こわれた家具の音楽
わたしは2022年現在、国立音楽大学大学院の博士課程に在籍し、そこで作曲を学びつつ灰街令の名義でライブ・演奏会活動やインターネット上での楽曲の公開を行っている。ポップミュージックから現代音楽までさまざまなジャンルにわたる作曲活動を展開しているが、自身の作品の中で最も重要なものと位置付けているのは「こわれた家具」と名付けられた作品群である。
わたしは「こわれた家具」の音楽をジャンルとしてはアンビエントミュージック的現代音楽というべきものと考えている。しかし〈こわれた家具〉の音楽は単に音組織の構築性の曖昧化やデュナーミク/アゴーギクといった表現の拒絶や静謐な音響によってアンビエントミュージック的なものであるというわけではない。むしろ、その音楽は時に過剰に構築的であり、ダイナミックな表現を伴い、劇的な音響効果をも演出する。
では、この音楽はどのような意味においてアンビエントミュージック的なのか。そしてこの音楽の持つ特異性はなにか。それはどのような思想と歴史に基づいているのか。そして、それらはどのように実践され、どのような批評的射程を持つのか。
このテクストは〈こわれた家具の音楽〉をめぐるステートメントである。
〈こわれた家具の音楽〉とは何か。それは現代の音響・聴取環境への創造的応答である。〈こわれた家具の音楽〉がアンビエントミュージック――環境音楽とも訳される――的であるのはそれが音楽表現の基盤となる「環境」へフォーカスするものであるからに他ならない。
現代の、特にこの日本における都市の音響環境はこわれている。たとえば渋谷スクランブル交差点の無数の広告動画による轟音、つまり東京の象徴的都市における音風景=サウンドスケープについて考えてみてほしい。密林を思わせるようなあらゆる周波数の無秩序な乱立。流れる音はすべて人間の手によるものでありながら、そこには音響を統一する人間的主体は存在しない。環境化された人工物たち。作者の意図や楽曲の構造的自律から遊離した無数の音たちが空間をとりまく(ambient)ものとして幽霊のように存立する空間。そこでは録音物という発信源から切り離され解離した亡霊――サウンドスケープ概念の提唱者であるマリー・シェーファーが言うところの「音分裂症」的な音——が世界を覆い尽くすノイズとして無尽蔵に徘徊 (羅:ambire)しているのである。
エリック・サティの「家具の音楽」シリーズはアンビエントミュージックの起源のひとつであり、音楽を明確に「サウンドスケープ」という「環境」として扱おうとした最初の作品のひとつである。「家具の音楽」シリーズの他、彼は主にそのピアノ曲などで「作品」を「自然」の方へと近づけることで自然物と人工物の境界線を曖昧にし、人工のサウンドスケープを形成しようとしているかのように見える。ここで言う「自然」とは古代美術に対して言われるような自然美ではない。サティの音楽の「自然」とは人間の構築的な意図や意匠から離れた、芸術の現象としての独律を意味する。無論、サティの音楽はサティの意図によって作曲されているわけであるが、そこで彼は自己開示を限りなく小さくする。ドラマティックなデュナーミク/アゴーギクは避けられ、音楽の素材は発展的というよりも並列的に、構築的というよりも反復的に広げられる。時に極度に薄い響きや並行和音や教会旋法の使用による進行感のない和声法、借り物のようなわざとらしい古典的な形式感も相まって、そこでは音楽は人間の「表現」というよりも自然の「現象」であるかのような体を成すのである[1]無論、そもそもこのような人為と自然の二項対立は西洋文明の――特に近代以後の西洋文明の――パラダイムである。。
しかし、サティが自己開示の「抑制」によって「作品」を「自然」の方へと近づけたのに対して、現代における「人工自然」としてのサウンドスケープは、「過剰」な「表現」の充溢、後期資本主義における広告という明確すぎるほどに明確な意図や表現を伴った人工物の、統一的な作者が不在な状況下での氾濫と化している。
