インタビュー 樋口鉄平

インタビュー 樋口鉄平

2022年3月25日

樋口 鉄平

作曲家を志した経緯

———愛知県の高校に通われていたときからずっと音楽をされていたんですか?(八木)

樋口鉄平さん(以下、樋口):そうですね。僕、実はそのときはジャズをやってたんです。八事にポップコーンやメリーポピンズみたいなお店があって。今、ポップコーンはあるかな?メリーポピンズは閉店になったんですけど。もしかしてご存知?

———知ってます(笑)。私、その頃はジャズは齧ってなかったのですが。(八木)

樋口:当時は僕、ジャズをやりたくて。その当時名古屋の10代でジャズをやってる子って、すごく珍しかったんですよね。八事とか金山とか東大手あたりに集まってたジャズおじさんたちに混ざってジャズをやってたんです。「鉄平くん」みたいな感じでかわいがられながら。

これは別に秘密じゃなくて、よく人に話してることなんですが、高校を卒業する年の1月に『のだめカンタービレ』の再放送をやっていて、それを観たとき「音大に行きたいな」って思っちゃったんです。

———音大への進学を決心されたのはそのタイミングなんですか?(八木)

樋口:そうです。その時まではフランス文学をやりたかったんです。ランボーとか、そういうものに興味がありましたね。
音大に行く決心はしたものの、当時の僕にとってクラシックは全然知らない世界でした。それで、加藤節子先生という高校の音楽の先生に相談したら、「お友達に名古屋音楽大学の学長の人がいるから紹介してあげようか」と言われて、それが大口光子先生というピアノの先生だったんです。はじめ、東京藝大の楽理科を受けたんですが、なにせ受験まで2ヶ月しかなく、和声も勉強したことがなかったので、そのときは受からなかった。その頃に、大口先生から「あなたがやりたいの作曲なんじゃないの?」と言われ、愛知県芸の先生から和声のレッスンを受け始めました。

次の年は、県芸と藝大を受けるつもりでした。ところが、センター試験の申し込みをし忘れ、国公立はダメだということになった(笑)。それでも、なんやかんやで桐朋に受かり、それは本当にありがたかったんですけど、私立の音大は本当に学費が桁違いですよね。祖父母にも金銭的に助けてもらいながら、なんとか通うことが出来て、いまでも感謝してます。このように、結構めちゃくちゃというか、流れに身を任せるがままに、作曲の勉強を始めるところまで行き着きました。

なので、僕の基本は音大に入るまではジャズ。「クラシックってどんなものだろう」と思っていました。和声やクラシックのピアノのレッスンを受けたのも、浪人中が初めてと言っていいくらいです。音大に入ったときも「フォーレって誰?」といったレベルで、メシアンも知らないみたいな。ピアノのレッスンで触れたベートーヴェンやブラームス、バルトークといった有名な作曲家はもちろん知ってたけど、大いに抜け落ちたところがあった。作曲もちゃんとしたことがなくて、和声のレッスンのなかでバリエーションらしきものを試みたことがあるといった程度でしたね。

———音大に入られたときの習作は、どういうものでしたか?(小島)

樋口:そうですね。桐朋を受験したときは、与えられた四つぐらいのテーマから一つ選んで自由に作曲しろという形式で、正確には覚えてないけど9時間くらい缶詰で試験がありました。その時は「記念受験」程度に思ってたので、ほとんど何も書いたことがないような状態で臨んだんですけど、幸運なことにソナタかバリエーションを書かなきゃいけないってことだけは知ってた(笑)。ソナタをいきなり書ける気がしないから、バリエーションを書いてみようと思ったんですね。それが初めての作曲の記憶といえるかもしれない。

———それまでやってこられたジャズはその習作にも影響していましたか?たとえば、ジャズのエッセンスがそこにあったとか。(小島)

樋口:その時の楽譜は残っていないけど、モーツァルトみたいなスタイルだったと思います。当時、僕はモーツァルトの音楽が好きだった。いまはそんなにシンパシーを感じ無いんですけど。その頃は、特にピアノ音楽においてテーマからどういう風に楽想が発展していくかに興味があって、モーツァルトの音楽に感じられる即興性のようなものが、文献学的にいったらめちゃくちゃかも知れないけど、ジャズにとても近い気がしていたんです。実際、できあがったものは書法としてもめちゃくちゃで、評価の対象にもならないものだったと思うんですが、後に桐朋で師事した先生からは「即興性みたいなものを感じた。他の作曲の学生とちょっと毛色が違うなと思った」と聞かされました。多分、古典派のスタイルを取りながらも、古典派が持つ即興性だけを掬い上げようとしたような、何か変なものだったんじゃないかな。時間内に完成できなくて、終止線も引けなかったので、本当に何とかギリギリで入学できたというのが実情だけど。

