プログラムノート 清水チャートリー

プログラムノート 清水チャートリー

2024年2月23日

清水チャートリー

サイト・スペシフィック音楽

私は特定の場所の特性を組み込んだ作品を「サイト・スペシフィック音楽」と定義している。「サイト・スペシフィック音楽」は、想定された場所で音楽作品が演奏されることを念頭に作曲されている。また、その場所で演奏と収録を行い、作品の完成形態を、一人称視点で撮影した「ミュージックビデオ」、つまり映像として創作することもある。《ねんねこパンツ》など一部作品は、想定された場所以外で音楽を再演する際、ミュージックビデオと同じ「視点」を観客に提供できるよう、ビデオグラファーによるライブプロジェクションを義務付けている。

《ねんねこパンツ》(2021)

委嘱:阪越由衣
想定場所:ホテル・グラファルガー(ストラスブール)
初演:2021.04.22/ホテル・グラファルガー(ストラスブール)/阪越由衣(Sop. Sax)

プログラムノート
人類は何世紀にもわたって、見た夢の意味について考えてきた。我々は夢の中に入ると、社会の求める「常識」や「良識」という名の束縛から解放され、自分の「ひた隠したい何か」の断片や、自分の奥深くに埋もれている感情や欲望、記憶を目の当たりにすることが出来る。本作品は、私たちが眠っている間に体験する夢の世界を再現し、その中を探索することで、一つの疑問を呈している。夢の中では、ある一定の統御能力を手放す代わりに、 ある種の「解放」が手にされるのではないだろうか?

作品について
2019年末にサクソフォニストの阪越由衣氏から委嘱を受け作曲。当初、ホテル・グラファルガー一棟を貸し切って行われるはずであったストラスブールの現代音楽祭「Musiques Éclatées」での初演を予定していた(観客は好きなタイミングでホテルの部屋に出入りすることが許されており、各部屋では作曲家の作品の演奏が行われているというコンセプトであった)。しかし、初演を予定していた2020年には、パンデミックが世界中を覆い、当然、音楽祭も中止になってしまった。どうにか完成の場を失った作品を形にしようと、阪越氏と話し合いを重ね、Haute école des arts du Rhin(HEAR)の手厚いサポートもいただけることになり、最終的には当初から初演を予定していたホテル・グラファルガーの402号室とそのフロアを貸し切ってミュージックビデオを撮影することとなった。
《ねんねこパンツ》は、私(もしくは視聴者)が「夢の中に入る」瞬間から始まる。夢の中では、数枚のパンツが登場する。これは、我々誰しもが持つ「ひた隠したい何か」のシンボルである。我々は、様々な記憶や感情を意識的に抑制し、人目につかぬよう、心の奥底にそれを押し込み、蓋をしている。しかし、夢の中では、思いもよらぬところから、人には見せられないその「何か」が現れることはないだろうか。そのような体験をする度に、現実の世界と夢の中とでは、我々はどちらがより自由に生きられるのだろうか、と私は考えさせられる。本作品は「サイト・スペシフィック音楽」、すなわち、ホテル・グラファルガーの402号室での演奏を想定して作曲されている。別の場所で再演を行う場合、パフォーマンスノートに記載されたセッティングと、ミュージックビデオと同じ「視点」を観客に提供できるよう、ビデオグラファーのライブプロジェクションが必要となる。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/nennekopantsu

《クレイジー塩梅》(2021)

委嘱:Shogirls
想定場所:BUoY(東京)
初演:2021.08.29/近江楽堂(東京)/田島和枝(笙I)、中村華子(笙II)、三浦礼美(笙III)

プログラムノート
私は「常識」や「前例」などという概念が少し苦手だ。時間の許す限り、一つひとつの事象や物事を手に乗せ、突いたり転がしたり、火で炙ったり水に沈めたり、解体したりくっつけてみたりして、自分の目と耳で、その答えを見つけたい。鳳凰の羽をむしり、その羽を多方面から観察してみることも、時には必要なのかもしれない。