現代の聴取環境はこわれている。現代においては、「人工自然」としてのサウンドスケープが意図によって暴力的に満たされているのとは対照的に、作者の意図によって形作られる純然な人工物たる「作品」は、その組織的単位を潜在的に剥奪されている。Spotifyなどのストリーミングサービスによる聴取が主流となった現代においては、レコメンデーションシステムによるアルバム間をまたぐ自動再生や、各ユーザーが様々なアルバムから曲を取捨選択して作ったプレイリストによって録音芸術の「アルバム」という構成的単位は破壊される。また延々とレコメンドされる楽曲のストリーミング再生においてはひとつの曲を線的に時間に沿って聴取することは絶対的なことではない。聴者はクリック一回で再生を別の楽曲に切り替え続けることが可能であり、また楽曲内においてもシークバーを操作して再生箇所を容易に自由な箇所に飛ばすことが可能である。近年ではこのような環境に適応し、楽曲を飛ばされてしまわないようにポップミュージックがサビを冒頭に配置するなどの工夫を行っていることはよく知られている。さらにパソコンやスマートフォンを操作せずに放置していても音楽が流れ続ける自動再生はあらゆる――「家具の音楽」にはなり得ないような「表現」に満ちた――音楽の「強制的家具化」を推し進めるだろう。ここではあらゆる「表現」の「自然化」が生じている。そして、streamとは小川という自然物を意味する単語なのだ。
わたしたちを取り巻く音は、二重の意味で「こわれた家具」となった。「自然の過剰な人工化」、「過剰な人工の自然化」。かつて、作られたものが作られたものとして聴かれ、サウンドスケープが静謐に人間の暮らしに染みわたっていた時代は終わりを告げたのだ[2] … Continue reading。
わたしの行う〈こわれた家具の音楽〉はこうした現代的な音響環境・聴取環境を中心的問題として参照する。現在の聴取環境において環境的に聴取される音楽の多くが「家具の音楽」(≒アンビエントミュージック)ではないように、〈こわれた家具の音楽〉は「家具の音楽」ではない。しかし「こわれた家具」と化した音楽表現が純然たる「作品」たりえないように、〈こわれた家具の音楽〉は構築的に組織された――西洋音楽においては伝統的に建築物の比喩で語られるような――音楽でもない。
現代の「こわれた家具」と化したあらゆる音の特徴、それは「背景に退いた過剰さ」である。そこでは音はサウンドスケープでありながら、ふとした瞬間に「表現」として聴き手に現前する可能性を持つ。その瞬間はしばしば偶発的であり、結果として「表現」と「風景」は潜在的に常に入れ替わり、断片化する。それは、かつてアンビエントミュージックが「静謐」という形で行っていた、構造が希薄であるがゆえに透明化していく聴取と構造が希薄であるがゆえの音そのものへのディープリスニングの反転に対して、「過剰」という形でまた別種の反転可能性を示している。
わたしの〈こわれた家具の音楽〉はこのような「表現」と「風景」の入れ子構造によって形成されている。現代的な散漫な聴取による「表現の過剰な風景化」と喧騒のサウンドスケープによる「風景の過剰な表現化」。
ではこのような「音環境」の特徴をコンサートホールやライブハウスで集中的聴取をされる「作品」として昇華するならばどのような音楽が生まれるか。「人工」と「自然」の脱構築はどのように作品化されるのか。それこそが〈こわれた家具の音楽〉の実践する音楽的問いに他ならない。
〈こわれた家具の音楽〉は現代のアンビエントミュージックの音楽家、例えばウィリアム・バシンスキーやザ・ケアテイカーの試みとも共振するが、直接的に影響を受けているのはいわゆる「現代音楽」の何人かの作曲家の作品である。ここで挙げたいのは、ジョン・ケージの音楽――特にその日本の作曲家である近藤譲による解釈を通したそれ――、そして近藤譲自身の音楽である。