はっきりとジャズ的なスタイルをとったのは、学部の2年目に、学生のなかから選ばれた作品が作品展という形で演奏される、ある種の競争があったときに書いたものかな。当時、エリック・ドルフィーのフリージャズに興味があって。彼の『Out to Lunch』というアルバムの編成がトランペット、ヴィブラフォン、ダブルベース、ドラムに加えて、ドルフィーがバスクラリネット、フルート、サクソフォンを持ち替えで演奏する。僕は、この編成からドラムを抜いて、トランペット、ヴィブラフォン、ダブルベース、バスクラリネットのための四重奏の作品を書いたんです。個人的には大失敗だったんですが、唯一ジャズのスタイルで書こうとした作品と言えると思う。あとはピアノ曲でちょっとだけスケッチを試みたかな。でも、分かりやすく「いかにもジャズ」というものを試みたのはそれが最初で最後でしたね。

習作時代:楽譜の不可能性

———僕が知ってる樋口さんの最初の作品は《Phonemic Triad》(2015)なんですけど、この作品は、モーツァルトやジャズのようなルーツがあった上で、音大のアカデミックないわゆる現代音楽教育を受けた結果として生まれた、いわば前期樋口作品の集大成みたいなものでしょうか。

僕が聴くと、いまの樋口さんの作品や「楽譜の不可能性」といった問題意識と《Phonemic Triad》の間にはちょっと隔絶があるのかなって思うんですけど(小島)

樋口:そうですね。実は「楽譜の不可能性」について考え始めたきっかけもジャズなんです。ジャズでは、ちょっと遅めにリズムをとるレイドバックとか、少し前気味にとるオントップのようなものがある。よく、ベーシストはちょっと早めにリズムをとってとか、ソリストはちょっと遅らせてもいいとか言うんですけど、それは全体のリズムがテンポ80のところをベーシストは81.5に、ソロをとるサックス奏者は79.5にするみたいな話じゃないと思うんですよね。楽譜ではどの楽器も同一のテンポ80としか書けないんだけど、実際には奏者の内部でそれぞれ異なっているというか。

これは僕の個人言語を通した解釈なのでいろんな反論はあるかと思うのですけど、ただ一番大事なこととしては、「西洋音楽の書記体系、現代音楽の非常に多くの書記法を駆使しても書きえないものがあるなあ」ってことを、その作品展のときに確かに思ったんですね。そのジャズのイディオムを使って書いたときの失敗もそういう不可能性に原因があった気がする。

僕がジャズから得た一番大事なことは、この「楽譜に書き現わせないものがある」ということで、その考えが次第に僕の書記体系のなかで複雑化して行ったんですね。

———その複雑化という点についてお話頂けますか?(小島)

樋口:たとえば、僕の中で最初に手ごたえがあった作品は《サンクチュアリ》というピアノソロとエレクトロニクスの作品でした。この作品では、鍵盤上の指の動きや生まれてくる響きが複雑化していくなかで、完全五度から不協和な二度へみたいな安定した書記言語による方法とは異なるかたちでの「転覆」が、非常に個人的な聴取のレベルで起こっているように感じられました。そういうものに非常に興味があったんですね。「あなたは何を言い表したいんですか?」みたいなことをまずは度外視して、自分でも何が言いたいのかわからないところまで複雑化してしまう。ある意味では、ジョン・ケージによる《易の音楽》とかの世界に接近していったと思います。僕はケージのようにチャンスオペレーションみたいなものは一切使っていなかったにもかかわらず、極度に複雑化することによるコントロール不可能というか、作品が作曲家自身の手を離れていってしまうという点では共通している。それが大学3年生の2011年で、複雑化や不可能性の問題に意識的になった最初の作品です。

ただ、自分でもわからないものを書こうとすると書けないんですよね、やっぱり(笑)。それで、しばらくはソロの作品ばっかり書いていた。友人からヴァイオリンを借りてヴァイオリン・ソロを書いたり、自分でフルートを買って、フルート・ソロを書いたり。《Phonemic Triad》を書いた時にいた藝大では楽器が借りられたんですよね。その時、大学から借りたバスフルートと友人から借りたヴィオラが家にあって、漠然と次の作品はヴィオラとバスフルートを使おうかなと思っていた時に、誰かのティンパニ・ソロの作品をYoutubeで見たんですよね、ハインツ・ホリガーかエリオット・カーターじゃなかったかと思うんですが…。とにかく、そのヨーロッパの作曲家のティンパニ・ソロの作品を見たときになんか偶然全部繋がったんですよ。あ、ヴィオラとティンパニで書けるって。

