勘違いでつながる。

勘違いでつながる。

今村俊博

均等な厚みに鯵が切りそろえられていく。5、6、7切れ……。柑橘や野菜、ソースとあえるためにボールに入れられる。スプーンとボールが打ち当たる一定の音。冷やされたガラス製の皿が3枚ならべられる。オープンキッチンというのだろうか。1人のときに案内されるカウンター席だと眼前でKさんの動きを堪能することができる。テーブル席では、Tさんがお客さんにワインの説明をしている。横一列にならべられた4本のワインボトル。上部に軽くそえられる左手。風土や品種、風味など、それぞれの特徴が流れるように紡がれていく。プロの動きはどうしてこうも魅力的なのか。

テーブル席が3つにL字カウンター、全部で20席もないほどの、大通りを1本入って少し奥まった場所にあるその店は、落ちついた雰囲気で、居心地がよく、つい足が向いてしまう。ぼくと同じ1990年生まれで、学年は1つ下のソムリエTさん、ぼくより10ほども年下のシェフKさんの2人で切り盛りしている。映画や舞台を観た帰りや2軒目に1人でふらっと、あるいは友人たちとの食事会や仕事関係の打ち上げなんかで使ったり、なにかにつけて顔を出してしまう。

Kさんとは「今週の『呪術』がアツかった!」とか「『アオのハコ』読みました!?」などとジャンプの感想や翌週の展開がどうなるかなんかを話すことが多い。高校時代、放課後に部室で先輩が読んでいるジャンプを3、4人の同級生や先輩たちと一緒に後ろからのぞきこみ、ページをめくるその一瞬に、わくわくし、くだらない話をして笑っていたあの時間に戻ったかのような勘違いをしてしまう。同世代ということもあってか、Tさんとはお互いが10代だったころの、なつかしい話をすることも多い。もちろん、東京出身のTさんと大阪出身のぼくとでは、それぞれが過ごしてきた土地や属していたコミュニティの違いを実感することも多く、たとえば小中学生のころに同じクラスにいたら、こんな風に話すような仲になってないんじゃないか、とふと頭をよぎったりする。のべつまくなしに喋ってしまうぼくにとっては、1人でいったときにもかまってもらえることがうれしくて、そのやさしさにいつも甘えきりだ。2人に会うために通っているのかもしれない、なんて勘違いしてしまう。Tさんがワインの説明を始めるとき、まるで何かの合図のように、2、3回トントンと軽くボトルトップ部分に触れる。

閉店時間が近づきお客さんもまばらになった店内で、いつものようにTさんと話していた。「梅田の『モンテカルロ』知ってました?」というそれまでの会話とあまり脈絡のないぼくの問いに、Tさんは当然のように「遠征したことありますよ」と答えてくれる。仕事の打ち合わせで「明大モンテカルロ」の話が出たことがきっかけだった。ゲーマー(鉄拳勢!)のTさん曰く、「鉄拳」の西の聖地だったそうだ。ゲーセン文化に疎いぼくでも名前くらいは聞いたことがある場所だった。いまは名前がかわり、近くにあった系列店と1つになり、すこしは綺麗になったというが、前とかわらず、東梅田にあるらしい。

90年代後半から00年代半ばのゲームセンターは、少なくとも大阪の梅田や難波、天神橋筋商店街なんかにあったゲームセンターは、怖い場所だったと記憶している。子どもだけで平日にいってはいけないと親に言われたことをおぼえている。そこには、いわゆる不良たちや、やんちゃな人、少し怖い人、遊んでいる人など中学生から大人まで幅広い世代の人たちがいた。当然のように筐体に置かれた灰皿や、床に落ちている吸い殻、薄暗く、煙たくて空気がよどんでいて、ぎらついた眼をした人たちがいる場所だった。店員はみんな気だるげだった。客同士、目でも合おうものなら「ケンカを売っている」「ガンをつけた」と言いがかりをつけていざこざを起こしていたような場所だった。小学校の高学年や中学生くらいになって、友だち3、4人とおっかなびっくりクレーンゲームをしにいったりしたとき、ちょっとやんちゃな同級生や先輩なんかが、他校の生徒や少し怖そうなお兄さんたちとケンカしたり、言い争っているのを目にしては、そそくさと退散したものだ。