作品について
笙は17本の竹管を椀型の匏の上に円形に配置した日本の伝統楽器である。竹管に開けられた小さな指穴を押さえることで音が出る。雅楽では「合竹」と呼ばれる11の和音を、「手移り」という独自の運指法を用いて途切れることなく奏するのが一般的である。楽器の構造上、重音は比較的簡単に演奏できる一方で、早い単音のパッセージや、音のグリッサンドを行うのは非常に難しい。
《クレイジー塩梅》は、「塩梅」と呼ばれる篳篥のグリッサンドのような奏法を用いている。笙をありのままの形で演奏する場合、やはりこの特殊奏法を毎回成功させることは不可能に近い。しかし、笙を解体し、竹管を一本一本、縦笛のように吹くことによって、それは可能になる。ある「物」が持つ機能性のポテンシャルを最大限まで引き出すためには、その「物」を意図的に解体した上で再構築し、再発見する必要がある。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/crazyembai

《サカナ・サテライト》(2021)

委嘱:カール・マリア・フォン・ウェーバー・ドレスデン音楽大学合唱団
想定場所:ハインツ・シュタイヤー・スタジアムとドレスデン音楽大学(ドレスデン)
初演:2021.07.09/ハインツ・シュタイヤー・スタジアムとドレスデン音楽大学(ドレスデン)/カール・マリア・フォン・ウェーバー・ドレスデン音楽大学合唱団(指揮・オーラフ・カトザー)

プログラムノート
あなたは魚たちの「声」を聞いたことがあるだろうか。聞いたことのある人はそう多くはないはずだ。水は空気より密度が高く、音が水面下で反射するため、陸に住む我々にはなかなか届かない。しかし、意識をほんの少し傾けるだけで、陸に住む我々の耳にも魚たちの途切れ途切れの「囁き」が確実に聴こえるはずである。

作品について
《サカナ・サテライト》は80声の合唱団とマルチメディアのための作品である。ドイツ・ザクセン州の厳しいコロナ規制の中で、「音楽活動を、そして声を出す合唱をどう続けていくべきかを探る」という命題と共に、カール・マリア・フォン・ウェーバー・ドレスデン音楽大学合唱団から委嘱を受け、作曲した。音楽大学と自治体の両方から支援を受け、各リハーサル前の厳格な感染症検査の実施や、ソーシャル・ディスタンスの確保を行いながら、プロジェクトを進めることになった。初演は、スマートフォンを手に持ち、大きな円を形成している合唱団がいるハインツ・シュタイアー・ラグビー競技場と、指揮者と観客のいるドレスデン音楽大学のコンサートホールの二ヶ所を用い、行われた。各声楽家はスマートフォンでZoomを介して、コンサートホールにいる指揮者と接続。Zoomのグループ画面がコンサートホールの壁に投影され、ホール内の聴衆が鑑賞した。当時、私もドイツに住んでいたのだが、周りの少なくない住民の感情が、未知のウイルスに対する恐怖から、東洋人に対する怒りと嫌悪の感情にシフトしていく過程を目の当たりにした。その中で、「水中に隠れる」ように自分達の存在を消し、息を顰め、差別から逃れようとしていた自分を含む人たちが感じていた「息苦しさ」を忘れてはいけないと思ったのと同時に、自分が逆の立場に立たされた時、どうすれば「息を顰める」人たちが安心して「水中」から出てこられるのかを考えさせられた。この作品には、感染症の蔓延に直面していた世界を描く、「歴史画」的な役割を果たして欲しいと願っている。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/sakanasatellite

《麒麟テレフォン》(2024)

想定場所:無礦mineless(新北)
初演:2024.02.05/無礦mineless(新北)/李俐錦(中国笙)、李文皓(パフォーマンス)

