インタビュー 灰街令

インタビュー 灰街令

2022年5月9日

灰街令

コンピュータ音楽専攻から作曲科へ

———灰街さんは国立音大のコンピュータ音楽専攻のご出身で、大学院から作曲科に転科されていると思うんですけど、音楽を始められた経緯なども含め、その辺りからお話頂いてもよろしいでしょうか?(八木)

灰街令さん(以下、灰街):音楽をはじめたのは偶然とも言えます。中学生のときに高校受験の模試で合格判定を得るために学校名を書くじゃないですか。学校名が一覧になっている表をパラパラと眺めていたら「国立音楽大学付属高等学校」というのを見つけ、これも何かの縁かなと思って選んだんですよね。そして高校に入った頃からDTMをやり始めました。当時流行っていたニコニコ動画を見たり、主にアマチュアが作った音楽をインターネット上で聴いたりして、自分も作りたいと思ったのがきっかけですね。

———なるほど。私たちのジェネレーション(八木92年生、灰街95年生)だと、ちょうど10代のころにニコニコ動画とか、初音ミクとかDTMとかが流行っていましたよね?(八木)

灰街:そうですね。中学生くらいからピアノもやっていましたが、親しんでいたテクノロジーがコンピュータだったので、まずはそこから入りました。当時はIDMやエレクトロニカ(どちらも死語ですが)のようなかたちで新しく普及したテクノロジーを用いた電子音楽も流行っていましたしね。とはいえDTMと、国立音楽大学のコンピュータ音楽専攻で学んだ電子音楽はだいぶ違うんですけどね。大学にいるうちにDTMで作るポップミュージックから、いわゆる「西洋芸術音楽」の作曲の方に関心が移っていき、大学院からは作曲科に進むことになったという流れです。

———コンピュータ音楽専攻では、みなさんどのようなことをメインにやっているのでしょう?少しイメージしづらいところもあるのですが。(西村)

灰街:コンピュータ音楽専攻には様々な関心を持った人がいると思います。授業内容も様々で、レコーディングやレコーディング後のミックスやマスタリングといったエンジニアリングを学んだり、Max/MSPのようなプログラミングソフトを使って「西洋芸術音楽」の文脈で電子音楽を作ったり、C言語やJavaScriptのようなプログラミングの学習もするといった感じです。

———なるほど。その中で灰街さんのようにアコースティック寄りの「西洋芸術音楽」の方面にも向かう人は珍しいのですか?(西村)

灰街:国音のコンピュータ専攻の学生は三種類くらいの方向性に分けられるんじゃないかと思います。

エンジニアリングに興味を持つ人。それから、いわゆる「芸術音楽」の作曲の方へと進む人。ちなみにそういう人は作曲の講義やレッスンを同時に履修していることが多く、大学院に進む率も比較的高いです。もう一つは独自の活動領域を持っていて、どちらかと言うとポップミュージックの方面で活動しながら、大学では西洋芸術音楽の文脈にある作曲をしている人。たとえば先輩で言うとTomggg(トムグググ)などですね。私自身は二つ目と三つ目が重なるような位置にいると思います。

———卒業生はいろんなところでご活躍されてますよね。テレビ局に行った人とかもいるし。私も国立音大に通っていましたが「コンピュータ音楽専攻とは?」みたいなところがあったので、知ることができてよかったです。(八木)

ポップミュージックと「西洋芸術音楽」の共振

———さきほどのお話では、広義のポップミュージックから、いわゆる「西洋芸術音楽」と言われているものの方に関心が移っていったとのことでしたが、そのきっかけや理由は何だったのでしょうか?(原)

灰街:一番大きなきっかけとなったのは、私が師事もしている近藤譲の「線の音楽」ですね。これは著書のタイトルでもあるし、彼の作曲思想でもあるのですが、彼の音楽・著書双方に触れたことが大きなきっかけになりました。それまでは、西洋の前衛音楽というものが何を問題にしてきて、かつ、どういう問題に直面してきたかということがそんなに明確には分かっていなかったんですが、「線の音楽」に触れることによって、それが見えてきて、その上で近藤譲がやっていることがとても魅力的に映った。テクストにも書いたように、アンビエントミュージックのようなポップミュージックのきわにある音楽と共振しているように思えたんです。

———現代音楽が問いと解答の連鎖の結果として行き着いた地点に、ポップミュージックとの共振がみられるという考えはとても興味深いです。もう少しご説明頂けますか?(原)

