第一回シンポジウム「桑原ゆう・辻田絢菜:アーティスト・トーク」(2022.6.18)における会場からのご質問のうち、時間の都合からお答えできなかったものに関して、桑原ゆう氏、辻田絢菜氏より文章にてご回答頂きましたので、ここに公開致します(編集部)
シンポジウム内でなされた質問と回答を公開しました(2025.6.25更新)
桑原ゆうさんへの質問と回答
Q. タイトルの付け方が面白いと思いました。英語だけでなく、宮沢賢治の作品を題材にしたものや、旧漢字である「聲」を用いるなど、他の作曲家とは異なるタイトルへのこだわりを感じました。作品のタイトルについて、何か意識していることはありますか?
——私にとってタイトルというのは「詩」です。それは語りすぎもしないし、かといって、語らなくもない。それだけで、ある一定の世界観が表出できるもの、なにか訴えかけるものがあるような言葉を選ぶようにしています。
Q. 西洋音楽にある程度精通している人だけでなく、いわゆる「一般人」にも聴いてもらいたいと思われていますか?
——基本的に、最初の段階では全てが伝わらなくても別にいいと考えています。むしろ伝わるわけがないですよね。そもそも違う人間なので。伝わらなくていいけれども、音楽として力があれば、それがなにか問いかけたり、なにか気づきを与えたり、なにかを痕跡として残してくれるはずだと私は信じていて、そういう強い音楽を書きたいです。まずそういう痕跡を残すことができれば、そのあとでプログラムノートを読んだりとか、他の曲を聴いてくれたりとか、そういう風にしてだんだん作品への理解が深まっていくはずです。だから、作曲家としては「一曲だけで決めてほしくない」「その一曲だけが私じゃないから」というのは、いつも思っていることです。ある一曲をとっかかりに、そこから作曲家が何を考えているかを追ってもらえたら嬉しいです。
Q. 「西洋音楽は、歴史的に、音高を第一義とする」として、それとの対比や差異から日本の声明などに意識的に取り組まれていますが、西洋音楽がまだ口頭伝承だった時代に遡行するという発想や、日本の音楽以外のもの(あるいは原初の発声)への眼差しはどのようにもたれているのでしょうか。グレゴリオ聖歌であっても、それを引き延ばし、そこにメリスマを重ねるオルガヌムにおいては、聖歌も、声明以上に拡張されます。そしてそれは当初は口頭伝承や即興によって実践されていました(つまり、一つのシラブルを拡張するという点においては、西洋の宗教音楽も声明と同様のことを行っていたわけです)。西洋音楽が筆記の伝統を開始してから「作曲」行為が発展し、その伝統の延長に、現在の作曲家も位置付けられると思います。そのような位置にある作曲家が、基本的に口頭伝承が前提である声明などの「作曲」を行うことの矛盾は、難しい命題だと思います。現代における声明の実践現場で、記譜された「作曲」が一般化するなら、それは新しい伝統(口頭伝承ではない伝統)を形成してしまうことになり、ともすれば、それまでの伝統音楽とは異なる価値や美意識、感覚を導くことになる可能性があるようにも思います。そのことを、西洋音楽における口頭伝承時代への遡行となぞらえるなら、西洋音楽がその後、作曲技法を発展させて現在に至る歴史を歩んできたように、声明においても、そこから始まる新たな音楽史があり得るのでしょうか。
—— これは言葉をきちんと選ばないと、誤解を生むことになる難しい問いですね。口承伝統と作曲とはたしかに矛盾するところはあります。私はその矛盾をもちろん意識して、それに引き裂かれそうになりながら曲を書いてというのが実際のところです。ただ、声明は口承で伝わっているとはいえ、やっぱり記録として残していく、メモとして残していく必要があります。すごく正確に書かれているわけではないですけど、それでも記譜されている。それを現代のお坊さんたちは整理しようとしています。
日本の音楽は、スタイルとしてはグレゴリオ聖歌以来の西洋音楽の歴史とは全く違ったかたちで発展していて、結局口承伝統で伝わってきた様式のまま、残っています。今日は、種のようなものから有機的に成長する音という話題も出ましたが、私は音楽の歴史のはじまりもまた、種みたいなものだと思うわけです。西洋音楽も日本の音楽も最初は同じ種としてあったけれど、そこからいまある風にだんだんと分かれて発展していったと私は考えています。
