プログラムノート 樋口鉄平

プログラムノート 樋口鉄平

2022年2月28日

樋口 鉄平

◉Magnolia

編成:歌とピアノ

初演:2011年5月17日|Nong Project 2011|韓国芸術総合大学(Korea National University of Arts)KUNA Hall(韓国、ソウル)|Min-Hyuk(歌とピアノ)

 When I was younger, I was absorbed in the picture “Primavera” by Sandro Botticelli. In those days, I always looked at the copy of the painting, and presently I got interested in plants in the picture. Since then, I’ve felt plants to be beautiful, but also morbid. -In this piece, I tried to express this feeling. And the flower of magnolia is like a symbol of this kind of beauty for me.

 私は若い頃、サンドロ・ボッティチェリの『春(プリマヴェーラ)』に夢中になっていた。その頃私はその絵画のコピーをいつも見ており、やがて絵の中の植物に関心を持つようになった。それ以来、植物は美しくもあり、病的でもあると感じている。この楽曲の中で私が試みたのは、この感覚の表現である。そしてマグノリアの花は、私にとってこの種の美の象徴なのだ。

——編集部による和訳

◉PHONEMIC TRIAD

編成:バス・フルート、ヴィオラ、ティンパニ

初演:2015年10月26日|第84回日本音楽コンクール作曲部門本選会|東京オペラシティコンサートホール|板倉康明(指揮)、齋藤光晴(バス・フルート)、和田光世(パーカッション) 、吉田篤(ヴィオラ)

備考:第84回日本音楽コンクール作曲部門第3位

3.11以降、とりわけ福島の原発事故以降、テクノロジーという言葉をより批判的に捉えることのできる地点に私たちは立っている。というのはテクノロジーに言及する際に、Industry (産業)という言葉に言及しない説明はおそらく一つもないからである。近代以降の音楽界が富と権力の世界と無縁であったことは一度もないからこそ、芸術家による批判的な立場も常に模索されてきた。

今回演奏してくださるのは素暗らしい職業演奏家の方々だが、彼らの「声」(メタファーではなく、直接の喋り声、バロ一ルとして)の舞台上での市場価値は、(彼らは職業的声楽家ではないため) 限りなくゼロに近い。演奏家のヴィルトゥォジティーとともにそのような「テクノロジー」を舞台上に混在させることは、作曲行為にとり非常に危険を伴うものであると同時に、エクリチュールの魅力の可能性を探ることでもある。

このように書けばこのように読んでもらえる、といった安定した記号の力学的関係を、彼らのディスクール(言説)によって揺るがすことができるのではないかと考えた。この作品では英語のTriadという語を三和音という意味とともに三人による言説と捉えたが、それは長三和音を異質なものとして響かせる三人の奏者の関係の可能性が、ディスクールの聴覚的読解としての音楽作品の可能性と成り得ると考えたからである。

◉PIANO for 2 Amateurs

編成:ピアノ、パフォーマー

初演:2016年3月18日|SOUNDs GARDEN『ジョン・ケージを解読する』|東京藝術大学第1ホール|樋口鉄平(ピアノ)、青木聡太(パフォーマー)

Player 1

 (あなたと出会うとき、声はあなたの息の中で変容する、何度でも響きを変え、奏者の指がヴィオラに触れるように、あなたは舞台上のもしくはこの世界のどこかの言葉となり、)私を呼吸させる。

 (一人のヴィオラ奏者の発する)一つの音(も、その音が他の奏者や聴き手と関わり合うとき姿を変える、他者の発話が私自身を)変容させる(ように、奏者は舞台上にもしくはこの世界のどこかで楽器と出会う)のであり、(この時奏者の存在は楽器との関わり合いのなかで)何度でも姿を(変え、聴者たちの世界に誕生する。)

 (光が漏れてくる、舞台上にもしくはこの世界のどこかに、あなたの存在よりも大きな影、名声や貨幣におびやかされて、私はあなたと出会わないかもしれない、夜明け前、空港で、一つの音が)あなたの息の中で言葉(に変わる。)

 (姿を変えたあなたが私の語る言葉のなかに生まれたように。)

()=Lip-Synch
_=Read
(accelerando e diminuendo, sempre)

「………………私を呼吸させる。…一つの音…………変容させる……のであり、…何度でも姿を………………あなたの息の中で言葉…………」

◉Unnarrative Narration

編成:二人のパフォーマー

初演:2017年7月12日|細川俊夫招聘教授公開講座作曲特別レッスン|国立音楽大学新1号間128教室|坂本光太、樋口鉄平

①初演時プログラムノート

 4月の初め頃、坂本君と共同で仕事をすることを決めた時には、私の作品が本日演奏されるような形態になるということを全く予想できなかった。作品の構想のための、坂本君との数度にわたる共同作業において、彼が私の考えてもみなかった多くの音楽的思想を持っていることに気が付いたからである。

