地平──を提示した。既に述べたように、私自身の創作の関心はこの楽譜の不可能性に向けられている。したがって、この二人の言説、作品を詳しく検討したい。

 例えば、Seeger(1958)における以下のような言説は、Varèse(1966)におけるそれとの違いを明確に表している。

私たちは、 “music” (「音楽」)について語るときはおろか、“a music”(「音楽」)について語るときでさえ、新たな語彙を作り出す以上のことをしてこなかった。[……]私たちは、私たち自身以外の “musics”(「音楽」) に関する誤認を、“bi-musicality” を培うことによって正すことができるだろう。 

Chaerles Seeger, “Prescriptive and Descriptive Music-Writing,” The Musical Quarterly 44, no. 2, 1958: 193–195.

ここでSeegerが用いている‘a music’という特殊な語法は、同時に存在する他のother音楽を示唆する。Seegerにおいては、 “a music” という語はとりわけ西洋古典音楽を意味すべく用いられている。この語は、支配力を持つ文化、すなわち西洋近代の音楽文化を複数主義の中に──範的音楽概念としての “the music” なるものが消失する地点に──浸してしまう意図と共にある。どんな音楽も、共存する ‘musics’ の中のある特定の一つの種類に過ぎない。そして、‘bi-musicality’ ‘a music’ と他の音楽( ‘another music’ )との対話を開始するだろう……一方で、Varèseにおいてはこうした複数性は抹消される。というのも、彼が「自動的に[……]忠実に音楽内容を伝達する時代」への夢を語る際には、明らかに単一の「音楽」(“the music”)を書き記すことのできる透明な媒体としての楽譜の将来が指向されているのだ。

 仮にSeegerが50年代に語った複数性へのヴィジョンが、現代の観点からして些かナイーヴに映るということがあり得るとしても、音楽世界の存在の複数性を、楽譜の「楽譜性」の分析──すなわち楽譜の記号表象システムそのものの持つ「不可能性」の分析──を通して示したSeegerの言説は、私の知る限りでは他に例を見ない。例えば上に引用したSeeger(1958)の冒頭は、次のように楽譜というシステム自体への分析から開始する。

音楽を書き記すという実践の中には三つの危険が内在している。一つ目の危険は、音楽の全ての聴覚的パラメーターが部分的な視覚的パラメーター──すなわち、二次元しか持たない、水平な表面の上に記されたものとしてのパラメーター──によって表象されるという想定にある。二つ目は、音楽書記が発話書記に遅れをとったという歴史的隔たりを無視したこと、そしてその結果として、聴覚的シグナルと視覚的シグナルを一致させる音楽書記に、発話に関する技術が慣習的に干渉してきたことにある。三つ目は、指示的prescriptiveと描写的descriptiveという音楽書記法における区分──すなわち、特定の音楽作品がどのように鳴らされるべきかという青写真と、その特定のパフォーマンスが実際にどのように鳴ったかという報告の間に引かれるべき区分──を見誤ってきたことにある。

Ibid., 184.

すなわち、Seegerにおいては「音楽の全ての聴覚的パラメーター」が、「視覚的パラメーター[……]によって表象される」という想定自体を「音楽を書き記すという実践」における「一つ目の危険」であると述べることによって、楽譜の不可能性を論考全体の前提としている。そして「三つ目の危険」を指摘する際に提示された「指示的prescriptive」と「描写的descriptive」という二つの書記区分は、こうした不可能性の分析において非常に有効な指標となる。
 Seeger自身の言説に基づき、この二つの書記機能を簡略に分類すると以下のようになる。

指示的prescriptive⇔ 描写的descriptive
「どのように鳴らされるべきか」 「実際にどのように鳴ったか」
「主観的subjective」 「客観的objective」[8]Ibid., 184–185.

すなわち、楽譜上における「どのように鳴らされるべきか」を示す記号は指示的書記の機能を担い、「実際にどのように鳴ったか」を示す記号は描写的書記の機能を担う。楽譜は通常、この二つの書記機能の複雑な絡まり合いから成り立っている。例えばHelmut LachenmannによるAllegro sostenuto(1986-88)の楽譜には以下のような注意書きが記されているのだが、

引用符で括られたフォルテ記号(例えば、fff或いはmf)は客観的な音の強さの結果ではなく、演奏における(„主観的な“)強度への努力を表す。

Helmut Lachenmann, Allegro sostenuto (Wiesbaden: Breitkopf & Härtel, 2003).

Seegerの二分法に従えば、ここでは引用符で括られた強弱記号(例えばfff)は「主観的な強度を[……]表す」記号、すなわち指示的書記となる。そして、引用符で括られていない強弱記号(例えばfff)は、「客観的な音の強さの結果」を示す記号、すなわち描写的書記としての機能を担う。
 例えば、「この記号は弾く強さを書いているのか、それとも鳴る強さを書いたものなのか」という質問が演奏の現場でしばしば作曲家に向けられるように、強弱記号をめぐるこうした混乱は楽譜の読解における煩雑さを生じさせるものなのだが、こうした「弾く強さ」、「鳴る強さ」の区分は、実際のところ紛れもなく指示的書記、描写的書記の区分に他ならない。

 このことは、言葉を変えれば、この二つの指示的prescriptive、描写的descriptive書記が混同される際には、楽譜上の記号体系は混乱している、ということを意味する。実際John Cageの作品の多くにおいては、この二つの書記機能の意図的な攪乱が確認できる。その典型的な例として《4’33’’》(1952)を挙げたい。
 例えば、David Tudorによるウッドストックでの初演時の記録に基づいて、以下のように《4’33’’》を書き直すとき何が起こるだろうか。