———ホリガーにはティンパニの曲がありますね。(八木)

樋口:ありますか?それを多分YouTubeで見たんだと思います。僕が当時、執着、というか強迫観念として持っていたのは、何か分かりきったものは書けないということ。とにかく何か混乱させなければいけない。とはいえ、ただわからないものを書いたのではリアリティがない。だから、ちゃんと指は動かせるものじゃなきゃいけなかったんですね。ヴィオラとバスフルートに関しては自分で触りながら書けたんですけど、ティンパニに関してはそれができなかったんですよね。触れる楽器の助けを借りて、自分のファンタジーで書いたので、いま楽譜を見ると本当にメチャクチャなんですよ。ティンパニ奏者がダンサーのステップかというほどに音程を変えまくる。だから、実際の演奏の風景としても足がもう始終動き回っているみたいな。足も手も動き回ってる。

———演奏困難な曲になってしまった。(八木)

樋口:ええ。これはもう言っても大丈夫だと思うんですけど…日コンの本選会の時に、ティンパニ奏者が最後の二ページくらいで楽譜を追えなくなっちゃったんです。だから当時の演奏は終止線でピッタリ終わらずにずれてしまって、その後にちょっと沈黙があって、指揮者が「じゃ終わろう」って言って終わらせたという感じだったんですよね。いまからみれば、結果として混乱が生じて、そういう演奏が出てきたとしても「それはそういうものじゃないか」って思うんですけど、当時、コンクールという制度的なもののなかで非常に緊張していた僕は、もちろん作曲家としてのエゴもありますし、「ああ、ずれてる。なんでずれちゃったんだろう」とドキドキして消耗した記憶があります。

結局、日コンは受賞もできたんですけど、コンクールにそういう混乱した作品を出し、演奏の方も混乱して、果たしてこれで良かったんだろうかという思いが残りました。そういうなかで、さきほど小島さんは「集大成」という言葉を使われてましたけど、これで一区切りという風にはいかず、この後、何を書いていいのかわからなくなった時期がありました。

新しい作品を書くまで一年ぐらいブランクがあって、一時期は、本気で詩人になりたいとか思ってたりしました。音楽の連続性みたいなものが受け入れられなくなってしまったんです。たとえばABAがあったときに、AとBとAみたいなものが事象として連続して感じられなくなった。古典的な作品を聞いてても全部がバラバラになっていく。そういう時にテクストなら、「A is B」と言えば「A=B」みたいな関係性が出てきますよね。音楽よりも言語を用いた方が、そういう関係性だとか連続性みたいなものが保証できる。作曲家として、個々のものを混乱させようとした結果、言語を解体したいというよりは、むしろ言語がもつ連続性みたいなものに惹かれたんです。特にアメリカの言語派の詩人とかあの辺りのテクストに非常に惹かれていて。そういう中で次に取る道を模索していた。

なので、たしかに今やっていることと《Phonemic Triad》のあいだに隔絶はあるんですよ。「これ以上同じ道は行けないな」と思ったので。でも、他方で「何かわからないもの」、楽譜の不可能性というものはやっぱり現在でも重要であり続けています。そういった意味では、連続性があるともいえる。

演奏者の混乱から聴き手の混乱へ

———まさにその連続性というところに関心があります。どういったレベルでつながりがあったのでしょうか?(小島)

樋口:そうですね。《Phonemic Triad》で、あまりにも難しい楽譜を前にしてティンパニ奏者が混乱してしまったことには、ジョン・ケージが《易の音楽》を「フランケンシュタインの怪物」って言ったのと同じレベルで、何ていうか非人道的なところがありますよね。作曲者である私が混乱してるんだから演奏者も同時に混乱して欲しい。つまり私が見た幻想と同じものを見て欲しいっていう強いエゴがある。そこにやっぱり限界も感じたんですね。

当時、記号の混乱として僕が最も使ってたのがドミソなんです。音大の教育的なものからすると、安定した協和的なものと一般的に解釈される「ドミソ」という事象それ自体が持つ混乱のようなものが描きたかった。それが《Phonemic Triad》までのアイデアだったんです。でもそれは、いま言ったように、僕自身が混乱しながら聞いた、聞こえたものをなんとか書きとめて演奏家に渡して、「さあ、一緒に混乱してください」みたいなかたちだったわけで(笑)。そこに苦しさも感じていたんですね。