 彼がもたらしてくれる多くの出来事を前にして、私は、「彼と出会わなかったら絶対に実現できなかったこと」を可能な限り全て受け入れようと考えた。つまり作曲者による、「私」と、世界と、語られることばと、紙と鉛筆、等々によって完結したモノローグを演奏者に押し付けるのではなく、舞台上に提示される作品によって、「他者」としての演者が「私」と全く異なることばを聴き、語り、その存在を生きる世界の可能性を受け入れることを願うようになった。

 こうした中で、19世紀のイギリスの詩人シェリーの作品『ヒバリ((To a Sky-Lark)』の最後の一行を思い出した。105行にわたるこの詩によってシェリーはヒバリの歌を讃え、その悦びの半分でも私に教えられたら、調和的狂気が私の唇から流れ出し、「世界はその時、今私の聴いているように聴くだろう」という一行で結ばれる。

     The world should listen then- as I am listening now.

 私はこのテクストを意味論的に解体することによって、坂本君との共同作業に筋道を立てようと考えた。本日演奏される作品は全5部からなるが、具体的な作曲のプロセスとして第1部のみを詳述しておく。

1. 作品の上演に先立って、二人の演者は、共同してテクストを用意しなければならない。

2. 二人の演者は、話し声の間こえる場所(徹食店、駅の改札、映画館、等)に行き、時問を測定し、聞こえてくることばを時系列順に書き取る。二人はこの作業においてできるだけ近くに位置し、作業の開始と終わりを共有するが、お互いの書き取ったものを見ないようにする。

3. こうして、同じ時間、同じ場所で発話されたことばの二通りの聴き方が得られる。これらを舞台上の楽器(チューバ)の二つのチヤンネルに割り振る。

 こうした二人の共謀によって作り上げられたものが、たとえどんなものであっても、それを舞台の上に受け入れなければならない。同時に、この舞台上に存在する二人は、従来の二重奏の伝統を大きく逸脱することのできる可能性をも孕んでいる。このような共同作業に挑む機会を与えてくれた坂本光太くんに心から感謝したい。

②再演時(2018年3月14日)プログラムノート

 この作品は私の2つの個人的な出会いによって成り立っている。 

 まず、本日演奏してくれるチューバ奏者、坂本光太君と出会わなかったら、この作品は絶対に生み出され得なかった。数ヶ月を費やした制作のための共同作業を通して、私はまず坂本君という存在に、私とは全く異なる音楽を聴こうとする他者として出会った。(私によって)書かれた音の中に(私とは)異なる響きを聴く他者は、「作曲者の意図の忠実な再現者」、という演奏家に対する古典的価値観から逃れられない限り、作品の成立を妨げる排除すべき存在へと変貌してしまう。しかし、そうした価値観は現代の社会で必要とされるべきあり方と言えるだろうか?その一方で、限られた解釈に準拠し生きることを宿命付けられた一個人が、その外側の存在者とどのように出会い、どういった関係を結ぶことができるか、 という問題へと取り組んだ音楽作品の先例へと、私はそれまで十分に出会うことができていなかった。

 私がこの問題意識に関して第一に想起したのは、イギリスの詩人P・B・シェリー(1792-1822)による『ヒバリに(To a Sky-Lark)』という作品であった。

Teach me half the gladness
That thy brain must know,
Such harmonious madness
From my lips would flow
The world should listen then — as I am listening now.