例えば後期ケージの作品「チープイミテーション」シリーズは、サティの《ソクラテス》の美しい旋律をチャンスオペレーションに基づいて変容させて提示するという作品である。そこでは音楽のなめらかな連なりは切断され、ひとつひとつの音は孤律化する。かつて近藤譲はケージのこの音楽のあり方を「廃墟」と呼んだ[3]近藤譲『聴く人(homo audiens)――音楽の解釈をめぐって』 (アルテスパブリッシング, 2013年), 13頁。。「チープイミテーション」シリーズはサティの音楽のなかでは比較的珍しく「表現」的な《ソクラテス》を自然化するような作品である。そこではサティによる意図的構築は断片的になり、「表現」はその影を残しつつも消失する。これはまさに人工物が自然化した廃墟であり、「自然」と溶け合う「人工」である「家具の音楽」の新しい形と言えるだろう。
しかし、ここで重要なのは構造的連関を破壊され孤律化された音には、「別の構造」を生じさせる創造的可能性が宿るということである。近藤は「ジョン・ケージ氏のプリペアード・ピアノ」[4]近藤譲「響きの兎亀の耳10:ジョン・ケージ氏のプリペアード・ピアノ」『音楽藝術』第33巻第10号(1975年), 80-82頁。という論考において、ケージが偶然性・不確定性の探求を始める1951年よりも前に創作していたプリペアドピアノ作品に注目している。ピアノの弦と弦との間に様々なマテリアルを挟みこむことで音色をデザインするプリペアドピアノであるが、その結果としてピアノのひとつひとつの鍵盤が担う音響特性はバラバラに変化し、楽譜から想像される音楽的連なりは破壊される。しかしプリペアドピアノにおいて生じるのは破壊だけではない。挟み込まれたマテリアルが弦を分割し共振することで生じる、各音ごとに異なる多彩な和音・倍音は、楽譜に記譜された音同士の関係とは別に、和音・倍音同士の関係を作りだす。その関係は記譜された音楽構造の上で浮遊する「曖昧」な構造である。そしてこのような一音という単位を多義的にぼかすことによる創造的孤律の在り方は、《四部分の弦楽四重奏曲》のような彼の同時代の作品にも見てとれる[5] … Continue reading。ケージのこのような作品においては音楽的構造は消し去られるのではなくぼかされるのだ。
偶然性・不確定性による構築性の混沌とした破壊[6] … Continue readingではなく「曖昧さの構築」を行っていた初期ケージであるが、このような「曖昧」の可能性を先端化させたのが近藤譲の音楽である[7]ここでは触れないがモートン・フェルドマンの音楽も近藤と同じく初期ケージ的な「曖昧」と深く関わっている。。彼は自身が「線の音楽」と呼ぶ作曲思想において「曖昧」が重要であることを明示している。
私が関心を持っている音相互間の関係性というものは、特に目新しいことではなくて、むしろ非常に伝統的な種類のものです。それは、例えば旋律とかリズムとかあるいは調性とかいった、非常に伝統的な音楽の構造の諸要素を成り立たせているのが、そうした関係性にほかならないからです。(中略)三つの音をそれぞれABCと呼ぶとすれば、AとBによってできる関係が、BとCによってできる関係によって裏切られるように音を繋いでいくわけです。そしてさらに、四つ目の音Dを書く際には、ABCによってできている関係が、Dによって裏切られるように音を置いていく。そんな仕方です。つまり常に何らかの関係性が成立してはいるのだけれど、しかしいつもその関係性が曖昧なものでしかないという状態。
近藤譲「音楽の意味?」小林康夫編『現代音楽のポリティクス』(書肆風の薔薇, 1991年), 158-161頁。
さらに彼はそのような「曖昧」な「構造」を星座に喩えて言う。