4分33秒間何も演奏しないこと。0秒の時点でピアノの蓋を閉める。33秒の時点で蓋を開け、閉める。3分13秒の時点で蓋を開け、閉める。4分33秒の時点で蓋を開ける。

ここでは可能な限り指示的書記、すなわち何を行うかを規定する書記のみが含まれるように意図的に記した。したがって、記号的混乱から生じる曖昧さは少ないと言えるだろう。一方で、こうした極度の簡略さは、Cageが初演時に聴いた音として回想するところの「戸外で風がそよぐ音、[……]雨粒が屋根の上に落ち始める音、[……]人々が話したり出て行ったりするあらゆる種類の興味深い音」の何をも喚起しない[9]Richard Kostelanetz, Conversing with Cage (London: Routledge, 2003), 65.。しかし、この作品が何らかの形で沈黙に関わるものであるとすれば、沈黙に関する書記法は伝統的な書記の中にどれほど存在するだろうか。
 最もよく知られた《4’33’’》 の版は、楽章を示すために“I, II, III”というローマ数字が記され、その各々の楽章に“TACET”という文字が記されたものだろう。この“TACET”の楽譜も、上に私が指示的書記のみで書き直すことを試みたテクストと同様、記号的混乱は無いと思われるかも知れない。とりわけこの作品のことを既に知っている者からすれば、この楽譜をどのように読むのか分からないという事態はほぼ起こり得ないだろう。しかしながら、そうした先入見を可能な限り排して楽譜上の記号のみを観察しようとすれば、ここには楽譜上の書記機能の意図的な攪乱が確認できる。例えばOuzounian(2011)は、この記譜における“tacet”という語の使用法に関して次のような指摘を行っている。

ラテン語から翻訳すれば、“tacet”は ‘it is silent’ という意味である。西洋音楽の伝統においては、この指示は慣習的に「沈黙の状態にとどまっていること‘remain silent’」と解釈され、「沈黙を演ずること‘perform silence’」とは質的に異なる。通例、この語に直面する音楽家たちは、沈黙を含めた何をも演ずることはない。逆に、彼らが沈黙しているということは、彼らが音に帰結するどのような行為も行わないこと、何もしないことを意味するからである。したがって、[……]《4’33’’》 は、[……]第一義的にテクスト上の企てtextual enterpriseであるか否かという観点からすると、言語による楽譜ではない。《4’33’’》 は、根本的に非慣習的な方法が適用されているにもかかわらず、第一に、そして最も重要なこととして音楽上の楽譜なのである。

Gascia Ouzounian, “The Uncertainty of Experience: On George Brecht’s Event Scores,” Journal of Visual Culture 10, no. 2, 2011: 3–4.

ここでOuzounianが《4’33’’》に関して指摘する、“tacet”という語の「根本的に非慣習的」使用法は、指示的prescriptive、描写的descriptiveという二つの書記をめぐる議論として読みなおすことができる。すなわち、上のOuzounianの議論から、西洋音楽の慣習上、そもそも“tacet”という記号には「どのような行為も行わないこと」を示す指示的書記、そして「沈黙の状態にとどまっていること‘remain silent’」を示す描写的書記の二つの機能が同時的に余剰として存在しているということが帰結できる【表1】。

【表1:慣習的な楽譜における“tacet”】

指示的書記どのような行為も行わないこと
描写的書記沈黙の状態にとどまっていること‘remain silent’

 そして、《4’33’’》 における“tacet”が「根本的に非慣習的」であるのは、この二つの書記機能の役割が双方を互いに擬態mimesisしていることによるのだ[10] … Continue reading。【表2】つまり、慣習上「沈黙の状態にとどまっていること‘remain silent’」を示してきた“tacet”の描写的書記機能は、《4’33’’》においては「沈黙を演ずること‘perform silence’」という指示的書記機能を担っており、したがってここでは指示的書記が描写的な書記を擬態している。そして、「沈黙を演ずること‘perform silence’」によって喚起される世界の音──例えばケージ自身による初演時の回想によれば、「第一楽章においては戸外で風がそよぐ音、第二楽章においては雨粒が屋根の上に落ち始める音、そして第三楽章においては人々が話したり出て行ったりするあらゆる種類の興味深い音」──へ差し向けられた描写的書記は、慣習上は「どのような行為も行わないこと」を示してきた指示的書記を擬態している。

人々は誤解していたのです。沈黙などというものは存在しません。彼らが沈黙だと思ったものは──それは彼らがどのように聴くべきか知らなかったからですが──偶発的な音に満ちていたのです。

Richard Kostelanetz, Conversing with Cage (London: Routledge, 2003), 65.