記号が混乱する瞬間に非常に興味がある。けれども、それが演奏家の中で起こる場合、演奏家の負担が非常に大きい。なので、むしろそれが聴衆の頭の中で起こって欲しいって思うようになっていったんです。このドミソの混乱みたいなものが、聴衆の頭の中で、パフォーマンスとして起こるような事象を考え始めたわけです。で、その最初の試みが、米田恵子のプロジェクトだったかと思うんです。

———なるほど。混乱に対する関心は連続しており、そのなかで混乱して欲しい相手が演奏家から聴き手へと移っていったということですね。米田恵子のプロジェクトについて具体的にお話頂けますか?聴き手の混乱というのはどのように生じるのでしょう?(小島)

樋口:演奏家にアイデアを聞かせて、何か反応してください、ドミソだけを使って、これを演奏してみてくださいというのが《Phonemic Triad》までのスタイルだったとするなら、米田のプロジェクトの場合はそうではない。演奏者は作曲者側に近くて、米田の物語を伝える役割を果たします。それは「米田恵子っていう人がいて、ベートーヴェンの32個のピアノソナタから1158個のドミソだけを抜き出して、日本国憲法に基づく音声詩や視覚詩を作成して、山田耕筰によるプロパガンダに対して反抗していて.…..」といった矛盾に満ちた物語で、そこではある種のリアルさのディテールと同時に可笑しさ、不自然さが露呈している。米田をめぐるレクチャーパフォーマンスみたいなものを真面目に進めると同時に、厳密な意味では、そこで伝えられるストーリーは事実じゃない。こうして、聴衆や読み手の側に負担や混乱が生じるわけです。

もともと僕は混乱があることをネガティブに捉えていたんですよね。正面切って言う人はそんなにいなくても、やっぱりどこかで「あなたは何を描きたかったの?この曲によって何をやりたかったの?」という気持ちが残る。そのときに僕が言えるのは、これは特定の何かの表現ではなくて、むしろ、そこから逃れていく混乱みたいなものがあるということではあったんですが、それを積極的に主張していくというよりは「何が書きたいかわからないんだよね」「どうなるかわからないんだよね」と、自分でもネガティブなものとして考えていたところがあるんですよね。

そうした表象の混乱それ自体を受け入れて、積極的に作品のスタイルとして使っていけばいいんだ、それが美点になり得るんだと思えるようになったのは、マイケル・ピサロに出会ってからです。彼との出合いは、僕の人生の中で、本当に180°の大きな転換点でしたね。

———ピサロとの出会いは、例えばこれまでの高校時代のジャズ体験などに関連付けられるような問題に、新たに視点が付け加えられたというよりも、これまでも持っていた問題をポジティブに捉える機会だったんですかね。(小島)

樋口:そうですね。ピサロは、すごくいい先生で、客観的に語れないほど信奉してしまっています。いままで、ここまで尊敬できる作曲家に出会えたことがなかったので。ここまでお話してきたジャズの話もジョン・ケージや実験音楽の話もクラシック音楽の話も同様にできたという意味で、本当に今まで抱えていた全ての問題意識について話すことができた最初の先生ですね。

なおかつ、彼がどんなことを言ってくれるかというのは想像できなくて、いつも新しい驚きがあった。そういう意味で、今までの自分を肯定できたというだけではなくて、本当にこれまで知らなかった何かに出会えたという感覚もあるんです。

パフォーマンスについて

———今はシュトゥットガルト音楽演劇大学に在籍されてパフォーマンスをメインでやってらっしゃると伺ったのですけども、パフォーマンスに関心をもたれたのはなぜでしょうか?(八木)

樋口:米田恵子のようなプロジェクトを色々とやってみて、とくに日本においては、自分はいわゆる伝統的な意味での作曲家というカテゴリーには属してないんだなあということに、どこかで気づいたんですね。割と最近までそう思ったことはなかったんですけど。というのも、カリフォルニアにいる時もドイツにいる時も海外では「コンポーザー」としてほとんど違和感なく通用してきたところがあったので。そういうなかで、とくにパフォーマンスがやりたかったというよりも、シュトゥットガルトの学科の説明を読んだときに、あくまでも僕の考える意味での作曲というもの——たとえば、僕の問題意識のなかにはレクチャーパフォーマンスやダンサーとのコラボレーションも含まれていますが——を包括的にできるのはここだろうと思ったことが、このパフォーマンス学科を選んだ一つのきっかけとしてありました。

僕自身がここで勉強を始めてまだ数ヶ月しか経っていないんですけど、それでもやっぱりパフォーマーとしての視点から何かを考える機会が今までなかったことを痛感することがあって、それはとても勉強になっています。

———パフォーマーとしての視点から考えるというと?(八木)