こうした「構造」に対する考え方は、喩えて言えば――少し飛躍した比喩に聞こえるかもしれませんが――、夜空の星を眺めることに似ています。空の星は、基本的にはランダムに散らばっていますが、私たちはそれを或る程度グループとして見ることによって、例えばオリオン座とか、白鳥座といったように星座をイメージします。ランダムなconstellation(布置)を、何らかの形でグループ化することによって、そこに形を見てとる。
近藤譲「私の作曲について」『お茶の水音楽論集』第15号(2013年), 13頁。
近藤にとっての「線」とはこのような聴覚的星座を形作る仮想的なのものに他ならない。近藤にとって「自然」は非表現的というよりも「曖昧」なものである。曖昧さの下では表現的なものは表現を生み出す構造が確立されていないがゆえに、受容者に開かれたものとなる[8] … Continue reading。近藤の音楽において聴衆は、非組織的な音の布置の中から自らが主体的に音楽構造を聴きだしていく必要があるのだ。
初期ケージの、そして近藤譲の音楽は、自然化され「廃墟」と化した音楽の中に、「開かれた表現」の可能性を見出す。しかしそれは確固とした輪郭を伴うものではない。そこで聴者によって幻聴される音楽は、「自然」でも「人工」でも「家具」でも「廃墟」でもなく、いわば廃墟に宿る「幽霊」なのである。
「家具」、「廃墟」、「幽霊」[9] … Continue reading。「人工」と「自然」の二項対立を超えるさまざまな音楽の在り方がここに示された。
しかし重要なのは、録音技術以後の音環境においては「自然」と「人工」の二項対立を規定する「環境」が「あらかじめ」こわれてしまっているということだ。
近代文明がもたらした世界に対する人為の拡大、そしてその芸術表現的極北としてのロマン主義における個人の「表現」は、自然(神)と人為を共同体が繋ぐなめらかに溶け合った世界を壊し、自然/人工という二項対立を打ち立てた。個人主義であるロマン主義がしばしば人為の及ばない「自然」を理想化するのは、個人の表現、そしてその表現から遡行的に行われる近代的自我の発見によって、はじめて人間の営みと独立した形での「自然」という幻想を見出したからに他ならない。そして、その時、すでに近代文明によって自然と人間の美しい調和は破壊されていた。
現代において人為の拡大は止まることを知らず、「自然」を暴力的に侵略するのみならず、世界に溢れかえった人為は自家中毒的に人為それ自体さえも破壊し始めている。「こわれた家具」化した音響環境・聴取環境。
よく知られている通りケージは録音物を嫌っていた。彼にとって録音とは、音という一回限りの現象を人間が簒奪し意図的人工物に押し込める暴力に他ならない[10] … Continue reading。もしもケージが現代に生きていたら、渋谷のような録音物が鳴り響く都市的なサウンドスケープを嫌うに違いない。世界の音が人間の暴力的な意図によって支配されていく時代だからこそ、彼は人工物を「廃墟」のように破壊し、そこに「幽霊」を見たのだろう。また、彼が《4分33秒》などの作品で示したのは、あらゆる音を音そのものにまで遡って深く聴取することである。彼は録音芸術が生じさせる散漫な聴取にも批判的な視線を向けていた。つまりそこでは既に「こわれた家具」の環境こそが問題となっていたのである。
しかし、わたしたちが資本主義を止めることができないように――無論、抵抗は重要だが――、世界の「こわれた家具」化を止めることはできないだろう。それならば、わたしたちはこのこわれた世界で可能な音楽は何かと問わなければならない。
「自然の過剰な人工化」、「過剰な人工の自然化」を音楽にすること。表現と風景の調和や止揚の不可能な過剰な入れ子構造を音楽にすること。〈こわれた家具の音楽〉は「幽霊の音楽」のように「表現」の破壊=静謐としての自然の後に来る、音の開かれた「再表現」=曖昧としての自然を志向する。しかし、その時、その素材・音響・時間の在り方において、ケージや近藤譲のような完璧な静謐さを志向するのではなく、だいなしになった現代的音風景のようなものを取り込むことをも忌避しないだろう。それはケージのような「抑制」のみならず、「過剰化」の方向を持った破壊と再創造をおこなうだろう。〈こわれた家具の音楽〉は「こわれた家具」と化した狂乱の世界の中に隠されている「作品」とその聴取の可能性を聴きだすレッスンである。