【表2:《4’33’’》 における“tacet”】

指示的書記沈黙を演ずること‘perform silence’
描写的書記戸外で風がそよぐ音、雨粒が屋根の上に落ち始める音、人々が話したり出て行ったりするあらゆる種類の興味深い音、etc.…

 

   

Cageが語るような意味での沈黙──それ自体存在し得ないものとしての沈黙──を書き記すための記号は、Ouzounianが指摘するように、伝統的な書記法の中には存在しない。ここでは「楽譜の不可能性」を以てして、すなわち楽譜上の書記機能を意図的に混乱させることによって生じる余剰によって、「存在し得ない沈黙」への表象が指向されているのだ。
 こうした記号的混乱は、《4’33’’》の異なる版においても確認できる──冒頭に引用したPaikとの会話にもあるように、Cageにおいては「記譜と音とを隔てることはできない」。ウッドストックにおける1952年8月29日の初演の際に使用された楽譜は、現在のところ散逸している。しかしながら複数の記録から、《4’33’’》 初演時の楽譜がより伝統的な体裁、すなわち五線紙上に書かれたこと、そして同時に、こうした五線による記譜においても「根本的に非慣習的」な書法が採用されたことが推定できる。例えばAeberhard(2017)によると、David Tudorは二回にわたりこの楽譜の再現を試みている。この「第二版」、すなわち1989年にTudorの試みた二度目の再現において、楽譜は8枚の五線紙から成っている。楽譜の各々にはト音記号とヘ音記号が記され、小節線が引かれているが、音符や休符などは一切記されていない。ローマ数字によって示された三つの楽章の冒頭には、以下のような記載がなされている。

60♩=2½ cm

4/4

ここに示された“60, ♩=2½ cm, ↔, 4/4”という記号の群を整理すると、「BPM60で4分の4拍子という指示に従い、原寸大の矢印によって与えられた2.5センチメートルという長さの単位を楽譜上の四分音符(♩)の時間的長さに変換して読む」ということを意味する。せめて “2.5cm=1 sec.”、つまり「2.5センチメートル=1秒」と表記すればより簡潔に表示されそうな気がするのだが、ここでは長さの尺度(センチメートル)に対応するものとして、テンポの指示(BPM60で4分の4拍子)が採用されているのである。Aeberhard(2017)はこうした表記法に関して、「尺度とテンポの二重指示double-indicationは、もしも人を惑わすものでないならば、過剰redundantであるのみならず無益である」と述べている[11]Simon Aeberhard, “Writing the Ephemeral. John Cage’s Lecture on Nothing as a Landmark in Media History,” Journal of Sonic Studies, no. 13, 2017: … Continue reading
 つまり、明らかに、ここでの楽譜上の書記は混乱しているのだが、“TACET”版の楽譜と同様に、記号は必然的に混乱していなければならない──Aeberhard(2017)がこのTudorによる再現(第二)版に関して主張しているように、「音楽的な記譜Musical notationはここでは音楽のための(体系化された)記号codeの役割を最早果たさない。反対に、これらは(定義上は)本質的に書くことのできないものを記入しているのだ」[12]Ibid.。すなわち、存在し得ない沈黙を書くためには、楽譜上の書記機能は余剰が生じるに至るレヴェルまで攪乱される必要がある[13]例えば比較的近い時期に発表されたMusic of Changes(1951)においては、このTudor版《4’33’’》 … Continue reading
 こうした楽譜上の書記機能の記号的混乱によって開示された「楽譜の不可能性」による創作は、1950年代後半から1960年代にかけて独自の系譜を辿っていくことになる──Cage自身が「不確定性indeterminacy」へと向かうのとほぼ同時期に、彼がNew School for Social Researchで行った“Experimental Composition”に出席していた数名のアーティストは独自の方法で「楽譜性」、すなわち楽譜の「不透明性」の開示の方法を探求し始めた。
 例えばGeorge BrechtによるWater Yam(1963)には、次のような課題EXERCISEが提示されている。

Consider an object. Call what is not the object “other.”
EXERCISE: Add to the object, from the “other,” another object, to form a new object and a new “other.” Repeat until there is no more “other.”
EXERCISE: Take a part from the object and add it to the “other,” to form a new object and a new “other.” Repeat until there is no more object.

一つの物体について考える。その物体ではないものを「他のもの」と呼ぶ。
課題:新しい物体と新しい「他のもの」を形作るために、その物体に「他のもの」からもう一つの物体を加えること。これ以上「他のもの」が無くなるまで繰り返す。
課題:新しい物体と新しい「他のもの」を形作るために、 その物体の部分を抜き出して「他のもの」へと付け加えること。これ以上その物体が無くなるまで繰り返す。

George Brecht, Water Yam (New York: Fluxus Editions, 1963)

ここではCageによって開示された「楽譜の不可能性」の探求は、よりラディカルに推進されている。というのも、ここで提示されたテクストを実行すること、つまり「楽譜を演奏する」ということはどういうことなのか、という避けがたい問いが生じるからである。このテクストが何かを読み手に喚起せずにはおかないことは確かなのだが、仮にこのテクストに指示されているようにこの世界の全ての「もの」を網羅し尽くすことがそもそも可能であるとしても、この楽譜の演奏に関する問いは依然として残る──このテクスト実践は、受け手が頭の中で行った際に完了すると考えるべきなのか、それともこの指示を何らかの隠喩として捉え、実際に舞台上の何らかのパフォーマンスのようなものを想定するべきなのか。Yoko OnoによるCLOSET PIECE III(1964)も、同様の問いを提起する。

Kill all the men you have slept with.
Put the bones in a box and send it out into the sea with flowers.

あなたと寝たことのある全ての男を殺すこと。
骨を箱に入れて、花々と一緒に海へ送り出すこと。

Yoko Ono, Grapefruit: A Book of Instructions and Drawings (New York: Simon & Schuster, 2000).