おそらくシラブルを引き伸ばすというところだけに注目されてしまったのかもしれないですが、それは私の説明が悪かったかもしれません。大事なのは、私はそれを日本語で考えたいというところです。私はそもそも日本語で思考しているので、日本の言葉で音を引き伸ばす、日本の言葉における前-言語的なものを考えたいです。いまのところ私は声明だけでも手一杯というか、まだそれについて知りたいことがたくさんあります。声明などのことを一生懸命考えて、日本の言葉の抑揚を自分のなかでどうにか身体的に感じて、それを音楽に取り入れたいです。日本のことをとにかく突き詰めていったら、きっとグレゴリオ聖歌の方の始まりと同じようなところに行き着くだろうと思っています。つまり、声明の方から向かって行って、世界の音楽の始まりにたどり着けたらいいなっていうのが私の考え方です。
Q. 桑原さんの「日本」を深堀りする態度は、「ナショナルを経てインターナショナルへ」とする伊福部昭の創作態度にも通じると思います。これまでも「日本」を題材とした作品は書かれてきましたが、それまでの日本の作曲家とのつながり、あるいは断絶についてどのように考えておりますでしょうか。
——これまで「日本」の眼で「日本」を扱ってきた先人たちや、作品に対しては、尊敬の念に堪えません。ぱっと思いつく作品で、特に好きなのは、石井眞木さんの《蛙の声明》です。私がその系譜に連なるかどうかは、あとの時代の人たちが決めることなので、なんとも言えませんが、日本音楽に貢献していきたい想いは強いです。
流行のようなものはあっても、各々の作曲家のスタイルが多様化の一途をたどってきたので、「断絶」についてもお答えするのはむずかしいですが、内なる本性を見極めることより、外への憧れのほうが表面に出ていた時代はあったように思います。いま現在は、インターネットの普及により、また違う状況のような気がします。
私の場合、作曲のパーソナルな部分を見つめると、己れの起源に遡ることが必要不可欠です。そもそも、日本の音に通じる「音像」が、生まれながらに私の内にあったことが、私が「日本」を扱う動機です。(この辺りは、論考をお読みいただけたらと思います。)つまり、「日本」を扱うこと自体が動機ではなく、内からの発露を外に開いていく過程で「日本」を扱うようになったのです。また、私が求めるのは、「西洋音楽の方法で日本を写しとる作曲」ではなく、さまざまな矛盾を抱えつつ追求する「日本という方法による作曲」であることも、あらためて付け加えておきます。
Q. 創作の際、調性は意識されますか?声明など非調性的な音響がメインとなる作品でも、一定の調性感のようなものを感じます。もし意識されているとすれば、調性をどのように自作に取り入れようとしていらっしゃるのか、お尋ねしたいです。
——声明の音楽理論にも調性や調子といったものがあるので、調性感が聴き取れるのは、むしろ当たり前のことかもしれません。私は、声明の作品の際、楽譜に調の指示も書いています。ただし、お坊さま方は相対音感でお唱えされているので、音が完全に決定するわけではありません。
他の作品の場合、調性の設定は編成やコンセプトによりけりですが、調性感は狙っていないことがほとんどです。ただ、ドローン的な保続音の使用や(特に弦楽器の開放弦)、ひとつの音素材を繰り返し、徹底してバリエーションをつくっていくことを好むので、自然と中心音のある音楽になっていて、「調性」として聴き取れるのかもしれません。
Q. 創作行為に関して「女性」であることは関係しますか?それとも無関係でしょうか。
——創作行為においては、「女性」というより、女性であることも含む「私」を意識します。作曲家としての社会的活動においては、「女性」を意識する、というより、意識させられることが、時折あります。
辻田絢菜さんへの質問と回答
Q. 辻田さんの作品はポップカルチャー、サブカルチャーに近い響きを感じます。それは、ともすると「軽い」「浅い」と捉えられてしまうものですが、そうした側面はあえて受け入れるのか、もしくは克服しようとするのか、どのようなスタンスで創作していますか?