オンライン対戦がいまほど当たり前にできる世界ではなく、漫画喫茶やネットカフェなんてものも一般的ではなかったあのころ、「不良」とひとくくりに言ってしまったが、それだけではない、都合よく時間をつぶせる、ただそこに居ることが許される、多様な人たちを包括する場所になっていたと思う。そういった場所は、「ゲームセンター」だけではなく、ほかにもいろいろとあったのだろう。「外」ではあるけれど、「閉じた世界」。ゆるやかな崩壊をはらんだ、不安定だけれども絶妙なバランスで成り立っていた場所がそこかしこにあった。

ある時代までの大阪においては、「松竹」や「吉本」も同じように、「ゲームセンター」のような場所だったのだろう。すくなくとも、2005年くらいまでは、ある種のコミュニティから離れてしまう人を、逸脱してしまう人たちを受け入れてくれる場だったと、いまは思う。地域のおっちゃんやおばちゃんたち、親戚や、友だちや学校の先生たちがことあるごとに「アホな子」に対して「そんなアホやったら吉本にいくしかないでー!」と笑いながら話していた光景を思い出す。いまやそんな風に受け入れてくれる場ではなくなってしまったのだろうと感じることも多いが。いまはどうかわからないが、ぼくが中学生くらいまでの大阪は、いまよりももっと荒々しくて、ザラついていて、怖い場所だった。阪急電車に乗っていても、ピりついた空気があった。おそらく、ぼくが生まれた1990年の前後から、大阪を離れた2011年付近は、大阪という場所が大きく変化していた時代だった。もちろん、どの時代もどの場所も変化しているだろうし、今もかわりつづけているだろうが、あの時代、あの場所もご多分に漏れず、いろいろなものが過渡期だったのだろう。

東京に来てから出会った同世代の友人たちと語らうなかで、昔のことをよく思い出す。とくにここ数年は、友人たちが親になり、子が幼稚園に通ったりする話を聞くにつけ、自分の幼少期のことを思い出すことも増えた。そして実家に帰るたび、親とそんな昔話をよくする。「あのころ○○ってことがあったやんか」なんて話していると、母も父もあんまりおぼえてなかったりする。ぼくにとっては大事な思い出だったりするのだが、向こうにとってはそうではないらしい。逆もまたしかりで、両親にとって大事な思い出をぼくはまったくおぼえてないなんてこともざらにある。

2011年3月末、21歳のときに大阪を離れ関東にきた。最初は編入した大学のあった埼玉県川越市に2年。そのあとは東京に引っ越して、葛飾区に6年、杉並区に5年。大学院浪人をしていた時代からいままで、ずっと東京に暮らしている。生まれてから大阪の実家で過ごした21年、そして関東に来てからの13年。たった30年ちょっとの人生で、東京で過ごした時間が、自分が大阪ですごした時間の半分をこえた。記憶のなかにある大阪は、どれくらい残っているのだろうか。もうほとんどかわってしまったのではないだろうか。

小学生のころに友達と遊んだ三角公園はなくなり、いまは市営住宅になっている。遠足なんかのたびに300円を握りしめて友だちと駆け込んだ駄菓子屋マムももうない。最寄り駅には新しくJRの駅ができ、実家から徒歩8分くらいのところにあった貨物列車が通る横を橋の揺れを感じながら一緒に渡ることができた赤川鉄橋は人の通行が禁止され歩けなくなり、車両の通行のたびに100円が必要だったために「百円橋」とみんなが呼んでいた菅原城北大橋は無料になった。近所のガレージで鎖につながれて飼われていた犬もいなくなっただろうし、通学路に出た野犬に追われて遠回りして帰ることなんて、いまは存在しないのだろう。ぼくの通っていた小学校では、年に何度か集団下校の日があった。近所に住む子どもたち7、8人ごとに班がつくられ、さらに近所の4、5個の班が1つのグループとなり教室に集められ、登下校のときに気を付けることを上級性が下級生に伝えるのが決まりだった。標語のようなものを決めるのだが、ぼくの所属していたグループでは小学校1年生から卒業するまで、いつも同じ標語だった。「犬のしっぽに火をつけない」。野犬がまだ普通にいたあのころ、少しやんちゃな先輩がそんな遊びを度胸試しのようにしていたらしい。どこまで本当かわからない、笑い話のように代々語り継がれるあの話が好きだった。いまはさすがに標語もかわってしまっただろうか。