灰街: 50年代から60年代にかけて、ダルムシュタットの三羽烏を代表とするトータル・セリー主義の作曲家たちは、それまでの音楽が持っていたシンタックスを、大きなものでも小さなものでも、パラメーターの列として切り崩して、再構築しようとしました。その結果、音楽の文法みたいなものを聞き取ることがかなり困難になってしまった。つまり、破壊はしたんだけど、そこから新しいシンタックスみたいなものを、少なくとも調性音楽やソナタ形式のような明瞭な共通言語としては打ち立てられなかった。それ以後、西洋の現代音楽は統語論的革新という観念を捨て去ってホーリズム的に「音響」という具体を取り扱っていくわけですが。ここで、ポップミュージックの方に目を移してみると、音の在り方の独自性がそこまで問題とならないような音楽が現れていることに気がつきます。先ほども話にあった、ニコニコ動画の初期ボーカロイド曲やその「歌ってみた」、あるいは音MADのようなものは、表現として新しい音を聞かせるというだけでなく、そのプラットフォーム内における様々な情報(ネタ)の問題にしています。あるいはテクストでも挙げたウィリアム・バシンスキーの『Disintegration Loops』やザ・ケアテイカーの『Everywhere At The End Of Time』といったアルヴィン・ルシエのようなアメリカ実験主義とも通じるコンセプト主義的な音楽や、ヴェイパーウェイブやハイパーポップを挙げても良いかもしれません。ともかく意味論的な伝達ともまた違う、音の背後にあるテクノロジーや慣習といった環境への解釈が重要になるようなポップミュージックが片方にある。

では西洋の現代音楽の領域でもそれをやったらどうなるんだろうってことを考えたんです。近藤譲がアメリカ実験主義、特にジョン・ケージとモートン・フェルドマンの試みを独自に解釈し、「曖昧」や「開かれ」といった観念を音楽形式の原理として西洋の前衛の文脈に繋げたことの別バージョンとも言えると思います。

————なるほど。「環境」は先日ご寄稿頂いたテクストでも鍵語になっていましたが、この言葉を使う際に、単に身の周りにある環境音だけでなく、作品や制作を取り巻く関係性やネットワークまで含め、多義的に考えておられる訳ですね。そこに共振のポイントもあるということでしょうか。実際に、作品の中で「曖昧さ」や「開かれ」のようなものをどのように実現されているのかについても教えて頂けないでしょうか?(原)

灰街:テクストの中でも取り上げた「壊れた家具の音楽」の一作品では、バッハの《音楽の捧げもの》の6声のリチェルカーレのMIDIデータをDAWに流し込みました。その後に、それをDAW上のピアノロールエディターでオクターブを変えたり、各ノートの発音時間をずらしたり、特定のノートを削除したり、複製したり、といったプリミティブな操作を組み合わせて、解体していきました。

結果として、バッハの元の音楽あるいは西洋音楽の伝統的な構造に親しんでいる人は断片的な構造を聞き取れる一方、一聴するとブライアン・イーノのアンビエント作品のように聞こえるというような音ができました。その上で、それをピアノとハープのためにリダクションし楽譜にしました。その楽譜はテンポルバートにしたうえでパート譜しか作らず奏者にも渡しませんでした。お互いが合奏せずに演奏が続いていくといった不確定性の音楽ですね。これはモートン・フェルドマンが《Why Patterns》などで行っている不確定性で、近藤譲も《ブルーム・フィールド氏の間化》のような曲で試みている。

まとめると、ここではバッハという「西洋芸術音楽」の大家に対して二重の仕方で亀裂を入れています。一つはDAWを使ったノートの操作ですね。古くはコンロン・ナンカロウなどの試みにも繋がりますが、より近くではMIDIのような今日のポップミュージックの技術に繋がるもの。もう一つが、ジョン・ケージやフェルドマンにみられるようなアメリカ実験主義音楽のような不確定性。《音楽の捧げもの》の主題は11の音名を使っていて、元々とても半音階的なんです。結果として調性にも無調にも聞こえ、偶発的に何らかの構造を耳が勝手に聴きとったり、とらえられなかったりする両義的な、聴取を促す環境のもののような音楽ができあがりました。これは一例ですが、このようにプリミティブだったりポップだったりするテクノロジーを使いながらも何か自動作曲と伝統的な五線譜作曲と打ち込みの中間のようなものをやったりしています。

———とても興味深いです。近藤譲は、音のレベルで、聴き手の体験として曖昧さを引き出すことをやりましたが、灰街さんの場合はバッハにポップミュージック的な操作を施すことで、音響面だけではなく、たとえばクラシックならクラシックを取り巻く文脈や環境というものも曖昧にしていく。純粋な音響のもう一歩外側の次元でも解釈に開かれがあるように思います。(原)