Yoko OnoやGeorge Brechtによるこれらの「楽譜」によって、明らかに楽譜の「透明性」は一時的に停止する──少なくとも、楽譜が専ら作曲家の表現を演奏家へと伝達するために音を転写する媒介であるという幻想がここでは停止される。一方で、BrechtやOnoが明らかに作曲家であるように、ここでも楽譜は楽譜自体であることを止めない──ここではその表象の不可能性が慣習的な概念に抗うことによって、むしろ楽譜の「楽譜性」がより前面に押し出される──すなわち、「楽譜とはそもそも一体何なのか」という問いと共に、テクスト自体の物質性、身体性が避けがたく現前するのだ。
 すなわち、この地点に於いても、未だに作曲という行為は「楽譜を書く行為」に他ならないのであるが、今や楽譜を書くこととは音響的イメージを透明な媒体の上に転写することでは無い。楽譜の不可能性が、そうしたナイーヴな幻想を打ち破りつつ、同時に作曲の新たな地平を開示する──楽譜の不可能性は、もはや作曲という行為が音事象と関わる必然性すらどこにもないことを示している──私が創作を開始したいのはまさにこの地点からであり、したがって楽譜というものの存在に大いに囚われていながらも、その楽譜は少なくとも慣習的な捉え方における楽譜ではないのだ。
 John Cageが「記譜と音とを隔てることはできない」と述べたとき、既に同一の音事象に対する複数の楽譜の存在が示唆されていた。同様にCharles Bernsteinが言語と世界とを分離不可能なものとしつつ、言語の不透明性を探求する際、“reduction/abstraction”に抗う言語自体が、もう一つの新しい世界を拓く可能性が生まれた。そしてOnoやBrechtをはじめとしたFluxusが楽譜の不可能性の探求を開始するとき、作曲という行為は必ずしも音事象と関わる行為ではなくなり、逆に世界の一つの観方を提示するというある種古典的な立場へと回帰する──この地点に於ける作曲という行為は、楽譜の思想に於ける非常に大きな違いはありつつも、Arnold Schoenberg(1950)がSchopenhauerの言葉を借りつつ「夢遊病者」として述べるところの役割と大して変わりはない。

Schopenhauerさえ、彼の驚異的な思想に於いて、初めは余すところなく音楽の本質に関して語っているのだが、後にその理性によっては理解できない言語の詳細を我々の言葉に翻訳しようとする際には、むしろ彼自身を見失ってしまうのだ。──「作曲家は世界の内奥に潜む本質を開示し、彼の理性によっては理解できない最も深遠な叡知を語るのだ、まるで目覚めている際には何一つ分かっていない物事について、蠱惑的な夢遊病者が明かしてみせるように。」──しかしながら彼自身、この人類の言語を用いた語彙への翻訳──それは理解できるものへの捨象-抽象化abstraction、縮小-還元reductionに他ならないのだが──において、本質的なもの、世界を語る言葉the language of the world──それはおそらく理解不能にとどまり[その存在が]感知できるのみであるだろう──が失われてしまうということを了解しているに違いない[14]日本語訳における傍点強調は、原文における斜体に対応する。

Arnold Schoenberg, Style and idea (New York: Philosophical Library, 1950), 1.

楽譜の「不透明性」──すなわち、その表象体系自体が“reduction/abstraction”への抵抗として示す「楽譜性」──を強調することで開示される楽譜の「不可能性」が、──別の言葉で言えば、「理性によっては理解できない言葉」が、──「世界を語る言葉」として再度「世界の内奥に潜む本質を開示し[……]最も深遠な叡知を語る」のを願うこと。私が願うのは、不可能性によって開示されたこの「世界」── しかしながら、“the world” ではなく、複数性を示唆する“a world” として在るところの「世界」──において楽譜を書き始めることである。

2.“Displacement” 

 私の創作における基本的な操作は“displacement”である。この語は、一つの位置からもう一つの位置へと何かを置き換えることを表す。この意味において、前節で見たBrechtによる“EXERCISE”も“displacement”の一種である:

Add to the object, from the “other,” another object, to form a new object and a new “other.”
新しい物体と新しい「他のもの」を形作るために、その物体に「他のもの」からもう一つの物体を加えること。

Franz Schubertの作曲でよく知られているFranz von Schoberの詩による歌曲An die Musik中の一節も“displacement”である:

Hast mich in eine bess[e]re Welt entrückt! 
私をより良い世界へと連れ去った

Franz Schubertの作曲でよく知られているWilhelm Müllerの詩による連作歌曲Winterreise(『冬の旅』)は全24曲から成っており、その全てのテクストの構成のために約2,000語が使用されている。岡千穂に依頼して、これらの語の全てを自由に並び替え可能なウェブサイト”Displacement/Der Winterreise”(https://conychang.github.io/winterreise/)を作成してもらった。このプロジェクトはparadigmatics と名付けられ、カリフォルニアのCalArts Wild Beastで行われた個展、“Displacement: Teppei Higuchi’s DMA Recital”において初演された[15]paradigmatics [2020] – at the CalArts Wild Beast, in California, USA, on February 26, 2020. https://youtu.be/ezy8fTLHhAM
 このプロジェクトは、Winterreiseの約2,000語を並び替えて“happy”にする、というものだった。例えば、有名な第一曲目“Gute Nacht”の冒頭は次のようなテクストで開始する。