小学校4年生になると「クラブ活動」という授業があった。「クラブ活動」なのに全員が何かに入らなければならず、5時間目か6時間目という扱いだったと記憶しているから、中学校、高校のそれとは違い、総合学習のようなものだったのだろう。ぼくは「地理歴史研究部」に入って、校区内にある旧亀岡街道を歩いたり古い建築物を訪ねたりした。そのなかの1つ、ぼくの通学路にあった古いお屋敷を取り囲む塀は、瓦が埋め込まれたかわった見た目をしていた。瓦塀とよばれるそれは、土台の上に瓦が漆喰のようなもので幾層にも積み重ねられたものだ。クラブのだれかが、その瓦の数を数えようと言い出したのをおぼえている。みんなで何度か通って数えた。何度も数えた。でも、だれかが、どこかで数え間違う。埋め込まれた瓦を1枚1枚指で触れながら数えた。でも、どれだけ数えても同じ数になることはなかった。ついぞ正しい数はわからなかった。小学校を卒業するまで、通学路にあるその場所を通るたび、その瓦塀のことが気になったままだった。

大阪市東淀川区、菅原という町でぼくは育った。最寄り駅は、阪急京都線「淡路」駅。そこは母が育った町でもあった。幼稚園も、小学校も中学校も、母と同じところに通った。幼稚園にいたっては、先生まで同じだった。菅原道真が淡路島を目指して淀川を船で往く途中、当時まだ中洲だったという淡路駅付近に降り立ち、「ここが淡路か」と勘違いしたことから名付けられたという。ぼくの育った菅原もその縁で呼ばれるようになったらしい。道真公の勘違いで生まれ、いまにつづく場所だ。

母方の祖父母宅も同じ町内、実家から徒歩6分ほどの場所にあった。文化住宅と民家のあいだ、路地裏のような砂利道を抜けたところにあった。トイレは和式で、祖父が増築したという部屋をあわせて3部屋の平屋の一軒家。玄関の外、トタンで囲われたスペースに置かれた洗濯機。さらにその前には、花好きの祖母が育てていた水仙やマリーゴールド、シクラメン、アロエなど、3段のひな壇に大小あわせて10以上の植木鉢がところ狭しとならんでいた。カギっ子だったぼくは、小学校低学年のころは、学校から帰ると妹と2人で祖父母宅にいき、花に水をやる係だった。緑色のプラスチックのじょうろの側面には4と数字がついていた。水やりが終わると、なぜかいつも仏壇に供えられていた岩おこしとかゼリー菓子を食べながら、祖母と「はぐれ刑事」や「暴れん坊将軍」「赤かぶ検事」の再放送を観た。

祖父母宅には風呂がなかったため、たまに家族そろって近くの銭湯にいくとき以外は、毎晩うちの家に来ていたし、週末は夕食も一緒に食べていた。いまでは考えられないが、暖かい季節になると祖父母宅のすぐ横で、外で焼肉をした。庭なんてものはなかったから、あれは路上だ。家の横の路上。炭火で、ときにはカセットコンロを持ち出し、ゴザを敷き、机や椅子をならべ、電灯を準備し、年に何回も焼肉をした。バーベキューなんて洒落たものではない。焼肉だった。日が暮れて、電灯の明かりだけでは肉の焼き具合がわからなくなってくるころ、そんな焼肉の最後は、きまっていつも祖母がつくる焼きおにぎりだった。なんのことはない、塩むすびを焼いただけの、醤油じゃなくて焼肉のタレが塗られた、その焼きおにぎりが大好きだった。いつも花柄のエプロンをつけていた祖母。料理が得意な人で、小学校高学年あたりからは一緒に台所に立ち、いろんな料理を教えてもらった。煮魚や煮物はもちろんのこと、冬になるとおせち料理やぜんざいを一緒に作ったものだ。もう20年以上も前の話なのに、ひとり暮らしのいま作る料理も祖母が作った味がする。