上に引用したのはこの詩の最終スタンザである。二人称親称で呼び゙かけられている存在(ここでは所有のthy)はヒバリであり、強弱の交代による強烈な韻律と、ヒバリの歌への熱烈な賛美によって導かれた最後の一行、すなわち、その歓びの半分でも私に教えられたら、調和的狂気が私の唇から流れ出し、「世界はその時、今私の聴いているように聴くだろうThe world should listen then — as I am listening now」という言葉は、一見独善的なものにも感じられる。 しかし、 注意深い読解によって、「私」 と異なる聴き方のできる他者の存在を、このテクストの中に見出すことができるのではないか?私と坂本君による共同作業は、この問いかけの下に行なったテクスト操作によって、全5部からなるパートを搆成する、という方針を採った。
 2017年7月10日——「共謀罪」法施行の前日の夜、私と坂本君は玉川上水駅のマクドナルドへと行き、それが結果的にこの作品の第1部となった、ある実験を行なった。同じ時問、同じ空間を共有する彼と私はどれほどに異なり、 また共通したことばを聴取し得るのか。このことを確かめるため、2017年7月10日の夜(同じ時間)、マクドナルド゙の向かい合った席に座り(同じ空問)、そこで聴こえてきたことばをストップウォッチと方眼紙を用い、時系列順に書き取っていた。この日はすでに夜遅く、部屋の中の客数も少なかったため、聴こえてくることばは僅かで、私はこれを書き取る二人の試みは、ほとんど同じ結果を生むだろうと予想していた。しかし、二人の方眼紙に密き取られたことばは、時に驚くほど異なっていた。また反対に、意外なところで゙共通していたり、同じことばを聴き取ったには違いないが、結果として書き取られたことばが、彼と私のどちらか、あるいは双方が聴き間違えたために、微妙に異なるものとなっていた部分もあった。
 私はこうして二人(の共謀) によって作り上げられたものが、たとえどんなものであっても、それを作品として受け入れようという心境に至った。作品の第1部では、このようにして二人によって書き取られた時間と空間を共有することばが、舞台上のチューバの2つのチェンネルに割り振られている。同様の心境の下、残りの4部はすぐに構成することができた。この作品は私にとって初めての共同制作作品となった。そして、この作品におけるチューバ゙のプリパレーションのシステム(サカモト・システム)は、坂本君の考案によるものである。
 しかしこの作品の完成の直後、私は以上に説明した構成上のアイディアのほとんど全てが、本コンサートの前半でも取り上げた米田恵子(1912–1992)の影響によるものであることに思い至った。この作品の制作当時、私はすでに幾つかの草稿の発見を通して米田の美学と出会っており、その興奮の消えぬまま、自作品にも米田の芸術思想を無意識に反映させてしまっていた。私は、私たちによる研究発表が、少しでも多くの人が米田の存在を知り、また米田が現在に残した遺産や痕跡について考えを深める一助となれば、と願って止まない。なぜなら米田の美学が、私と同様、戦後の世界を生きる少なからぬ人々に多大な影響を与え続けるであろう、ということは、疑いの余地が無いからである。

◉米田恵子(1912-1992)の作品と生涯について

編成:六人のパフォーマー

初演:2018年3月14日|国立音楽大学大学院博士後期課程研究コンサート|国立音楽大学講堂小ホール|井口みな美、小田翔平、河野聡子、坂本光太、馬場武蔵、樋口鉄平

①初演時のプログラムノート

 戦前に生まれた芸術家、米田恵子(1912–1992)の名と、日本の敗戦を挟んだ激動の時代に彼女の残した、言語(詩)と音楽という異なる芸術分野の領域を超越した特異な作品の存在は、現代までほとんど公に知られていない。 

 米田の作品と生涯について、私たち6人、すなわち樋口鉄平、河野聡子、馬場武蔵、小田翔平、井口みな美、坂本光太は、現在までに解明することのできた研究成果を世に知らしめるベく、今回レクチャー・コンサートを行なうことを決意した。 

 この度研究発表を行なうにあたって、聴衆の皆様には、スマートフォンの電源を切らずにいることをお願いしたい。少しでも世間の米田作品に対する理解を深めてもらうため、動画の撮影、SNS上の拡散、発表内容に関する質問などは随時歓迎する。私たちは、少しでも多くの人々に、米田の存在を知ってもらうことを強く願って止まない。 

 今回発表をするにあたって、有識者から「実在しない虚偽の作曲家に関する発表を直ちに中止するべきである」という抗議を受けた。それでも私たちは、米田の実在を信じて止まない。誰になんと言われようと、私たちの信条はボルヘスの『伝奇集』(1944)とともにある。 

②再演時(2018年12月21-24日)のプラグラムノート

 ​​2017年12月、作曲家の樋口鉄平は、同年10月より自身の個人的嗜好に基づいて行っていたベートーヴェンのピアノ・ソナタ全32曲からの「ドミソ』の長三和音の抽出作業を、ジョン・ケージ(1912–1992)と同じ生没年の「架空」の芸術家が行ったものである、とするブロジェクトの構想を得る。

 2018年1月、新宿のコメダ珈琲でこのプロジェクトの最初のミーティングが行われる。初期メンバーは、井口みな美、河野聡子、坂本光太、灰街令、馬場武蔵、樋口鉄平の計6人。メンバーの一人である馬場武蔵が、コメダで話し合われたケージと同じ生没年の作曲家として、この架空の存在を「こめだけいじ」と名付けることを提案。また、メンパーの一人、河野聡子によって、この芸術家を女性とすることが提案される。この架空の芸術家が今日まで無名のままにとどまっていた、という時代設定を可能とするためにはジェンダーの問題を含み入れた方が説得力がある、という河野の意見に一同が賛同。そしてメンバーの一人、灰街令によっ て、最終的に彼女は「米田恵子」と名付けられる。