プログラムノート
誰もが人生で一度は「自分探しの旅」をしたことがあるのではないだろうか。それは、自宅を離れてよその土地へ行く、文字通りの「旅」かもしれないし、自分の過去と現在地を俯瞰的に見ようとする思考の「旅」かもしれない。本日の「旅」は、スマホの中へ。そこに存在するらしい、「核となる本当の自分」を見つけようと試みる。

作品について
《麒麟テレフォン》は、私が台湾に拠点を移してから初めて創作した「サイト・スペシフィック音楽」である。新北市にある旧鉱山施設遺跡の“無礦mineless”での演奏を想定して作曲、2024年2月にミュージックビデオを収録した。
本作品は、視点の主が、鉄の扉の向こうにある部屋に入るところから始まる。これは、「スマホのロック画面を解除する」行為のメタファーである。この「旅」の途中、「核となる本当の自分」を見つけることは叶わず、複数の「自分たち」に出会うことになる。
我々がいつも手にしているスマホほど、自分の持つ多種多様な「人格」(ペルソナ)を一箇所に集め、可視化できる「空間」はない。ロック画面を解除すれば、SNSの本垢、裏垢、鍵垢と、いくつもの「人格」が、それぞれに与えられた務めをせっせと果たしている。
人は誰しもが幾つもの「人格」を持っており、他者との交わりにおいて求められる人格を、意識的もしくは無意識的に深い場所から引っ張り出している。要するに、(それぞれ程度の差はあるが)人は皆、ある意味において「多重人格」なのだ。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/kirintelephone

キネティック音楽

楽器もしくは演奏者の機能の「エンハンスメント」(強化)を目的とし、機械的オブジェなどを組み込んだ作品を、私は「キネティック音楽」と分類している。《変態ビートル》では甲虫の脚部機構を、《海老レボリューション》ではモーター仕掛けの海老の被り物を楽器や奏者に取り付け演奏する。再演の際にはオブジェが必要となるが、2024年現在、《海老レボリューション》の場合、欧州と北米の主要都市への郵送手段(有料)が用意されている他、両作品ともオブジェの製作方法を楽譜上に公開しているため、演奏家が一から製作することも可能である。

《変態ビートル》(2022)

委嘱:近藤聖也
初演:2022.12.09/東京オペラシティ(東京)/近藤聖也(Cb.)、會田瑞樹(Perc.)

プログラムノート
数年前のある朝、突然ベッドから起き上がることが出来なくなった。思えば、複数のプロジェクトを同時に引き受けていたところに、異国の地での引っ越しやビザの更新が重なって時間と労力を奪われ、少し疲れていたのかもしれない。その後、永遠に感じられるような2週間弱の間は、食事もろくに喉を通らず、ほとんどの時間、天井を見ていたのを覚えている。フランツ・カフカの『変身』に登場する事象は、案外身近に起こり得ることなのだと認識させられる出来事であった。

作品について
《変態ビートル》は、コントラバスを甲虫に見立て、6本の独立した動きが可能な甲虫の脚部機構を楽器に設置している。ステージの床に寝転んだ奏者の上に、6本の脚部機構が縫い込まれた布団を敷き、その上にコントラバスの裏板と脚の位置が一致するよう楽器を寝かせる。6本の脚は差金で6足の黒いスリッパと繋がっており、それらは同じくステージの床で寝そべっている、設定上黒子の打楽器奏者の左右両側に設置されている。黒子の打楽器奏者が記譜通り、モゾモゾと手足でスリッパを動かすことにより、甲虫の脚が連動して動く設計である。本作品は、奏者と楽器の機能を人工物で強化した「キネティック音楽」である。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/hentaibeetle

《海老レボリューション》(2022)

委嘱:CROSSROADS Contemporary Music Festival
初演:2022.11.26/ザルツブルク・モーツァルテウム大学/ソフィア・ゴイディンガー=コッホ(Vn.)、バーバラ・リッカボーナ(Vc.)