Fremd bin ich eingezogen,
Fremd zieh’ ich wieder aus,
Der Mai war mir gewogen
Mit manchem Blumenstrauß.
Das Mädchen sprach von Liebe,
Die Mutter gar von Eh’.
Nun ist die Welt so trübe,
Der Weg gehüllt in Schnee.
よそ者としてやって来たわたしは
再びよそ者として旅に出る。
あの時五月は沢山の花束で
わたしをもてなしてくれた。
娘は私を愛しているといい、
その母は結婚を許すとさえいった。
今あたりはこんなにうらがなしく、
道は雪ですっかり覆われている[16]志田麓『シューベルト歌曲集2:冬の旅』(全音楽譜出版社, 2008年), 114頁。

このテクストをWinterreiseの約2,000の語彙を用いて“happy”に改変することを試みた結果、次のようなテクストができた。

Fremd ist sie eingezogen,
Steht nun vor meinem Haus,
Der Mai ist mir gewogen
Mit manchem Blumenstrauß.
Das Mädchen spricht von Liebe
,Die Mutter gar von Eh’.
Nun ist die Welt so stille,
Der Weg gehüllt in Schnee.
よそ者としてやって来た彼女は
今私の家の前に立っている。
五月は沢山の花束で
私をもてなす。
娘は私を愛しているといい、
その母は結婚を許すとさえいう。
今世界はとても穏やかで、
道は雪ですっかり覆われている。

 OPEN SITE 2018-2019公演『米田恵子(1912-1992)の作品と生涯について』(TOKAS本郷)における基本的操作は“displacement”である。
 想像上の人物米田恵子はThéâtre Musical Tokyoの共同作業によって生み出された。米田恵子の生没年はJohn Cage(1912-1992)と同じであり、米田恵子の音楽作品はベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲から、ドミソの3音のみからなる全1158の部分を抜き出したものである。米田がベートーヴェンのピアノ・ソナタ解体へと従事した論拠として、山田耕筰の次のようなテクストが引用される。

[…]今の武器による戰爭が輝かしき勝利を以て終へた時、直ちに移る次の活動は文化活動である。即ち筆による戰爭である。凡ゆる藝術はこれに動員されるが、そのうちでも音樂こそは最も有能な武器であるから、我々は今からこれを準備して具へておかねばならない。[…]大東亜戰爭を完遂させるための創作活動は自ら國民音樂建設の一助であり、単なる島國日本の國民音楽でなく、大東亜の讃頌歌であらねばならぬ。その意味で之からは根本に於て壮美的なものを作曲しなければいけない。[…]ベートヴェンの作品が長い生命を持ってゐるのは、根本に壮美精神があり、男性的力が作品基調となってゐるからである。

山田耕筰「大東亜戰爭と音楽家の覚悟」『音楽公論』, 1942年1月号: 18-19頁。

John Cageの生没年、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ、山田耕筰のテクスト等、ありとあらゆるものの“displacement”……米田恵子が晩年に日記に記した以下のステートメントも、Edward W. Said (1993)におけるステートメントの“displacement”である。

芸術家とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。

「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である。」──エドワード・W・サイード『知識人とは何か』大橋洋一訳(平凡社,  2008年)。

現行の楽譜制度において──つまり「作曲≒楽譜」という換喩metonymy的関係性が「作曲コンクール≒楽譜の価値」という別個の換喩的関係によって管理されることを許容する現行の制度において──米田が述べるところの「亡命者、周辺的存在、アマチュア……」は不可視の存在へと追いやられてしまう。
 果たして、「コンクールを作曲する」という隠喩metaphor的関係性は可能だろうか──「作曲≒楽譜」、「作曲コンクール≒楽譜の価値」といった換喩的関係性を隠喩的関係性へと転覆する、関係性自体の創造的置き換え、すなわち“displacement”として──「隠喩と換喩の間の差異は作ることと見ることの間の差異である」[17]Harry Berger, Figures of a Changing World: Metaphor and the Emergence of Modern Culture (New York: Fordham University Press, 2015), 23.  … Continue reading

第一回米田恵子国際作曲コンクール(抜粋)

 この度、KYICC 2021 Committee はトーキョーアーツアンドスペースOPEN SITE 6 に於いて、第一回米田恵子国際作曲コンクール本選会を開催いたします[18]https://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2021/20211211-7071.html

[……]

 KYICC 2021 Committee は本選会に於いて、最も独創性が認められる作品に対し以下の賞を授与します。

   米田賞(賞金十万円)

[……]

a. ドミソの三音のみを用いて作曲すること*。 

*ただし、「ドミソの三音のみ」という規定をどのように解釈するかは、応募者に委ねることとする

[……]

d.[……]楽譜の定義に関し、KYICC 2021 Committee は慣習的な五線による記譜のみならず、グラフィック・スコア、テクスト・スコア、オーディオ・スコア、ビデオ・スコアなど、データとして共有可能な全ての媒体を提出楽譜とみなす[19]https://drive.google.com/file/d/1GN8SwzHe-jOzlAjMtWiHdeahYTw-YYPY/view?usp=sharing

 「ドミソの三音のみを用いて作曲すること」を、数曲の器楽作品において試みている。String Quartet in C Major(2020)において目指したのは「ドミソの不協和性」を構造的な不均衡によって開示することであった。近代西洋音楽の和声理論は、倍音列の参照を参照したり、トニック、サブドミナント、ドミナントといった調性的な統語法を構築したりすることによって、ドミソの三和音を均整の概念の中に置こうとしてきた。この作品の基本的な構造は、同一の時間的長さを持つ「A+A‘」である。Aパートに関する基本的規則は「ドミソの三音によるいかなる持続も許容すること」。したがってここではテンポ、リズム、強弱、楽想の変化を多用しながら、同時にこうした変化が均整を持った形式的な枠組み(例えば「ABA」といった)の中に収斂されないよう心掛けた。A‘パートは次のテクストによる指示のみから成る。