樋口:一つには、身体の使いかたについて本当に自覚的になりました。これまで僕は、舞台上で喋るときに自分の手がどう動いてるのかみたいなことに、あまりにも無自覚だった。パフォーマーとして考えるときに、本当に、訓練しなくてはいけないことがあまりにも沢山あるんですね。自分が今どういうふうにしゃべっているか、呼吸を意識してみたいな。つまり、身体や意識のコントロールに関して学ぶことが沢山あるんです。僕、本当は舞台に出るのが苦手な人間でして、パフォーマーとして自分がどうなっていくかも本当に分からないんですが、ともかく試行錯誤をしている状態です。

それから、不可能性の話で言うと、パフォーマーがどれぐらい舞台の上でパフォーマンスとして混乱することがあり得るんだろうかっていうのが、最近の関心ですかね。たとえば、この頃は、デーヴィッド・チュードアのことをよく考えます。ジョン・ケージが、透明シートに点と線が書かれたものをチュードアに渡して、垂線を引いて音楽のパラメーターを導き出せというときに、ケージ自身には、僕がいま言ったみたいに「わからないもの」や混乱があると言っていいと思うんですよね。あるいは《易の音楽》には、何センチ=何秒みたいな記譜法と同時にアッチェレランドとリタルダンドって書いてあるんですよね。それってどうやって読んでいいか普通わからないと思うんですよ。何センチ=何秒だけならわかるんですけど、同時にそれがリタルダンドしてるってなると、尺が混乱しますよね。僕は、50年代以降のジョン・ケージの混乱した楽譜に非常に興味があって、チュードアとケージで言うとケージの側にいて、作曲家である僕がこうやって混乱してるんだから、これを渡された演奏家にも混乱して欲しいとついつい思ってしまう(笑)。ところが、ケージによればチュードアはストップウォッチを使って、リタルダンドやアッチェレランドを読む方法を編み出した。ケージは、このエピソードを「そんなこと想像できなかった!」みたいな感じで明らかに驚きをもって語っている。僕はこれを文字としてしか読んでないのでわからないですけど、「すごいことしたな、チュードア!」という感じで。このようにチュードアなら楽譜を読んで混乱したとしても、たとえば、ストップウォッチで正確にリアライゼーションができる形で読み方を編み出したりするわけですが、けれども、そのときに「何かわからないもの」はどうなるか、チュードア自身も演者としてわからないものがあるのか、それとも、その混乱をパフォーマーはある種すべてわかるものとして、媒介者として聴き手に伝えるものなのかみたいなことを、最近よく考えています。

その意味では、演奏者の混乱ということも真剣に考え始めるようになったと言えるかもしれないですね。これまでは作曲家として分からないものを手渡すとき、パフォーマーがどう考えるかをあまり気にしておらず、パフォーマーがブラックボックスになってしまっていた。いまではパフォーマンスの次元における「わからないもの」という問題をちゃんと引き受けたいなっていう風に思い始めています。それは、これから作曲家として楽譜を渡す時においても、重要になってくると思います。

———授業ではどのようなことをされているのでしょう?(八木)

樋口:まだ学び始めたばかりですが、パフォーマンス科で面白いのは、みんなからいろんなアイデアがどんどん出てくることなんです。ある日のワークショップで出た課題は「お互いにパフォーマンス・スコアを渡し合う」というものでした。ある学生は「椅子から起き上がることに失敗すること」っていうパフォーマンス・スコアを書いて、僕の友人がそれをやりました。とても好意を持てる美しい失敗の仕方だったんですけど(笑)。

そのワークショップの最後にグループで作品を作りました。制作時間は10分か15分だったかな?僕は仲が良かったダンサーとその同級生の友人と二人で話して、この「失敗」で何かやってみたいという話をしたんですね。「どうするかわからない、でも何か失敗するってどうかな」って。でも15分話しても全く結論が出ないままで、「椅子で何かやるのってどう? How about doing something with a chair?」って僕が言っても友人から反応がなかった。それでそのフレーズを何度も言い続けてたんですけど、「あ、これが作品かもしれない」みたいな話をしたところで、時間切れになったんです。それで、何するか本当に知らなかったんですよね。もうその時点で失敗してると思うんですけど(笑)。結果として彼女が僕をソファーの下に押していって僕の頭がソファの下に潜っていって、いろんなことが起こったんですけど、でもそれが、僕の感覚としてはとてもうまくいったんですよね。反応も良かった。なので、コンセプトとしても、何が起こるかわからないことが舞台上でできた。失敗するっていうことが作品となり得たかなみたいな。