小学校のときは、人好きで集まり好きな祖母や母の影響か、ぼくも妹も誕生日やクリスマスのたび、自宅や町会の集会所で友だちを呼んで集まっていた。同級生だけにとどまらず、近所の子どもたちが、なにかあるたびに10人くらい集まっていた。子どもがすきそうな料理がならぶなか、母の作る桜の花のかたちにかたどられた押し寿司がきまって登場した。土台の酢飯の上に鮭フレークがのっていた。酢飯部分はゴマが混ぜ込まれていたり、五目だったりさまざまだった。ぼくはそれが全然好きになれなくて、なぜいつも定番のように登場していたのかわからなかった。先日、母と話していたときにその話をしたら、たまに作った記憶はあるけれど、得意料理だったり、定番としていつも作っていた記憶はないらしい。妹に聞いても記憶にはあるけれど、そんなにいつもあったかなんておぼえてないという。集まりでだれがいたかとか、プレゼント交換でなにをもらったかとかは記憶にない。ぼくがおぼえているのは桜の花のかたちをした、あまり好きではなかった鮭フレークの押し寿司だけだ。

先日、実家でそんな思い出話をしていた。すると父が「なんのこと?」と首を傾けていた。父は集まり自体を知らなかった。勝手に記憶のなかでは父もその場にいたと思っていた。しかし、家族4人で過ごしていた、どこかに出掛けたりしていた週末以外は、休日であっても頻繁に出張など仕事で家を空けていたらしく、ぼくの勘違いだったらしい。祖父母、両親、妹と連れだって、家族で6人で観にいったと思いこんでいた『ホーホケキョ となりの山田くん』も『千と千尋の神隠し』も、父は一緒にいっていないという。父に連れられて一緒に観た映画は『劇場版ポケットモンスター ミュウツーの逆襲』だけらしい。いまはもうなくなってしまった梅田ピカデリーに2人きりでいったことをおぼえている。「ドラえもん」も「クレヨンしんちゃん」も、淡路商店街の「淡路東宝」に手を引いて連れていってくれたのは祖父だった。完全入れ替え制になる前の映画館。2階ロビーの薄緑色のリノリウムのような質感の床。少し早く着いたときは、前の上映回の途中でもシアターに入り、入口に近い席に座って、これから観る映画のラスト近い場面が映るスクリーンを眺めていた。少しかび臭いような、吸い殻が床に散らばっているシアター。幕間の時間に中央付近の席に移動する。上映後、スクリーンの右上に出る、点滅する白っぽい丸は何かと尋ねたら、フィルムを交換する合図なんだと教えてもらった「喫茶トーホー」。いつも「キューピット」を飲んでいた。カルピスの原液をコーラで割る「キューピット」はいまでも無性に飲みたくなったときに作ってしまう。

新聞に載っている週末の上映時間を調べて、朝から梅田にでかけてオープン前からチケットを買いにならんだ『ハリーポッター』シリーズも『ロード・オブ・ザ・リング』三部作も、一緒にいったのは祖父だ。映画のあとは、ホワイティうめだの蕎麦屋で昼ご飯というのがお決まりのコースだった。記憶のなかの祖父は、いつも帽子をかぶっている。野球帽だったり、麦わら帽子だったり、種類はバラバラだけれども、いつも帽子をかぶっていた。南港のサンタマリア号へ連れていってもらったときも、映画を観にいったときも、町内会のソフトボール大会へ参加したときも、餅つき大会や区民祭り、町会の盆踊りで櫓にいるとき、城北公園へ花見にいったとき、京都の川床へ鰻を食べにいったとき、いつだって祖父は帽子をかぶっていた。優しい人だった。母や、母の弟のおじさんから伝え聞く昔の祖父は大変厳しい人だったそうだが、ぼくの記憶のなかにいる祖父はいつも言葉遣いの丁寧な、やわらかい大阪弁を話す、毅然とした、優しい人だった。「ぼく」という一人称を使う人だった。そして、趣味の人だった。本を読むことの楽しみを教えてくれたのも祖父だった。祖父が、祖母が亡くなった年に買った腕時計がある。その時計を、祖父が亡くなったときに譲り受け、ぼくはいまも使っている。