 ケージと生没年を同じくする日本の芸術家(1912–1992)が、ベートーヴェンのピアノ・ソナタからドミソの長三和音を抽出する作業に従事したという設定は、米田恵子を職業的音楽家として想定する限りにおいては不可能に思われた。そこで、文字・音楽双方の分野に精通しながら、人知れず創作を行っていた「アマチュア」の芸術家を想定することを、数度のミーティングを経て決定。河野は、米田の「音楽」作品(ベートーヴェンからの長三和音抽出)に対応する「詩」作品として、日本国憲法前文からの子音と母音の抽出による創作を提案する。米田のバイオグフィーの作成は、灰街と樋口の二人によって行われ、河野の監修の下で改善がなされる。

 2018年12月、樋口はベートーヴェンのピアノ・ソナタからのドミソの長三和音の算出の作業を完了する。全32曲中、1154個のドミソを計上。また、米田恵子の自筆とする手書き譜を、ピアノ・ソナタ第10番第2楽章まで作成。灰街は樋口による米田の「自筆譜」を、古い紙の体裁に加工する。 

 2018年2-3月、河野は日本国憲法前文による視覚詩を、米田恵子による作品という想定のもと制作。また、米田が日本国憲法前文から母音と子音を算出するのに用いたタイプライターによる数字表、子音変換についての資料も作成。また、河野の資料に基づき、灰街が匿名のブログ「米田恵子を知る者のために」を作成。灰街は真実性を増すため、ブログ上の書き込みの日付けを2012 年に「書き換え」る。[https://keikoyoneda.hatenablog.com/]

 2018年3月——日本国内で公文書改ざんが話題となっている頃——国立音楽大学大学院博士研究コンサートにおいて、井口みな美、河野聡子、坂本光太、灰街令、馬場武蔵、樋ロ鉄平の初期メンパー計6名によって同プロジェクトが初演される。

 2018年6月、トーキョー アーツアンドスペースのOPEN SITEにおいて本企画が上演されることが決定する。新たなメンバーとして、井上郷子、岡千穂、小野龍一、布施琳太郎の4人が加入。布施琳太郎には、米田恵子の作品にインスパイアされた、という設定での作品の制作を依頼。また、演出を担当した小野龍一は、ジョン・ケージが構想し、ケージの没後に実現されたプロジェクト「ローリーホーリーオーバーサーカス」の参照を提案する。

 2018年7月、樋口はドイツのダル厶シュタット夏季現代音楽演習において、作曲家Michael Maierhofが師を務めるワークショッブ”Discontinuity”に参加し、Kunsthalleにおいて米田恵子プロジェクトを約2週間かけて制作・上演。ドナルド・トランプ以後の世界に生きる人々にとっての「フェイク」の在り方の変化について、多くのディスカッションを重ねる。ここで、レクチャーにおける我有化(appropriation)、剽窃(plagiarism)の技術の使用とその開示よってフェイクの虚偽性を露呈するという構想を得る。米田恵子のテクストとしてジョン・ケージ、エドワード・サイードの文章を、米田の日記帳の背表紙として平塚らいてうの日記を、米田の手書きの文書として源氏物語写本を使用したこのドイツ初演は好評を博す。

 2018年8月、メンバーの一人である岡千穂によって米田恵子の肖像写真が制作される。この 肖像写真は、与謝野晶子、樋口一葉、そして岡自身の顔を合成して制作された。

原案、米田の自筆譜、自筆数字表 樋口鉄平
米田の資格詩、タイプライターによる数字表、子音変換についての資料 河野聡子
米田恵子の命名者、自筆譜加工 灰街令
バイオグラフィー作成 灰街令、樋口鉄平
バイオグラフィー監修 河野聡子
演出 小野龍一
演奏 井上郷子、坂本光太、馬場武蔵
米田恵子の愛用したカセット・プレーヤー 岡千穂
米田恵子の肖像写真 岡千穂
フライヤーデザイン、パネル作成 河野聡子
出品作家 布施琳太郎
音響 岡千穂

◉Rückspiegel: Keiko Yoneda

編成:三人のパフォーマー

初演:2018年7月26日|ダルムシュタット夏季現代音楽講習 “Discontinuity” |Kunsthalle(ダルムシュタット、ドイツ)|Naomi Woo, Rino Murakami, Teppei Higuchi

 I heard about Keiko Yoneda about three months ago by chance. My friend in Tokyo, Rino Murakami, showed me Yoneda’s manuscript and I was quite shocked by her works. I asked Michel to give me an opportunity to present her life and works in this workshop. I decided to name this project Rückspiegel 3.5, since there was Rückspiegel 3 yesterday, which presented Beecroft, and there will be Rückspiegel 4, which will focus on Marbe tomorrow. Moving the focus away from only European or professional composers, we should also focus on non-professional, non-European artists. Yoneda’s life and works are really intriguing and will be, I believe, an interesting addition to the Rückspiegel series.