プログラムノート
人間は、どれだけ自由に思考を躍らせることができたとしても、所詮、自分の頭の中に閉じ込められている。自分の頭の中に来客を招き入れることはできるが、「私」が自分の頭の外に出て自立することは不可能だ。このままでは「私」にとって存在していると確信出来るのは「私」だけである。「私」はその事実に対し吐き気がし、稀に自分の頭から離れたくてたまらなくなり、「私」が膨張してもうちょっとで自分の頭から分離出来そうになるが、ギリギリのところでやっぱり離れられなくて、ただただ不恰好な姿で自分の頭から隆起した「私」が手足をバタバタさせることしか出来ない。頑張りすぎて、「私」が茹で上がってしまいそうだ。

作品について
《海老レボリューション》は、楽器もしくは奏者の機能の「エンハンスメント」を目的とし、機械的オブジェを組み込んだ「キネティック音楽」として作曲した。本作品の場合、立体的な海老のついた被り物と、肺力ホースポンプの二つを使用している。被り物の海老の手足にはアメリカのサウンド・アーティストであるキャメロン・フレイザーがデザインしたモーターが付けられており、奏者は曲の指定の位置でペダルを使い、海老の手足の動きをトリガーする。また、肺力ホースポンプは、ホースの先端部分を、床に設置してある水溜に差し込み、もう片方の先端部分を奏者が自身の首に巻きつけ、曲の指定の場所でそのホースの先端を口に含み息を吹き込むことにより、水溜から空気の泡がブクブクと音を立てる仕組みになっている。現在、被り物は澳ウィーンと米ロサンゼルスに保管されており、再演の際にはどちらかの場所から奏者に被り物を郵送することとなっている。また、パフォーマンスノートに海老の被り物の作り方を公開しているので、郵送が不可能な場合は奏者が自分達で被り物を製作することも可能である。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/ebirevolution

コンサート音楽

私は、クラシック音楽とその流れを汲んだ音楽の作曲家が作曲する音楽、すなわち、コンサートホールなどで演奏されることを想定して作曲されている音楽を「コンサート音楽」と呼んでいる。英語では、現代音楽を「Concert Music」と分類することもある。一般的には演奏会場で演奏される器楽作品を指すのかもしれないが、私はここにエレクトロニクスやマルチメディアを用いた音楽作品、また、《セルフ・ポートレイト》など、従来の楽器編成に収まらないであろう作品も含んでいる。

《金魚オブセッション》(2017)

委嘱:Soundstreams
初演:2017.05.26/トロント王立音楽院(トロント)/サラ・シャバス(Sop.)、シャウナ・ヤーネル(M-Sop.)、ショーン・クラーク(Ten.)、デイビッド・ロス(Bar.)

プログラムノート
私は大きな池の底に、仰向けに寝転び、水面を見ている。すると突然、「ぽちゃん」とくぐもった音をたてて一匹のふくよかだけど小さな金魚が水中に落ちてきて、スイスイと水の中を泳いで私の視界から消えていく。少しの間を置いてから、また一匹、金魚が水中に落ちてくる。その後、もう少し間を短くしてまた金魚が落ちてくる。次第にその頻度が高まり、あれよあれよという間に雨のように金魚が降ってくる。気付けば大きな池の中は、ヌルヌルと光る金魚でいっぱいになり、私はたまらず声を上げて飛び起きる。そこに金魚はいない。「夢か」とホッと一息ついて、私はまた大きな池の底から水面を眺める。しばらくすると、「ぽちゃん」というくぐもった音がした。

作品について
《金魚オブセッション》は「声のない声楽曲」として宣伝しているが、実際には悲鳴のような声が一箇所登場する(大きな池の中が金魚でいっぱいになり、苦しくて声を上げる瞬間である)。それ以外の箇所は、上下の唇を閉じ、力強く空気を前に弾き出す破裂音(英:plosive consonants)を使用している。当初は4声(SATB)のために作曲した本作品だが、2018年には30人のコーラス編成を、そして2023年には6声(SMzCtTBarB)編成のバージョンを製作。これまでに4声のオリジナルバージョンが一番多く再演されているが、本作品の作曲家として、声の人数に関しては特に強いこだわりはない。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/kingyoobsession

《big mosquito》(2017)

初演:2017.07.15/Espace Jean Grinda(サン=マルタン=ヴェジュビー)/アラン・ビラード(B. Cl.)、ニコラス・クロッセ(Cb.)