———その音源は聞けたりしますか?(八木)

灰街:SoundCloudに『壊れた家具1.0』というタイトルであがってます。

(https://soundcloud.com/rei-haimachi/10a)

———これは、さきほどの表現という論点にも関わるかと思いますが、機械にかけて出てきた音響というのは、曲として仕上げる上で、どの程度手を加えられるんですか?出たとこ任せにしてしまうのか、それともある程度構成されるのか。(原)

灰街:セリー音楽やフランコ・ドナトーニの音楽のような完全なシステム作曲ではなく、創作の一つのきっかけとして自動生成としての技術を用いています。自分で構築した何かしらの作曲システムに従って創作をするとなると、一方で人間による介入が少なくはなりますが、逆説的にそれは同時に創作の上で生じる偶然みたいなものを排除していくことにもなりかねませんよね。人間もいらなくなるほどの人工性に達する人間中心主義というか。私のいくつかの曲ではもう少し人工と自然を緩やかに考えていて、自律する技術との共同作業というような意識を持ってます。どちらかと言えば、セリーというよりはケージの「ギャマット」に近いですね。「ギャマット」は、ケージがいわゆる「偶然性」を試み始める以前に《4部の弦楽四重奏曲》などで用いていた手法で、最初に用いるすべてのフレーズを完全に決めておいて、それを貼り付けていって、曲を構成するというある種ハウスミュージックのようなものなのですが。

———なるほど。自動的に作動するシステムによって意図も問題にならないようなところに向かうのでもなく、かといって完全に内面の表出的な音楽でもない。ここでもやはり、どちらかの極に振れるのではなく、あいだの曖昧さを重視されているということですね。(原)

灰街:そうです。

飽和した音環境

———先日のテクストに引きつけた質問ですが、都市におけるサウンドスケープ、つまり商業広告とか渋谷の交差点で聞こえてくる音の環境と、ストリーミングで聴収する音楽との差異について何かお考えはありますか?(八木)

灰街:パブリックな音環境とプライベートでの音楽視聴環境ですよね。プライベートとパブリックの音環境の違いがなくなってきていることが問題としてあると思います。スマホでSNSを見ていたり、YouTubeを見ていても無数の音が広告として流れてくるし、何も操作していない時にもそれらは勝手に流れ出す。プライベートな生活圏にも、広告という強い表現がやってくる。あるいは音楽にしても、本来は室内やコンサートホールにおける表現としてあったものが、それこそ広告やBGMというかたちで氾濫している。無論これはテレビやラジオのような技術が普及した時から見られる現象ですが、今日におけるパーソナルコンピュータやインターネットといったものは何をするにも欠かせない総合生活技術のようになっているのが特異だと思います。

———その問題と創作とはどのように関わってくるのでしょう?(八木)

灰街:本来は表現であった音楽が街中にも自室にも満ちてしまっており、それはもはや表現ではなく背景になっている。しかもそれはとてもうるさいものである。このように、すべてがとてもうるさくなっている環境において、静かな場所を作るということ、あるいは作品というかたちで機能するものを作ろうとするとどうなるだろうというのが、私がやろうとしていることです。作品が大気化した状況自体を作品に組み込むというような。その時、ケージやポーリン・オリヴェロスのような作曲家であれば、ディープ・リスニングのような瞑想の方にいくと思うんです。瞑想的なものは、今日的な音環境、あるいは広く情報環境に対する上での一つの処方箋だとは思うんですけど、生活をしていてそんなに瞑想ばっかりしているわけにはいかない(笑)。瞑想は抗い方としては、反時代的に騒々しさから遠ざかる方法ですが、私の場合にはそうではなく、日常生活の中の音環境や情報環境の中から、沈黙を聴き出していくことを考えています。

静寂について

———さきほどの静寂という論点について、詳しく伺えますか?今日における静寂には、なんらかの意味が生まれてしまっていると思うんです。さっきの都市のサウンドスケープやストリーミングの話とも繋がりますが、静かな環境にいるということ自体がすごく価値あることになっている。それに対して逆張り的に、うるさいこと、喧騒を逆に強調していくことで面白いものが出てくる面もあると思うのですが、灰街さんとしては喧噪よりも静寂を肯定的に捉えるという方向ですか?(西村)