 米田恵子のことは3ヶ月ほど前に偶然知った。東京に住んでいる友人の村上りのが私に米田の手稿譜を見せてくれたのだが、私はそれにとても強い衝撃を受けた。そこで、マイケルにこのワークショップで米田の人生と作品を紹介させてくれないかと頼んだ。私はこのプロジェクトをRückspiegel 3.5と名づけることにした。というのも、昨日はRückspiegel 3がBeecorfで上演され、明日にはMarbeを取り上げるRückspiegel4が行なわれるからだ。私たちは、ヨーロッパ人やプロ作曲家だけに焦点を当てるのではなく非職業作曲家や非ヨーロッパ人の芸術家にも注目すべきである。米田の人生と作品は実に興味深く、Rückspiegelシリーズに興味深いアクセントを加えると思う。

——編集部による和訳

◉Unnarrative Narration II, III

編成:ピアノ、チューバ/ピアノ

初演:2019年3月14日|国立音楽大学大学院博士後期課程研究コンサート|国立音楽大学講堂小ホール |坂本光太(チューバ)、井上郷子(ピアノ)/井上郷子(ピアノ)

①初演時のプログラムノート

 今回の演奏会では、《Unnarrative Narration》と題したシリーズの第2番と第3番を発表する。このシリーズは、音楽のナラティヴに関する問題意識から開始された。音楽作品は社会・政治性といったコンテクストから独立した「自律的」(autonomous)な音組織から成り、したがって作曲家は作品「外」のコンテクストを捨象し、専ら「音そのもの」の構成に関わるべきである、という「絶対音楽」的な思想の伝統は、現代の音楽界においても根強く残っている。しかしながら、こうした思潮が徐々に変化しつつあることも事実である。急激に変化する国際的社会情勢に対応するように、欧米を中心とする多くの作曲家が、音楽作品における社会政治的問題意識の表明を試み、音楽の語り得る 「意味」の問題が浮上しつつある。しかしながら、ここで 問題となる音楽の意味とは何だろうか。標題音楽のように、構成された音組織に直接的な代理=表象を付与すること、つまり、音楽作品に特定の場面や情景などをテクストによって付与するという伝統に回帰することだろうか。それとも、「音そのもの」のみの構成、という態度自体の虚構性を告発することだろうか。つまり、専ら音組織の構成のみに関わろうとしても、その「自律的」な音の選択自体に社会・政治的な選択が関わり得るということを詳細な分析によって開示することだろうか。 

 《Unnarrative Narration》のシリーズは、「ドミソ」の三和音の持つ内外的文脈性——つまりこの音素材(C,E[s],G)自体の「自律的」構成——すなわち伝統的な意味での「作曲」——から、この音組織を包摂する歴史性、社会性、政治性まで——の検討に向けられている。以下、《Unnarrative Narration》の第2番と第3番を解説する。 

《Unnarrative Narration Ⅱ》

 このチューバとピアノの二重奏は、2018年12月21〜24日にかけて、トーキョーアーツアンドスベースの公募企画OPEN SITEにおいて上演された『米田恵子(1912-1992)の作品と生涯について』の一部である。《Unnarrative Narration Ⅱ》は、ベートーヴェンの全32曲のピアノ・ソナタから抽出した全1154個のドミソの長三和音を弾くピアノと、ケージの晩年のナンバー・ピースの形態を模した同じくドミソのみのドローンを奏でるチューバからなる。したがってこの作品において、音組織は「C,E,G」、すなわちドミソの長三和音のみから成っている。

 昨年末に上演された『米田恵子(1912-1992)の作品と生涯について』においては、この自律的音組織(C,E,G)を包摂する歴史性、社会性、政治性を俎上に載せるため、ジョン・ケージと生没年を同じくする米田恵子(1912-1992)という「架空」の芸術家を想定し、フェイク・ニュースの形態で、レクチャー・パフォーマンスを行なった。すなわち米田恵子を実在の人物とするレクチャーを行い、パフォーマンスの後半でその虚偽性を露呈する、という時間構成を取った。本作品における「ドミソ」の聴取のための「インストラクション」として、以下にこのレクチャーの内容の概要を掲載する。しかしながら、純粋な長三和音として、すなわち「音そのもの」として、ドミソ内のリズムや音程や強度や響き等の関係性としてこの作品を聴取するのか、それとも、このインストラクションによって、ドミソを歴史性、社会性、政治性といった文脈と共に聴取するのかは、全て聴衆の自由な選択に委ねられている。  