——たしかに私も自分の作品に対して、そう思うことはありますね。私自身はサブカルチャーやポップカルチャーのことを軽いとは思っていませんが、わたしの作品には、ともすると「軽い」「浅い」といわれてしまうものがあると。ただ、私は自分の作品が他人にどう捉えられるかをコントロールすることはあんまり考えていないんです。人によって捉え方は様々だと思うので。それは「受け入れている」ということになるんですかね。
それとも関連して、私は自分の作品が西洋音楽の延長線上のいわゆる「現代音楽」に分類されるのが適当かどうかということに対しても思うところはあります。けれども、そうしたことはひとまず取っ払った上で、あくまで私の作品、私の音楽として発表していて、ジャンルに縛られず、色々な周りの情報に囚われすぎずに「自分のやりたいことを大切にする」「自分らしさを見つけていく」ということを目指しています。なので、少なくとも「克服」というのとは違うのかなと思いますね。この問題は、まだ自分のなかでも整理し切れていないというか、「死ぬまでに整理し切れるかな?」と思っている部分です。
Q. 西洋音楽にある程度精通している人だけでなく、いわゆる「一般人」にも聴いてもらいたいと思われていますか?
——私が応用しているアニメーション技法についていえば、あくまで方法なので、そこは別に伝わらなくてもいいかなと思いますね。伝わったら伝わったで、聴き方としては面白いかもしれませんが、そこが一番大事な部分ではないので。私もなにかを聴いてもらって、残ってくれる部分があればいいな、と思っています。西洋音楽に精通している人だけではなく、あらゆる人に向けて書いているので、まずはアニメーション技法のような仕掛けを取っ掛かりにして、「面白く聴いてもらえる」ことを大事にしています。そのうえで、私も作品のなかに色々とこめたものというか、隠している想いのようなものもあるので、そのあたりが伝わるような強い音楽を書きたい。桑原さんもおっしゃるように、そういうものがなにかのかたちで伝わり、他の作品もいろいろと聴いてもらって、理解してもらえるといいなと思います。そして、私は一応「現代音楽」として作品を発表しているわけなんですけど、同じフィールドで活動している方のなかには、音というものの捉え方が全く変わってしまうような作品を発表している方もたくさんいて、私の作品がそういった作品にも手を伸ばすきっかけになればいいなと考えています。
[追記]「西洋音楽に精通している人たち」といっても色んなレイヤーがありますが、「音楽鑑賞に長けている人たち」とした時、この方々は物事を捉えるアンテナが既に鋭いもので、既存の作品によって私が達成したい取り組み(音の捉え方が変わる、といった気づき等)は十分になされてしまっているように思うところがあります。
私にしかできないことというと、積極的にアプローチすべきは普段何気なく音楽を耳にしている層に向けた作品作りで、その中で音の捉え方が変わったり気づきになるような仕掛けを実践していくことかもしれません。そういう意味で、開かれた作品を作り、さまざまな場で発表していくことのチャレンジに興味があります。(2025.6.25、辻田)
Q. 「シナぷしゅ[1]テレビ東京系列の0~2歳児向け番組。辻田氏はシナぷしゅ器楽曲「んぱぱぱ … Continue reading」、子どもと一緒にとても楽しく拝見(拝聴)しています。 さまざまな音色が絵に対応して動き回るのがとても面白いです。 自分は子育てをしていますが、赤ちゃんに接したことがあるからといって、何が赤ちゃんウケの音楽かは全然わかりません。 辻田さんは、このような赤ちゃん向けの音楽を作る時、何を参考にして制作されているんでしょうか?