最後に〈こわれた家具〉を実践したコンサート・ライブについて解説してステートメントを終わりとしたい。
国立音楽大学で行われた『こわれた家具[11] 灰街令『こわれた家具』https://soundcloud.com/rei-haimachi/10a?si=8d05e0f99c5b4a6797f997f54f0e4b49 』では通俗的でロマンティックな音楽素材をMIDIデータに置き換え、それらにDAW上で不完全な複製による過剰な反復を与え続けることによって半ば偶発的にこわれた音楽を生成した。また、バッハの《6声のリチェルカーレ》に対しても同様の操作を加え、最終的に不確定で偶発的な合奏がなされるように記譜することで、構築的で表現的な――バッハが死後再発見されたのはロマン派の時代である――音楽の極北とされる音楽の「こわれた家具化」を試みた。
イベントスペースSCOOLで行われた『こわれた家具のアーキテクツ――こわれた家具 Vol. 2.0[12]灰街令『こわれた家具のアーキテクツ――こわれた家具Vol.2.0』 https://www.youtube.com/watch?v=_Eu_m_0eh-g&t=254s 』では東京のあらゆるサウンドスケープを蒐集した後にそれらを10ブロックの4分33秒という枠の中に押し込め、「ジムノペディ」の断片的引用を基調として与えることによって「うるさい静けさ」、「構築された喧騒」に包まれた「こわれた家具」の形成を試みた。
宇フォーラム美術館で行われた『シン・ジャパノイズトロニカ』ではアンビエントとノイズという音楽ジャンルにコミットして家具と喧騒の両義的関係性を追求した。共演者である伏見瞬と共に行ったコンセプト設計の中でインキャパシタンツ、メルツバウといった固有名に代表される「ジャパノイズ」と呼ばれる暴力的ノイズ音楽が、真夏の午後の蝉しぐれや地震の強い揺れといった日本土着の音響を思い起こさせるものであることに注目し、それをわたしたちの地理的環境を体現したアンビエントミュージックとして定義した。現代のアンビエント的に存立する音の多くが都市の喧騒を生み出すものになっているのに対し、喧騒に満ちた「ジャパノイズ」は自然界の現象を背景に誕生しているのかもしれない。極限化されたチルと暴力がもつ同様の「平坦さ」がそれらに反転をもたらすことは聴覚心理学的にも示すことができるが、文化史的にもそのような両義性がみられるのである。『シン・ジャパノイズトロニカ』では、このような批評的思考から出発し、サティの曲集である『神秘的なページ』を基調としたギターのノイズとピアノ、そして「日本」を連想させる自然的音響素材の電子音楽的使用によってチルと暴力、都市と自然、喧騒と静寂、構造と非構造を脱構築し続ける〈こわれた家具の音楽〉の時間を演出した。
このように見ていくと主にわたしの作曲の手法は「こわれた家具」的な音楽構造の過剰化による破壊と、「家具」的な音響素材の抑制による統一、そしてその区分の再解釈によって構成されているということがわかる。〈こわれた家具の音楽〉は〈こわれた―家具の音楽〉であると同時に〈こわれた家具―の音楽〉なのだ。
現在、アカデミアで行われている現代音楽は影響力を失っている。過去の前衛がもっていたような時代や文化と共振した音楽のダイナミズムは滅んでしまった。わたしはこのような状況において、わたしたちの生きる「こわれた家具」の「環境」から、今一度、作品と世界との接地点を聴きだしたいと思っている。
参考文献
脚注
↑1 | 無論、そもそもこのような人為と自然の二項対立は西洋文明の――特に近代以後の西洋文明の――パラダイムである。 |