Displacementという操作について

———原稿に引き寄せて言えば、指示的な、つまり作曲家が与えるものと、その結果として生じるものとの間に齟齬があり、その混乱の結果として楽譜の不可能性が立ち現れてるということが、どの樋口作品においても重要なコンセプトになってると思うんですけど。一方で、リスナーの立場に立つと、音楽の書法の複雑さがある一点を超えると逆に混乱が生じにくくなってしまうのではないかと思うんです。つまり、たとえばパフォーマーが服を脱ぎ出しても人を殴ってもまあありえそうに感じられてしまって、そうするとリスナーにとって不可能性や混乱が立ち現れてこないといった事態がありうるのかなと思うんです。リスナーに対するそのような作用についてどのように考えられているのかお聞きしたいです。(小島)

樋口:そうですね。すごく大事な質問だと思います。たとえば、フルクサスの時代に、ピアノを破壊するだとか、水滴を垂らすみたいなものをパフォーマンスと呼ぶことがいかに革新的だったとしても、いまでは、それはある種既知のものとして受け取られてしまうと思うんですよね。「ああ、こういうものね」って。「街頭で何か過激な言葉を叫ぶとか。むしろなんでもない動作みたいなものをパフォーマンスと呼んでしまうのね」みたいな。それは何らかの枠組みの中に入れられてしまうものだと思うんですよね。これはテクストに関しても言えて、言語派のテクストって、作品によっては本当にもう一つ一つの単語レベルで前後の関連が無いように見えるんですよ。でもそれって、いまの時代に少し距離をとって読めば「ああ、ランダムネスね」みたいな、たしかにそれを一言で言えてしまう何かがある。なので、おっしゃったように、やっぱり、なにも驚かなくなっちゃうっていうのはあると思うんですよ「ランダムネスね」とか「不確定性のスタイルね」とか「フルクサスの、あー、知ってる知ってる」みたいになってしまう。それは、あるスタイルに対する認識が既に制度化されているとも言い換えられる。

そうなったときに、一つ鍵となるのが、原稿にも書いたdisplacementという操作で、これは認識に負荷を掛けるためのものです。この言葉を最初に使い始めたのは、まさにこのトピックについての会話の中でした。たとえば、ある時代を生きた米田恵子という人物の物語を現代に持ってくる。それは、ある時代が持つコンテクストのようなもの、一つの理解の体系を持ってきて、それを今の時代の体系にぶつけてしまうことだと思うんです。あるいは、既知のものと未知のものでも良いんですけど、何かを一つの場所から他の場所に移し替えてしまう。それは割と負荷がかかる操作であって、出てきたものをそのまま受け取るランダムネスや、それを完全に既知のものとしてしまう制度化によるのとはまた違ったものを浮かび上がらせる操作といえる。そうした問題意識を持っています。すみません、答えになってるかちょっと分からないんですが。

———いや、すごくしっくりきました。たとえばシュヴィッタースに対して、今ではもしかしたら驚きはないかもしれないけど、一方でそれをdisplacementすると、秩序が基盤にあることによって、かえって混乱が聴者の中で浮かび上がりやすいっていうのはすごく納得がいきました。そういう理解で合っているでしょうか?(小島)

樋口:合ってます合ってます。

———見方によっては、あらゆるテクスト作品や図形楽譜が、樋口さんのおっしゃる書記の混乱という意味での楽譜の不可能性を開示するようにも思われるんですが、そうした作品一般と樋口作品を隔てる要素の一つとして、このdisplacementという操作を考えることもできそうですね(小島)

樋口:そうですね。僕が求めているのは何か新しい書記体系が始まったときに見える世界なんですよね。それは必ずしもオノ・ヨーコとかジョージ・ブレクトとかがテクスト・スコアを開始したときである必要もなくて、ある意味では五線紙の歴史のなかで楽譜の機能が変わるたびに、楽譜と向き合う中で、そういう新しい世界が見えていたと思うんです。モーツァルトの時代に担っていた楽譜の機能と、たとえばベートーヴェンが発見した楽譜の機能は必ずしも同一であるとは限らないですよね。ただ、こうした探求を、たとえば「60年代の精神を復興するんだ」みたいな意識で繰り返しても、「あ、フルクサスの再興がしたいのか」とか、「あの時代のテキストのスタイルでやりたいのか」となってしまう。重要なのはあくまでも、書記体系の模索やそのなかでの不可能性の開示を通じて「何かわからないもの」が見えたっていうその瞬間それ自体の立ち上げなんですよね。僕がdisplacementみたいな操作をいまのところ用いているのは、それが負荷を通じてこの「何かわからないもの」を浮かび上がらせるのに有効だと思っているからです。

———お話を聞いて、displacementという操作の魅力が改めてよくわかりました。(小島)