——赤ちゃん向けということを意識するよりは、分け隔てなく全ての世代に向けて良い作品を…と第一に思いながら作っています。自分の子供時代の記憶を辿ると、身近に聞いていた音楽や価値観に既に左右されてしまっていたなと振り返ることができるので、とりわけ「シナぷしゅ」のような子供向け作品で出来るだけ様々な音楽に自然に触れて欲しいという願いを込めている所はあります。
Q. どの曲もとてもきれいでかわいいです!ぷち、ぽん、ピューッとどれもパッと消えるような刹那的なイメージの音が多いのですが、一つを持続して変化させるようなイメージを持つことはないのでしょうか?
——刹那的イメージがきっかけのようなものになって、大きな流れを作ることはあります。小さな粘土のお団子をたくさん合体させたら大きな物体が出来た、と言うイメージです。西洋音楽的なモチーフの展開の仕方に無関係ではなさそうです。
「単独パートによる息の長い旋律(線?)」が「一つを持続して変化させるもの」ととらえるならば、そのようなアイデアが登場することは割合としては今の所あまり多くないかもしれません。これからの興味の対象になりそうです。
Q. アニメーションの技法を音楽に置き換えているとおっしゃられていましたが、動きのイメージと音をどのように結びつけているのでしょうか?具体的な音響の選び方など、こだわりはありますか?
——動きのイメージは様々ですが、「何かが飛んできて、何かに当たった時に音が鳴る」というよく身の回りに起きる現象をイメージして音をつけるとしたら、で例えます。
「飛ぶ」にしてもいろんな飛び方や速度があるので、その点はリズムやテンポ感に置き換わって結びつけていることが多いかもしれません。また「何かに当たった時に鳴る音」では、当たったものの「質感」のイメージを音響やオーケストレーションで表現しています。このような一連を一つのまとまりとして「音のオブジェ」という風に捉えることが多いです。
Q. 本日紹介された最初の曲の題名に魔法少女とあったり、妖精などのワードもしきりにおっしゃっていましたが、逆に悪魔的なものをイメージすることもあるのでしょうか?
——(妖精や魔法少女が「好意的な存在」というイメージに対して、逆の存在としての「悪魔」という意味で回答しました!)魔法少女も妖精も悪魔的なものと表裏一体のように感じているので、わたしにとっては魔法少女や妖精は、必ずしも万人に好意的な存在ではなく猟奇的な部分を含んでいます。なのでいつも悪魔的なものもイメージしていることになるかと思います。善意/悪意ということよりも「純粋さ」に興味があります。
Q. 自身のイメージを表現するに際して、演奏者との譜面内外でのコミュニケーションについてどう考えられていますでしょうか?
——少しでもイメージが伝わればという想いから、発想記号的に各セクションのイメージを言葉で譜面に書き表したりすることがあります。また可能な場合は奏者の方に事前にfix前の譜面を見て頂いたり奏法を相談するなどして、fix後にも譜面を変更させて頂くこともあります。
話は逸れますが、コミュニケーションが難しいと感じるのはオーケストラなど大編成の場合です。私の作品は古典作品のようなメロディックな譜面ではない事が多い上に、大勢が揃って初めて完成するサウンドを前提に描くことが多いので、ひとり譜面と向き合って練習して頂く時間を想うとどのように考えれば良いのか、初めてオーケストラを書いた時から常に悩んでいます。またこういう話でコミュニケーションをとろうにもリハーサル時間が少なくそれどころではないことも悩みです。(これは作曲者としては私だけの問題ではないと思いますが。)
Q. 創作行為に関して「女性」であることは関係しますか?それとも無関係でしょうか。
——特に女性であることを強く意識しながら作品作りはしていません。性別や性自認に関係なく同じように創作行為をしていると思います。ただ、このような質問を頂くことによって、改めて考えることには興味があります。
テーマ選びに関しては、所謂従来のジェンダー観の中で育ってきたことは無関係ではないと感じる部分もあります。そしてこのような無意識なバックグラウンドを持って選んだかもしれないテーマを伴った作品が、新旧(と言うと乱暴ですが)様々な価値観を持った鑑賞者にどのように捉えられているか、誤解を生じないか、まだまだ自分の音楽の力が弱いため気がかりな部分も多いです。人の作品を見ていてもこれは感じます。
私は非日常を感じたいことが一つの動機で作品テーマを選んで音楽作りをしているのですが、もしかしたら性別などからも自由になりたい表れなのかもしれません。