(全オクターブ上のC, E, Gの中から)一音を選び、この曲の中で起こったことを忘れるか、或いは回想すること(どちらかを選ぶこと)ができるように、今まで演奏したのと同じ長さだけその音を静かに引き伸ばすこと。

https://youtu.be/aCucmLuvmj0

 米田恵子のプロジェクトと並行して現在進行しているのはDer Wegweiserの連作である。
 現在2作品が制作され、Der Wegweiser IはカリフォルニアのCalArts Wild Beastで行われた個展“Displacement: Teppei Higuchi’s DMA Recital”において初演された。Der Wegweiser IIはオーストリアのHallstatt AIR 2021のプログラムの中で、演奏会、講演、展示という複合的な形で初演、発表された。

 Der Wegweiserの連作における基本的な目標は、「楽譜⇔地図」の“displacement”である。前節で指摘した「楽譜の不可能性」、すなわちその二次元の表象自体の記号的な限界におけるのと同様に、地図の基本的な役割も“reduction/abstraction”である。例えば、Kitchin&Dodge(2007)は次のように書いている。

学習された知識と技術に基づく幾つもの実践がインクを地図へと(再)変質する。この創造は、これら実践が呼び起こされる度いつも生じている──点、線、区域のまとまりが地図として認識される。解釈され、翻訳され、そしてその枠組みの中での機能を果たすよう作り変えられて……このようにして、地図は絶え間ない生成の状態の中にあり、絶え間なく再創造されているのだ。

Rob Kitchin and Martin Dodge, “Rethinking Maps,” Progress in Human Geography 31(3), 2007: 335.

Kitchin&Dodgeが地図について述べたのと同様の主張は、 Seegerによる楽譜についての論述にも見られる。

[……]その書記法の作法への知識や、口頭の(或いは、より良く言えば聴覚の)それに付随する作法をも含めた知識が無い限りは、誰もその記譜を記した者が意図したように鳴らすことはできない[……]。この聴覚的な作法には慣習的に、「音符と音符の間に起こること」の知識の大部分が託されている[……]。

Charles Seeger, “Prescriptive and Descriptive Music-Writing,” The Musical Quarterly 44, no. 2, 1958: 186.

こうした「音符と音符の間に起こること」をめぐる実践的側面が忘れ去られることで、二次元の平面上に置かれた点や線に過ぎない楽譜が音事象を直接転写するという印象を与えるのと同様、地図も世界の構造を直接転写する「透明」なものとなる。

de Certeau が示したように、地図はそれを作った実践の全てを削除し、世界の構造から直接に地図の構造が生じるという印象を作り出す。

Tim Ingold, Lines: a brief history (London: Routledge, 2007), 24. またここに挙げられているde Certeauの該当箇所は、以下を参照──Michel de Certeau, The Practice of Everyday Life, 3rd ed., trans. Steven F. Rendall (Berkeley: University of California Press, 2011), 120–121.

Fluxusにおける「楽譜の不可能性」の探求が(音楽)世界の異なる見解を提示したのと同様、Der Wegweiserのシリーズにおける地図表象の不可能性の探求は、Tim Ingold(2007)の指摘する地図作成において忘れ去られた「実践」を再度可視化し、(地図)世界の異なる見解を提示することを目指している。Der Wegweiser Iはニューヨークに住んでいた当時の恋人の部屋に滞在していた際に、Der Wegweiser IIはArtist in Residence Programとしてオーストリアのハルシュタットに滞在していた際に創作された。

Der Wegweiser I

 2019年12月31日、ハドソン川沿いを散歩中に、石ころで何かを熱心に地面に描く浮浪者のような中年男性に出会う。この男性は「弦楽四重奏」を書いているのだと言い、歌い始める。感銘を受けた私はこの地面に書かれた「楽譜」を写真にとる。年明けにカリフォルニアに戻った後に写真を紙の上に転写し、演奏者に楽譜として手渡すことでカリフォルニア芸術大学での初演を呼びかける……

Der Wegweiser [2020] at the CalArts Wild Beast, California, USA, February 26, 2020. https://youtu.be/KngRZ-p3BKM

Der Wegweiser II

 私が東京で修士課程に在籍していた時代(2013-2016年)の同級生、大野里花(1989-)は2019年5月にオーストリアを訪れ、その後消息を絶つ。私がArtist in Residenceに滞在中の2021年5-6月に、ハルシュタットでいくつかの遺失物──ノートブック、服、切符など──を発見し、これらが大野里花の持ち物であり、彼女が現在もハルシュタット近辺に生存していると断定する。これは現在まで行方不明となっている大野里花捜索のためのプロジェクトである。
 大野のノートブックを調査する中で、彼女が自作の文字によってハルシュタットの地図の「書き換え」を行っていたことが判明する。大野はハルシュタットをシュヴァラ・シュヴァディの地Land of Schwara-Schwadiと名付け、ノートブックには自作の文字と土産物屋で見つけた置物のポラロイド写真、ジャズ演奏家と車と船のクラクションによる演劇作品In the Land of Schwara-Schwadiが記されている。Hallstatt AIR 2021 Projectにおいて、私はこの演劇作品In the Land of Schwara-Schwadiの抜粋を演奏すると共に、大野里花の遺失物の展示を行い、講演において大野里花の捜索を聴衆に呼びかける……

https://www.de-zentral.at/der-wegweiser-ll/

これら二つの物語は虚構であり、ハドソン川沿いで出会った浮浪者のような男性も大野里花も想像上の人物である。詩人Fernando Pessoaは、自身が“heteronyms”(異名)と呼ぶいくつもの異なる名前の下に異なるテクストを制作した。そして、これらの人物の全てが世界に関する異なる見解を持っている。Pessoaは彼の“heteronym”の一人、Bernardo Soaresに次のように語らせている。