中学に上がる年の誕生日、祖父に初めて本を買ってもらった。それ以降、書店にいくたび本を買ってくれた。初めて買ってもらった小説をはっきりとおぼえている。森見登美彦の『太陽の塔』だ。上新庄のスーパー「イズミヤ」。2階に入っていた書店で買ってもらった。家族で食材の買い出しにいくのも、友だちと連れだってゲームボーイと予備の単三電池4本をリュックにつめこみ、2階のおもちゃ屋とCDショップ横、エスカレータのとなりに設置されたカップ式の自動販売機で60円のカルピスソーダを買って遊んだのも、中学に上がりメガネの三城ではじめてメガネを作ったのも、高校1年生の初夏に祖母が亡くなり慌てて喪服を買いに走ったのも、すべて「イズミヤ」だった。「イズミヤ」にいく途中、神戸屋パンの工場横を自転車で通るときにいつも感じた発酵の香り。「イズミヤ」前の2畳ほどのスペースで営業していた「たこ焼き屋」の湯気で少し湿ったわら半紙の包み紙とたこ焼きに刺された2本のつまようじ。文化のある場所も、友だちと遊ぶ場所も、家族と休日に外食をしたのも、すべて「イズミヤ」だった。「イズミヤ」がすべてだった。そんな「イズミヤ」も、もうなくなってしまった。

母が生まれたころから叫ばれたまま遅々として進んでいなかったという「淡路」駅の再開発もここ数年すごいスピードで進んでいる。いしいひさいちが漫画『バイトくん』を構想していたという、駅前にあった「純喫茶アメリカン」も再開発のあおりを受け、隣接する商店街と一緒に取り壊され、少し離れた別の場所に新設された東淡路商店街のアーケード内に「喫茶アメリカン」として移転した。「淡路東宝」は営業を終了した。「淡路東宝」は取り壊されずに残ってはいるし、キューピットを飲んだ「喫茶トーホー」はまだ営業をつづけてはいるけれど、あのころ存在した記憶にある場所とは違う場所になった。

「だったと思う」「だったらしい」。そんな言葉ばかりが出てくる。なにも確証はなく、どこまで確かなことなのか、もうわからない。つぎはぎのように勝手に作られた思い出なのかもしれない。祖父母の声色も、いまはもうほとんど思い出せない。おそらく頭のなかで再生されている声も実際とはかけ離れたものになってしまっているだろう。

だれかが勘違いして生まれた町の最寄り駅から実家への道すがら、いまもだれも正しい数を知らないであろう瓦塀はある。ふとした折に、いまならちゃんと数えられるかもしれないと思ったりする。なんのことはない、しょうもない会話や体験が、小さな思い出が、いまにつながっていると思うのは、中洲を島と間違ったように、ただの勘違いかもしれない。勝手な思い込みかもしれないが、そのつながりをどこかでいとおしく思いながら、ぼくは数えつづけている。

オーブンから取り出し少し休ませていた肉に2、3度、指のはらで軽く触れ火入れを確かめるKさん。付け合わせの根菜がチリチリと音を発しながら焼かれている。新しいワインをもってきたTさんが、カウンターにグラスとボトルを置く。一瞬、ボトルがほんのすこし傾けられ、照明があたりエチケットがちらと目に入る。いつものようにボトルトップに2、3回軽く触れ、言葉が紡がれていく。音が聴こえた気がする。ゲームセンターでアーケードコントローラを素早くタップする音が。

《数える人 Ⅸ》(2021):茂山千之丞
Sound Around 001@ロームシアター京都
Photo by Toshiaki Nakatani
《数える人 Ⅹ》(2021):池田萠、長井短
Sound Around 001@ロームシアター京都
Photo by Toshiaki Nakatani
《数える人 XI prototype》(2022):池田萠、岩渕貞太
いまいけぷろじぇくと 第11回パフォーマンス・デュオ公演《身体奏法》 Work in progress vol.2@SCOOL
《数える人 Ⅻ》(2024):池田萠、きたまり
TRANCE 2024 VIBES@豊中市立文化芸術センター
Photo by Tonko Takahashi