 1912年、米田恵子は名古屋の江戸時代から続く裕福な商家に生まれる。米田は音楽の職業的専門教育を受けたことはなかったが、家にピアノが置いてあるという当時の日本においては稀な環境によって、幼少期から「アマチュア」としてベートーヴェンやモーツァルトの音楽に親しんできた。20代の頃、1930年代の東京に出てきた米田は、当時の文化的交流の中で、作曲家の田中周蔵と出会う。日中戦争の開始と同年の1937年、米田は田中と結婚する。1942年、田中はミッドウェー海戦において戦死。1943-45年頃、米田恵子はベートーヴェンの全32曲のピアノ・ソナタからのドミソの長三和音の抽出作業に従事する。——しかしながら、なぜ米田はこのような作業を行なう必要があったのだろうか。——2017年11月、米田恵子の孫の佐藤昭弘が彼の自宅の蔵の中から偶然に発見したこれらの楽譜草稿と共に、米田の遺稿の中には、作曲家山田耕筰が1942年1月に音楽雑誌に発表した「大東亜戰爭と音楽家の覚悟」という次のような文書が紛れ込んでいた。  

今の武器による戰爭が算かしき勝利を以て終へた時、直ちに移る次の活動は文化活動である。即ち筆による戰爭である。凡ゆる藝術はこれに動員されるが、そのうちでも音樂こそは最も有能な武器であるから、我々は今からこれを準備して具へておかねばならない。大東亜戰爭を完遂させるための創作活動は自ら國民音樂建設の一助であり、単なる島國日本の國民音楽でなく、大東亜の讃頌歌であらねばならぬ。その意味で之からは根本に於て壮美的なものを作曲しなければいけない。[...]ベートーヴェンの作品が畏い生命を持ってゐるのは、根本に壮美精神があり、男性的力が作品基調となってゐるからである。 

——米田恵子の作品を、こうしたブロパガンダに対するアンチテーゼとして解釈することは可能だろうか。 米田恵子(1912-1992)のバイオグラフィーの作成は樋口鉄平と灰街令が河野聡子の監修の下で行い、米田の自筆譜は樋口が制作、《Unnarrative Narration Ⅱ》のチューバ・パートの楽譜は坂本光太が作成した。 

《Unnarrative Narration Ⅲ》

 このピアノ独奏作品はドミソの長短三和音のみから成っている。すなわち、「C,Es,E,G」のみによって構成する、という一つの体系による統制が課されている。

 この作品においては、シューベルトの《冬の旅》における冒頭と終曲の短三和音に関する記億から着想を開始した。——つまり《Unnarrative Narration Ⅲ》は、〈1. Gute Nacht〉の開始における短三和音の連打と八分音符のテンポを同じくし、また〈24. Der Leiermann〉と同様に、一つの基調音から決して逸脱しない(つまりここではドミソしか鳴らない)。こうしたこの作品の「規則」はトニック、ドミナント、サブドミナントといった調的音程関係による音楽言語を不可能にするが、こうしてドミソの一つの和音のみを聴取する際にも、作品「外」の聴取の記憶から、ある種のナラティヴを感知し得るのではないか。《冬の旅》もまた、記億をめぐる物語である。忘れえぬ過去を抱えた旅路の中で、雪の堆積した大地の下にかつての春の風景を見る語り手のナラティヴは、とりわけ第二部においては記億の回想を離れ、もはや元の生活に戻ることのない地点へとさまよい歩いて行く。決して語ることのできない何かに対する語り、すなわち“unnarrative”な”narration”によって、《冬の旅》のもう一つの物語を提示すること、それがこの作品の目標でもあった。

②Unnarrative Narration III再演時(2021年2月4日)プログラムノート

 このピアノ独奏作品は、ドミソの長・短三和音(C majorおよびC minor)の4つの構成音——すなわち、C,E flat, E, Gの4音——による4つの小品から成っている。主音を同じくする長・短三和音の4音という限られた音素材の内包するあらゆる関係性を書き尽くすことによって、いかにして物語を語ることができるか、ということが作曲上のテーマであった。
 この作品において、私はシューベルトの《冬の旅》における冒頭と終曲の短三和音に関する記憶から着想を開始した。つまりUnnarrative Narration IIIは、〈1. Gute Nacht〉の開始における短三和音の連打と八分音符のテンポを同じくし(4つの小品のテンポは全て〈1. Gute Nacht〉と同じく”Mäßig”[中くらいの速さで]と指定されている)、またく〈24.Der Leiermann〉と同様に、一つの基調音から決して逸脱しない(つまりここではドミソの長・短三和音しか嗚らない)。こうしたこの作品の「規則」はトニック、ドミナント、サブドミナントといった調的音程関係による音楽言語を不可能にするが、こうしてドミソの一つの和音のみを聴取する際にも——私たらの聴取の記憶から——ある種のナラティヴを感知し得るのではないか。《冬の旅》もまた、記憶をめぐる物語である。忘れえぬ過去を抱えた旅路の中で、雪の堆積した大地の下にかつての初の風景を見る語り手のナラティヴは、とりわけ第二部において記億の回想を離れ、もはや元の生活に戻ることのない地点へとさまよい步いて行く。決して語ることのできない何かに対する語り、すなわち“unnarrative”な“nurraiion”によって、《冬の旅》のもう一つの物語を提示すること、それがこの作品の目標でもあった。
 本作品は、2019年3月14日、国立音楽大学講堂小ホールで行われた博士研究コンサートにおいて、 国立音楽大学教授であり、世界的なピアニストである井上郷子先生によって初演され、アメリカ、力リフォルニア大学のWild Beastにおいて2020年2月26日にJack Dettlingによって再演された。