どんな夢も、私がそれを夢見ると直ちに、別の人物の中に具現化される。その時にはその夢は私ではなく、この人物が見ているのである。創造するために、私は自己を破壊した……私は複数の役者が複数の戯曲を演じるための空っぽの舞台に過ぎない。

Fernando Pessoa. A Little Larger Than the Entire Universe: Selected Poems. trans.  Richard Zenith (New York: Penguin Books, 2006), xxiii.

私自身も、米田恵子や、ハドソン川沿いで出会った中年男性、大野里花といった架空の人物に基づく創作において、Pessoaと類似した見解を持っている。私は私の創作において、これらの想像上の人物が提示する地図や楽譜──Pessoaの言うところの「複数の役者」/「複数の戯曲」──が、一貫した世界観を提示する二次元上の表象という幻想を破壊し、相互に矛盾する世界の見方の複数性へと向かうことを目指している。一方で、Pessoaとは異なり、私は私の(共同)制作における想像上の人物を、自分自身の異名や分身であるとは考えていない。私はこれらの人物を一人称(私)ではなく三人称(彼女/彼ら)として語ることを好む。しかしながら、米田恵子や大野里花といったこれらの人物の存在を発見した一人称である「私」の発話において、私は私自身の主体の位置が微妙にずれるのを感じる。米田恵子、ハドソン川沿いで出会った中年男性、大野里花……等に関する発話行為を行う「私」自身の声は、これらの想像上の人物によって、これらの人物を語る以前の位置とは少しだけ異なる位置へと移行する。主体性の“displacement”──架空の人物という第三者の存在を借りた「私」という一人称の “displacement”。 ──「私」の声は私自身の声と異なるものとなり得るだろうか。このような問題意識の中で、私の “displacement”の創作は身体性やパフォーマンスへの問いへと移行しつつある。しかしながら、おそらくここで私が言うのは、私自身の身体を消し去ろうと努めることとは真逆のことであると思う。それはそもそも実現可能ではないし、「私」が見る複数の世界は、おそらく私の身体を通してしか感受され得ない。そうではなく、ここで問われているのは、私自身の発話や身体の限界を通して、再度世界の複数性へと通じる道を探すことの可能性である。こうした問いの最初の試みとして、私はKurt Schwittersの音声詩Ursonateの朗読を開始した[20]upcoming: Ursonate, composed by Kurt Schwitters, performed by Teppei Higuchi. Recorded at BUoY, Tokyo, Japan, on November 12, 2020, to be released on точка in January 2022. … Continue reading。昨年のロックダウンの中、──私は当時ブリュッセルにいたのだが、──滞在中の住居に私一人しかいなくなり、この作品を読み始めたとき、私は確かにあらゆる人間の発話を自分の声の中に聞いた──あくまでも演奏を自身の身体の持つ五つの母音(「あ、い、う、え、お」)、アクセント、イントネーションに依拠しながら。
 Displacementは、おそらく制約、そしてその制限の中に潜在する可能性への問いであるように思う。地図/楽譜、Winterreiseのテクストの約2,000語、ドミソの三音、日本語の五つの母音……といった制約の中に潜む無限の可能性を開示すること。そして私は作曲という語の定義自体も──この行為が常に制約との関わり合いの中で行われる限りにおいて──制約に潜む可能性を問うための全ての創造的行為を意味するものへと“displacement”したいと考えている。一方で創作を行うこの「私」は、こうして「作曲」や“displacement”という語が新たな定義の下に固着することを志向しておらず、むしろこうした制度化/体系化を嫌悪し、複数の世界の中で相矛盾する主体性へと向かいたいようである。