米田恵子プロジェクトについて

———作曲はもちろん、演出やパフォーマンスも全部お一人でやっていらっしゃいますよね。(八木)

樋口:いいえ、クレジットがちゃんとされてなかったら、この場を借りて断っておきたいんですけど、米田恵子に関してはかなり共同作業の部分が多いです。例えば米田恵子の書いた詩は詩人の河野聡子さんが作ってくださって。米田恵子の肖像画は、当時のプロジェクトメンバーだった岡千穂さんが、自分と樋口一葉や与謝野晶子だったかの顔を合成して作っています。あとはそうですね、山田耕筰のテキストを見つけてきてくれたのは坂本光太くんだったと思うんですよね。もともとケージと生没年が同じ作曲家を作り出そうという僕のアイデアがあって、そのときコメダ珈琲でミーティングしていたので「コメダ・ケージでいいじゃん」みたいなことを馬場武蔵君が言って、それを灰街令さんが米田恵子にしたとか。本当に全然僕ひとりのものではないんです。

演出に関しては、特に2018年のプロジェクトでは小野龍一さんが担当してくださいました。先ほど、舞台上での自分の身体の動きに関してはまだまだ訓練が足りないということを言いましたが、演出に関しても同様で、演出家の意見は非常に大事でした。

他方で、海外でやるプロジェクトは割と僕ひとりでやっちゃうんです。それは、パワーポイントによるレクチャーパフォーマンスという、よりシンプルなフォーマットをとっているというのもありますね。それでも、米田恵子の英語版のパフォーマンスでは、はじめに佐伯美智子さんに翻訳をして頂いています。英語版のパワポの中に、たとえば河野さんが作成した詩とかが入っていて、ということもありますし。

僕は、マルチタレント、21世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチになるつもりは全くない(笑)。本当に不器用な人間なので、できることしかできない。できない時には人の助けを借りながら、共同プロジェクトという形でやってきたんです。

———インタビューの時間としてはそろそろキリがいいんですけど、僕個人としては、先週末11日(2021年12月11日)に開催された米田の作曲コンクールについて……具体的な質問が浮かんでいるわけじゃないので、見切り発車で喋り始めてしまったんですけど……コンクールを聞いた後にその主催者に話を聞けるっていう機会はなかなかないので聞きたいなと思って。(小島)

樋口:正直なところ、今までで1番難しいプロジェクトだったと僕は感じています。まず、どこまでが僕の作品かっていう線引きが非常に難しいプロジェクトだったなと思うんですよ。プレトークの中でも、「あなたが作品なんですよね」というような質問を友人の黒田崇宏さんから頂いて、僕はその回答を保留したというか、ちゃんとした回答をしないままトーク自体終了したんですけど。というのは、応募規定(オープンコール)までは、いろんなメンバーの人に相談しつつも、私の作品だって言えるんですよね。たとえば媒体の自由性はルツィエ・ヴィッコヴァのアイディアですけど、そういったいくつかアイディアを盛り込みながら、権力に対する言葉の使い手に関する米田からの引用から始まるオープンコールにするっていうビジョンがあって、それを具現化した。これは楽譜を書くのに似たところがあって、ここまでは私の作品だと自信を持って言えると思うんです。

でも、それに対して、43もの作品が寄せられたことがまず予想外でした。なおかつ、この43作品がかなり良かったんですよね。なので本選選出作品を決めるのはかなり大変で。その43作品が誰に帰属するかといったらもちろんそれぞれの作曲者ですよね。なおかつ、審査員の方にある程度ジャッジしていただくってなったときには、もう僕の手を離れていますよね。例えば米田恵子は自分の分身かという質問が出ていたんですけど、そのように思ったことはなくて、あくまでも僕自身に対する他者として考えているんです。米田恵子が他者であるのと同様にコンクール自体も、「こういうふうに審査を進めます、そしてこういう結果こうなりました」っていうように選考会の同意として米田賞を決定したことで、もう僕がコントロールするようなものでなくなっているという感覚があるんですよね。

だからこそ、ある程度突き放して言うと、オープンコールの中に混乱はあると思うんです。なんて言うか、一方であらゆる人が申し込めるという平等主義者的な理念を掲げながら、一方で米田賞を授与する、つまり誰か一人を特別視して、それに権威を与えるっていうステートメントだと思うんですよね。それ自体に既に混乱があって。

———コンクールを武満やショパンの名の下にやるんじゃなくて、喫茶店の名前とジョン・ケージという無関係のものを結びつけた米田恵子の名の下でやる点に制度批判的な側面があると思うんですけど……(小島)