◉Der Wegweiser: A lecture-performance

編成:講演と弦楽四重奏

初演:2019年6月18日|Conference “Musical Mapping”|Cardiff University(カーディフ大学、ウェールズ)|Naomi Woo, Teppei Higuchi

①初演時のプログラムノート

 This lecture-performance, a collaboration between a composer and a pianist, radically expands current practices of performance interpretation by staging the interpretation of Winterreise as a set of maps rather than a live vocal performance. Taking the idea of ‘hidden artist’ to the extreme, their work examines details in the score, manuscript, and text of Winterreise, and reimagines these as clues in an elaborate treasure hunt. According to these clues, the artists imagine themselves to have uncovered an alternate history of Winterreise, in which a map can be drawn of the winter’s journey itself, new protagonists are revealed, and perhaps even a treasure found at the end. The primary clues are instances in the poem in which an act of writing, drawing, or making of the natural landscape occurs- from the act of writing gute Nacht on the gate (1. Gute Nacht) to writing den Namen meiner Liebsten, und Stund und Tag hinein in the frozen ice (7. Auf dem Flusse). Marking the landscape is a way of both claiming territory and creating a path for others to follow, and the many instances of this found in the text are used as justification for the act of map making. Clues in the text are paired with corresponding marks and notes in Schubert’s score to find further hidden meanings. Notably, the alternate history involves painter Elisabeth von Adlerflycht (1775-1846) known for her cartographic illustration of the Rhein valley – who is ‘revealed’ to have painted the leaves on the window of the Fensterscheiben (11.Frühlingstrraum).The presentation involves a lecture describing the ‘findings”- supported by detailed illustrations and maps created by the authors – and an explanation of the project and its rationale.

 In particular, the project is framed as a feminist and postcolonial reading of Schubert’s work, by incorporating female agents into its origin story, and by using the traditionally colonial act of map-making to uncover a subversive hidden narrative, in performance by two non-white artists. 

 作曲家とピアニストのコラボレーションによるこのレクチャー・パフォーマンスは、《冬の旅》を生の声による演奏ではなく、一連の地図として解釈することで、一般的な演奏解釈実践を根本的に拡張するものである。この作品は、「隠されたアーティスト」というアイデアに極端にまで押し進め、《冬の旅》の楽譜、手稿譜、歌詞の細部を検証し、それらを込み入った宝探しの手がかりとして捉え直すのだ。芸術家たちは、これらの手がかりをもとにして、自分たちがもうひとつの《冬の旅》の物語=歴史を明らかにしているのだと空想する。そこでは地図が冬の旅そのものを描きうるし、新しい主人公たちが判明し、おそらく最後には宝物が見つかるのだ。第一の手がかりは、詩における出来事である。そこでは門に”Gute Nacht”と書く行為(〈1.Gute Nacht〉)から、凍った氷に”den Namen meiner Liebsten, und Stund und Tag hinein”と書く行為(〈7. Auf dem Flusse〉)まで、自然風景を書き、描き、作るという行為が生じている。風景にマーキングをすることは、領土を主張すると同時に、他の人が通る道を作るための手段であり、歌詞に見られる多くの出来事が、ここで地図作成が行なわれていることの根拠になっているのである。歌詞中の手がかりは、シューベルトの楽譜中の対応する記号や音符とペアになっており、さらなる隠れた意味を見出すことができる。特に注目すべきは、このもう一つの物語に、地図を作るような仕方でライン川描いたことで知られる画家エリザベート・フォン・アドラーフリヒト(1775-1846)が関わっていることだ。The Fensterscheiben〈11.Frühlingstrraum〉に出てくる窓に葉を描いたのが彼女であることが[パフォーマーたちによって]「明らかにされる」のである。この上演は、作者による詳細な説明と地図に助けられながら諸々の「発見」を記述する[ための]レクチャーと、プロジェクトとその理論的根拠をめぐる説明からなる。

 具体的に言うならば、このプロジェクトは、二人の非白人芸術家によるパフォーマンスにおいて女性のエージェントをオリジナルの物語に組み込むことによる、そして伝統的な植民地主義的行為である地図作成を反体制的な隠れたナラティヴを明らかにするために用いることによる、シューベルト作品のフェミニスト的かつポストコロニアル的な読解として枠づけられるのだ。