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↑2 | 渡辺裕が『聴衆の誕生』において明確に紹介しているように、音楽を「芸術作品」として集中的に聴取する習慣はおよそ19世紀になってようやく確立された伝統に過ぎない。しかし、それがたかだか2世紀の間にわたるものに過ぎないとはいえ、このような強度を持った「伝統」が根本的に破壊されていくことの意味を少なく見積もるべきではない。ちなみに『聴衆の誕生』のように「理想化された過去」を暴き立てるかもしれない例としてサティの「ジムノペディ」シリーズがある。環境的音楽としてしばしば映像作品等に引用され愛好されるサティの「ジムノペディ」シリーズであるが、これは古代ギリシアの狂乱的な祭典「ギュムノパイディア」のことを指しており、我々の抱く静謐なイメージとサティの作曲上のイメージとは乖離がある。音楽の家具にはその初めから亀裂が入っていたのかもしれない。 |
↑3 | 近藤譲『聴く人(homo audiens)――音楽の解釈をめぐって』 (アルテスパブリッシング, 2013年), 13頁。 |
↑4 | 近藤譲「響きの兎亀の耳10:ジョン・ケージ氏のプリペアード・ピアノ」『音楽藝術』第33巻第10号(1975年), 80-82頁。 |
↑5 | 《四部分の弦楽四重奏曲》などで用いられている手法は「ギャマット」と呼ばれる。そこではあらかじめ使う「一音」の単位を和音や短い旋律なども含めて構成し、それらのユニットを並べていくことで作曲が行われる。 |
↑6 | なおケージと同時代に前衛として名をはせていたトータル・セリエリストたちの音楽も、その複雑な構造の構築と反して、むしろそれ故に、聴覚的構築性を破壊するものだった。 |
↑7 | ここでは触れないがモートン・フェルドマンの音楽も近藤と同じく初期ケージ的な「曖昧」と深く関わっている。 |
↑8 | 近藤譲の音楽のこうした曖昧な構築性と、後期ロマン派の作曲家、例えばアルバン・ベルクの和声における複数的に解釈可能な表現は異なる。その比較には煩雑な美学的検証を必要とするためここでは割愛するが、一言でいえば、その多義性が音楽の全体像におけるひとつの物語的構成を形成するのに奉仕しているか否かが大きな差異と言える。 |
↑9 | ここにリュック・フェラーリの「ほとんど何もない」シリーズの試みを付け加えることが可能だろう。フェラーリはこれらの作品において静謐な日常のサウンドスケープを録音し、それらを編集することで作品を作っている。そこでは作曲者による「表現」は最小限に抑えられ、人工と自然(あるいは日常)の美しい調和が達成される。これは人工を自然に近づけた「家具の音楽」に対して、自然を人工に近づける――あるいは自然に人工性を見出す――「日常の音楽」とでも呼ぶべきものだろう。 |
↑10 | デヴィッド・グラブス『レコードは風景をだいなしにする――ジョン・ケージと録音物たち』ではこのようなケージの録音物嫌いについて論じつつも、《イマジナリー・ランドスケープ第4番》(1951)や《HPSCHD》(1967-69)やケージが録音物や音響技術を用いた作曲を行っていたことを指摘している。これらの作品において彼は録音物やその技術に対して偶然性・不確定性による介入を試みているが、このような態度は後述する〈こわれた家具の音楽〉と類似している。ふたつの差異はおそらく作品の「自律」の在り方の違いに求められるが、詳細は別稿に譲る。 |
↑11 | 灰街令『こわれた家具』https://soundcloud.com/rei-haimachi/10a?si=8d05e0f99c5b4a6797f997f54f0e4b49 |
↑12 | 灰街令『こわれた家具のアーキテクツ――こわれた家具Vol.2.0』 https://www.youtube.com/watch?v=_Eu_m_0eh-g&t=254s |