樋口:こうやって無事終了したいま、それが成功だったか不成功だったか、そしてどれぐらいそれが制度批判として効力があったかっていうのは、見届けてみないとわからないっていうのが正直なところです。僕自身、たとえば受賞者がどのように思ったか、やっぱり可能であれば1人1人の受賞者の方と話してみたいですね。受賞者の1人とは、少しだけ話す機会は有ったんですけど。

コンクールが全部嘘っぱちだから、新たな、より良いオルタナティヴな組織を作りますみたいな意図を僕は実は持っていなくて、むしろわからないものはわからないものとしてオープンコールとして提示して、それが結果としてどうなるか見てみたかったということなんですよね。

オープニングのスピーチでも少し述べたように、第2回、第3回としてコンクールを続けていく意識は全く無いんです。たしかに、価値決定の動作には、やっぱり制度化への何かしらの意識や指向性が見られるように思えるんですけど、僕にはそういう意識は全くないんですね。制度として、組織として、米田恵子コンクールの実行委員会が有効性を持ったら、むしろそんなの偽善じゃないかとも思いますし。なので最初で最後の試みとして、こういうことをやってみたかった。

ただ、制度批判としては、権威的な組織に近いものとして実行委員会が見えた方が有効だったのではないかとか、あるいは、むしろ偽物性がより現れていた方が効果的だったのでは、といったことは考えますね。コンクールとしての運営も同様で、きっちり組織として、打ち出し方を明らかにした方がよかったのかもしれない。たとえば、賞金10万円は本当に与えられ、イベントとして宣言もされるにもかかわらず、組織の運営としての虚構性が極端に露呈しているとすれば、それは、ひとつのパフォーマンスになり得る。

これは作品のフォルム、形式の問題です。応募規定の中に制度批判の強い意志があるからといって、このコンクール自体の運営が制度批判になりえたに違いないとは思ってないんです。やっぱりそれは、意志の有無だけではなく、何かしら作品のフォルムの問題として表されるべきなんです。ドミソに「体制批判」って名付けたらドミソの音楽が体制批判ってことになるかって言ったら、必ずしもそうではないですよね。古典的な考え方で言ったらやっぱりドミソの使い方、作品のフォルムそのものに何かが現れていなければいけない。これは割とモダニストの考えで、古典的過ぎるのかもしれないんですけど、僕はそのように思っています。

コンクールの運営自体に形式として従来のコンクールとは違うものが本当にあったかっていうのは、僕自身がちょっと距離を置いてみなければ分からない部分であり、また、今回のプロジェクトが終ったいま、それがどのように人に受け取られているかということにも、私自身、計り知れない部分がある。こうした二つの意味において、今回のプロジェクトの行く末をきちんと見届けたいなあっていう思いでおります。

———樋口さんがスタイル&アイデアの原稿で引用してくださったペソアの文章を喚起させるところがありますよね。「私は複数の役者が複数の戯曲を演じる為の空っぽの舞台に過ぎない」という引用があったことをいま強く思い出して。コンクールという空っぽの舞台を提示して、そこに人格を流し入れる43人の作曲家がいて、そこからなんらかの意味の混乱の可能性を樋口さんが提示して——そこに制度批判を読み取っても良いし、いろいろな意味がこれから立ち現れていくだろうし。樋口さんがコンポーザーとして行うのは、そういう可能性の場をより効果的な、つまり、たとえばdisplacementのような操作によって、ただ単にシュヴィッタースみたいな、あるいはオノ・ヨーコみたいなものをやるのでは現れなかったような効果を生むような場をつくる活動として認識してもよろしいのでしょうか?(小島)

樋口:そうですね。

僕はポピュリスト的なアプローチが苦手ではあるんですが、今回のコンクールは大変な試みだったので、やっぱり何かしらの反応があることを期待しています。無視されるっていうのはやっぱり一番悲しいことではあるんですよね。それは僕の他の作品に関しても同様に言えるかなと思います。

もちろん、displacementという操作が「キャッチー」なものであるとは全然思っていません(笑)。それでもこうやってお話したら、たとえ少しだけでも自分のやりたいことをわかっていただけるかもしれない。そういう意味での、入り口としても、この操作があると信じたい。なんというか、1万リツイートされたいという思いはあんまりなくて、認めてくださる人っていうのは数人でもいいと思うんです。分かってくれる人が、たとえば三人とかでも、本当に強い数だと思うんですね。でも、そういう数に至るためにやっぱり何かしらの有効な入口が必要なんです。こんな風に、ある場所から他の場所に移すdisplacementみたいな操作が混乱につながるんだといった話をすることが、さらなる混乱、「何かわからないもの」を引き起こす入口となることを願っています。

2021年12月14日
Zoomにて
インタビュアー:小島、原、八木