——編集部による和訳

②再演時(2021年2月4日)プログラムノート

 アペルギスの《レシタシオン》に関する博士論文において、私はこの作品の楽譜の書記機能を意図的に混乱させることによる「余刺による不確定性」が見出せる、ということを主張した。こうした記号システムを混乱させる操作は、発話されるべき言語の解体のみならず、時にその読み手としての演奏者が混乱するような記譜——すなわち「楽譜自体」の書記レヴェルにおいても確認できる。 

 こうした「余剰による不確定性」は、その書記機能の限界によって開かれる未知の実践の可能性を読み手に呼び起こすものなのであるが、こうした研究成果を踏まえ、「楽譜」というものの在り方を根本から閒い直すことを目的とした私の作品がDer Wegweiserである。 

 この作品は、カルフォルニア大学への交換留学期問中に制作され、カリフォルニア大学のWild Beastにおいて2020年2月26日に初演された。 

 本演奏は、当作品の日本初演である。

 “Wegweiser”とは日本語で「道標」のことを指す。 

 Kilchin & Dodge (2007)に代表されるように、近年の地図作成学においては、空問を与えられた当然のものとしてみなすのではなく、「なぜ紙の上の点や線が現実上の空問を地図として表象できるのか?」という問いがますます大きくなっている。 

 私は2019年暮れ、ニューヨークに滞在中、こうした空間表象の問題はまさに「楽譜」の問題にも他ならない、ということに気付き、以下のような「フィクション」を構築することにした。(したがって、この話は「実話」ではない。)

  2019年12月31日、ハドソン川沿いを散歩中に、石ころで何かを熱心に地面に書いている浮浪者のような中年男性に出会う。この男性は「弦楽四重奏」を書いていると言い、歌い始める。感銘した私はこの地面にかかれた「楽譜」を写真に撮り、年明けにカリフォルニアに戻った後に、発見者としてこの楽譜を紙の上に転写し、カルフォルニアでの初演を呼びかける……

 したがって、この作品において、私はハドソン川沿いにいる浮浪者と、発見者としての「私」に役割が分割されるわけだが、それに応じてこの作品における「楽譜」の役割も変わることになる。 

◉String Quartet in C Major

編成:弦楽四重奏

初演:2021年2月4日|国立音楽大学大学院後期課程・博士論文等審査終了作品発表会|国立音楽大学講堂小ホール|吉澤萌依子(第一ヴァイオリン)、藤堂茉由(第二ヴァイオリン)、志田萌々花(ヴィオラ)、田中麻衣(チェロ)

 この作品は、アペルギスが影響を受けたとされるフランスでの実験文字のグルーズ「ウリポ」(Oulipo: Ouvroir de liltéralure potentielle)のテクスト操作に触発された作品である。

 ウリポにおける技法の一つに「リポグラム」という、テクストに使われる文字に制約を加える、というものがある。作家ジョルジュ・ペレックは1981年に、このリポグラムの技法を、母音としてAのみを用いるという規則に適用したWHAT A MAN!という作品を発表した。 

 こうした技法を音楽に適用することを目指し、本作品においては作曲上の一つの制約を課した。C, E, G——すなわち、ドミソ以外には用いない、という制約である。この比較的長い作品は、したがってこの三つの音のみによって構成されている。

 私はこの制約の中で、壁のように聳えるドミソ、ドミソによるスケルツォ…….等、思い付く限りの多様な要素を配列しようとした。しかしながら、ここで興味深い疑問が生じた。——この制約の中で「様々」な要素を「雑多」に配列した際に、「不均衡」や「不調和」は生じ得るのだろうか?という問いである。 

 というのも、どんなに不調和な配列であっても、C, E, Gという構成音を長三和音として認識する限りにおいては、「ドミソという規範」の全体性から逃れることは困難である、と言えるからである。つまりはこうした疑問は「不協和なドミソが存在しうるのか」という問いに還元できるのであるが、果たしてドミソの制約を課すことで、こうした認識の転覆は達成し得るのだろうか。

 私がこの作品で達成したかったのは、——数比、倍数列、等の埋論の援用によって裏付けられた、——理想的な協和的「ドミソ」とし ての全体性の観念に侵食することであった。

 こうした音響世界の現象に名前を付けること、そしてその名辞を問い直すことも「楽譜」の役割であり得る。時に実現不可能に思われるアペルギスの《レシタシオン》の記譜が、「現実」としての世界と楽譜の読み手の「想像力」の間に介在して演者を触発するように、「楽譜」は音楽的現実についての再考を促すための、すなわち音楽について考えるための有用な手段になり得るのである。