灰街:静けさが商品価値を持つということに関しては、たしかに文明を離れて静かな世界に戻ろうという流行は定期的に出てきていますね。音楽でいうと90年代にグレゴリオ聖歌ブームっていうのがあってマニアでも知らないような小さな教会の修道僧たちが歌ったグレゴリオ聖歌が急にニューエイジやワールドミュージックの文脈で売れるとか。あるいは、ヘンリク・グレツキの交響曲が、新ロマン主義的作風とはいえ、現代音楽の中では珍しくヒットチャートに上がるとか。それもニューエイジムーブメントの中で受容されたものらしいですが。抽象的な言い方になってしまいますが、わたしは「自然/人工」や「文明/前近代」のような二項対立で音を捉えるのではなく、今日に可能な「うるさい静けさ」みたいなものを見出していきたいなと思っています。

———騒々しさの中に反転的に見出される静けさについて、具体的なイメージが知りたいです。灰街さんのテクストを読んだり作品を聴く限りでの印象ですが、それは何かこうホワイトノイズ的な、うるささがハレーション的に極限にまで広がった末に聞き出されるもののように思うのですが。(原)

灰街:そうですね。例えばメルツバウのようなハーシュノイズではさまざまな帯域で蠢く音を追おうとしても、それを捉えることができず単なる一つの音響彫刻のように聞こえてくるというようなことが起こります。つまりエントロピーが高すぎて情報が無内容化するような現象です。これは厳密に組織化されているにも関わらず聴き手はその構造を聞き取れないというセリー音楽の問題でもあったと思いますが、そういった反転の瞬間というものが音楽には様々なかたちである。そういった反転を様々な方法で聴かせたいと思っています。

———つまり、灰街さんのおっしゃっている静けさというのは、今日価値あるものとされる単なる無音状態ではなくて、意図とか情報として向こうから語りかけてくるうるさいものが飽和したときに反転的に現われるような無意図性とか非表現性みたいな次元としても考えられているということでしょうか。(原)

灰街:そうなりますね。

作曲と批評

———もう一つ、前からお聞きしたかったことですが、灰街さんは批評をされておられると思うんですが、ご自身の音楽活動における批評の役割というか、どうして批評をやろうと思ったのか、それが灰街さんの音楽活動にどのように影響しているか、その辺りを教えて頂けますか?(西村)

灰街:創作や演奏だけでなく研究や批評も行うのは、音楽に対して音だけでなく文脈や環境を大切にしているからですね。それは自身の作品が置かれる環境を整理し、提示するということでもあります。

———先日のテクストの中で「壊れた世界で可能な音楽」というお考えを提示してくださいました。ご自身の『壊れた家具の音楽』が壊れた世界に対して持つ批評性について、最後にお話頂けますか?どういったアプローチで、その「壊れた世界」というものと対峙するのか。その辺りのお考えをお伺いできればと思います。(原)

灰街:静けさとうるささの関係に対して、それらの定義や実践に内側から切り込むことで崩していく。そうすることによって、結果として、今日の情報騒音社会に対する抵抗とまではいかないとしても、そこから逃れる領域みたいなのを作ることができればと思っています。

———灰街さん、楽しいお話をたくさんお聞かせくださりありがとうございました。また機会があれば、お話を伺えれば嬉しいです(小島)

灰街:こちらこそそう思います。ありがとうございました。

余談:スタイル&アイデアについて

——灰街さんの方からご質問などはありますか?(小島)

灰街:そういえば『スタイル&アイデア』はどういった理念で運営されている団体なのでしょうか?今日の作曲家と聴衆を繋ぐプラットフォームを目指すウェブメディアという、ざっくりとした理解はしているのですが。たとえば設立のきっかけとかは?

——僕はいわゆる音大出ではなくて、一般の大学で音楽学の研究をしています。なので、たとえばベートーヴェンが何を考えていたのかについて、さまざまな文献を通して知ってはいるんですが、他方で自分と近い世代の作曲家がどういうことを考えているのかはよくわからない。そういう、ある意味で奇妙な状態に置かれていることに気付いたんです。そこから問題意識が生まれました(小島)

灰街:かつての『音楽藝術』のような専門的な音楽雑誌もなくなってしまいましたからね。

——そうなんですよ。なので、そうしたものに代わるプラットフォームが欲しいなと思って、原さんや八木さんや坂本さん、西村さんに呼びかけて『スタイル&アイデア』を設立したという感じです(小島)

灰街:『スタイル&アイデア』についても知ることができてよかったです。

——どういう風にこの現状を乗り越えていくかというのは手探りです。今回灰街さんにお願いしたように論考を書いていただいたり、インタビューをさせていただいたりしているという感じですね。幅広い活動ができればと思っています(小島)

2022年2月3日
Zoomにて
インタビュアー:西村、原、八木、小島