脚注

脚注
1 易経の使用などによって、記譜notationに関する言説がランダムに配置された特殊な体裁を取った楽譜のカタログである同書には、ページ数が記されていない。ここに引用されたNam June PaikとJohn Cageによる会話は、Lars-Gunnar Bodin作曲によるSemikolonの楽譜と同一のページ上に、無関係な形で挿入されている。また本稿に引用されている、原文が英語やドイツ語のテクストの日本語訳は、志田麓による《冬の旅》より„Gute Nacht“の翻訳を除き(註27)、全て執筆者(樋口)の翻訳による。
2 『広辞苑』第六版, (岩波書店, 2008年)。
3 私は2019年秋学期から2020年の春学期にかけて、カリフォルニア芸術大学(California Institute of the Arts)に在籍していた。コロナ禍の中にあり春学期中から全ての授業がオンラインに移行し、このMichaelとの会話は私がブリュッセルに滞在していた2020年春にZoom上で交わされた。
4  Pauline Oliveros, Software for people: collected writings 1963-80 (Baltimore: Smith Publications, 1984), 22.
5 John Cage and Daniel Charles, For the Birds (Boston: M. Boyars, 1981), 113.
6 Simon Aeberhard, “Writing the Ephemeral: John Cage’s Lecture on Nothing as a Landmark in Media History,” Journal of Sonic Studies, no. 13, 2017: 5. https://www.researchcatalogue.net/view/323127/323128/0/0 [accessed 09/08/2021]
7 Varèseによる、透明化される楽譜への夢想、すなわち楽譜の不可能性が超克される未来への歴史的空想は、上に引用されたテクストの直後に続く以下の言説においてより一層明確となる。「二つの時代の開始、中世の始原と我々自身の始原的時代(我々が今日の音楽における始原的段階に位置するからして)に、同一の問題に直面しているということは注目に値する。すなわち、作曲家の思考を音に置き換える図式的記号の探求における問題であり、一千年以上の隔たりを以てして我々はこの類似的関係にある。まさに譜表記法staff notationが発達する以前に使用されていた、太古の声のための表意記号的書記ideographic writingのように、我々の未だに始原的な電子楽器は、五線による記譜staff notationを捨て去り、ある種の振動計の書記を使用する必要性を喚起する。かつては音楽的指示記号の曲線が声の波動を示したが、今日では機械/楽器machine-instrumentが精確な設計指示を必要とするのだ。」── Ibid., 12. 尚、ここで述べられている「太古の声のための表意記号的書記」は、エクフォネティック記譜法ekphonetic notationのことを指すと思われる。
8 Ibid., 184–185.
9 Richard Kostelanetz, Conversing with Cage (London: Routledge, 2003), 65.
10 執筆者(樋口)は、2020年度国立音楽大学大学院に提出した博士学位論文において、Seeger(1958)の区分による指示的prescriptive、描写的descriptiveの二つの書記の操作による記号的混乱を「余剰による不確定性」と名付けた。執筆者はこの概念をGeorges Aperghisによる14 Récitationsに適用し、余剰による不確定性を以下の三つの類型、すなわち置換displacement型、擬態mimesis型、隠喩/換喩metaphor/metonymy型へ分類することを提案した。https://kunion.repo.nii.ac.jp/?action=pages_view_main&active_action=repository_view_main_item_detail&item_id=2428&item_no=1&page_id=13&block_id=21
11 Simon Aeberhard, “Writing the Ephemeral. John Cage’s Lecture on Nothing as a Landmark in Media History,” Journal of Sonic Studies, no. 13, 2017: 5.https://www.researchcatalogue.net/view/323127/323128/0/0 [accessed 09/08/2021]
12 Ibid.
13 例えば比較的近い時期に発表されたMusic of Changes(1951)においては、このTudor版《4’33’’》 の楽譜におけるのと同様の「尺度とテンポの二重指示」が与えられているのだが、Music of Changesではアッチェレランドやリタルダンドといった指示までもが与えられることにより、記号的な煩雑さは極限に至った。Cageは後年のインタヴューで、Music of Changesにおけるこれらの「アッチェレランドやリタルダンド」が、この時期まで適用していた彼のリズム構造による作曲法を「放棄する理由」となったことを述べている。── William Duckworth, Talking Music: Conversations with John Cage, Philip Glass, Laurie Anderson, and Five Generations of American Experimental Composers (New York: Da Capo Press, 1999), 11
14 日本語訳における傍点強調は、原文における斜体に対応する。
15 paradigmatics [2020] – at the CalArts Wild Beast, in California, USA, on February 26, 2020. https://youtu.be/ezy8fTLHhAM
16 志田麓『シューベルト歌曲集2:冬の旅』(全音楽譜出版社, 2008年), 114頁。
17 Harry Berger, Figures of a Changing World: Metaphor and the Emergence of Modern Culture (New York: Fordham University Press, 2015), 23.  Berger(2015)によれば、換喩(metonymy)とは、例えば「ワシントン」という語で「アメリカ合衆国政府」を表すような比喩のことであり、したがってその基本的操作は名前の「書き換え」である。換喩が成立するためには、この例における「アメリカ合衆国大統領官邸がワシントンに在る」という地理的関係の合意のように、示された事象の間の類縁関係が予め了解されている必要がある。隠喩(metaphor)における異世界間の虚構的な(例えば「私の恋人はバラである」といった)結びつきと比較して、換喩が前提するこのような類縁関係の了承は、比喩によって結ばれた事象をより「現実的」な関係として提示する。Berger(2015)は次のようにも述べている。「換喩(metonymy)は、既に存在しているよく知られた世界、現実の、複雑な、そして統合された一つの世界において作用する[……。]しかしながら隠喩(metaphor)は、互いに異なる世界の間に作用する──束の間で事実に反する『新世界』における統合の中でそれらは一時的に結び合わされるのだ」──Ibid., 23.
18 https://www.tokyoartsandspace.jp/archive/exhibition/2021/20211211-7071.html
19 https://drive.google.com/file/d/1GN8SwzHe-jOzlAjMtWiHdeahYTw-YYPY/view?usp=sharing
20 upcoming: Ursonate, composed by Kurt Schwitters, performed by Teppei Higuchi. Recorded at BUoY, Tokyo, Japan, on November 12, 2020, to be released on точка in January 2022. https://okachiho.net/dot0001.html?fbclid=IwAR0vfQddU2db2fmBJXFlBmKwgyH2SBhCDnEdJ1GTvFb4oh89hcap5TG-iU