プログラムノート
アメリカのある芸術村に滞在していたある夜、その日の作曲を終えて、部屋の電気を消してベッドに入ってしばらくすると、これまでに聞いたことのないような低い周波数の、機械音のような羽音が聞こえてきた。何だろうと電気をつけると、部屋の壁に、子猫ほどの大きさをした怪獣のようなものの影が映し出された。驚いて顔を上げると、今まで見たことのないような大きな蚊が飛んでいた。
深い森の中に位置する場所とはいえ、窓はしっかり閉じていたし、部屋に出入りする瞬間以外、扉はしっかりと閉めていた。自分の掌ほどある蚊が入ってくる隙間などないはずである。私はもともと、虫を殺すことが出来ないので、しばらくの間、蚊を部屋の外に出そうと悪戦苦闘していたが、数時間経っても埒が明かないので諦めて寝ることにした。しかし、電気を消すとまたあの不快で不気味な羽音が耳元に近寄ったり離れたりを繰り返し、朝まで軽い悪夢にうなされ、質の良い睡眠を取ることが出来なかった。朝起きると、蚊は姿を消しており、私の(毛布から唯一出ていたのであろう)右耳に大きな赤い腫れが出来ていた。

作品について
《big mosquito》は、アップステート・ニューヨークのサラトガ・スプリングスにある芸術村のヤドーに滞在していた時、今まで見たことのない大きさの蚊に襲われた一夜の体験を基に作曲した。その忘れられない恐怖の一夜の後、ヤドーには2週間ほど滞在し、その間に本作品の終止線を引いた。ちょうどその頃、既に参加することが決まっていた作曲講習会に出品する曲の締め切りに追われており、このような形で着想を得ることができたのは、不幸中の幸いだったのかもしれない。一つの作品を完成させるのに数ヶ月かかるのが普通な私にとって、自分でも驚くべき速さである。余談だが、芸術村を離れ、次の目的地に向かう長距離列車に乗った時もまだ蚊に刺された痕は赤く腫れ、痒かったのを覚えている。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/bigmosquito

《和牛ピッグス》(2019)

初演:2019.06.30/The Etchings Festival(オヴィラール)/Ensemble Linea

プログラムノート
どこかにある和牛牧場で、数匹の豚が飼育されていた。豚たちは、肉になった後も高値が付き、「芸術品」に例えられる和牛たちを崇拝しており、自分たちもそのようになりたいと強く願っていた。豚たちは、和牛たちに倣って毎日50キロ近い草を食べ、様々な牛の言葉を使いこなし、見た目もなるべく和牛になり切ることに尽力した。ある日、豚たちはトラックに乗せられてどこかへ連れて行かれ、屠殺され、ベーコンにされた。結局、豚で生まれた以上、自分たちはどう頑張っても、死んでも豚なのだとベーコンになった彼らは思い知らされるのであった。

作品について
私は日本で生まれた後、すぐにタイに引っ越し(これはほぼ記憶がない)、シンガポールで幼少期から中学卒業までを過ごすことになった。その後も国内外で何度も引っ越しを繰り返してきたからだろうか、好むと好まざるとに関わらず、自分は常にある意味で「マイノリティ」であり、どこかに「完全に」所属できたという体験がない。無論、「マジョリティ」や「マイノリティ」などという言葉は、キュッと頭を捻るとすぐに立場を入れ替えることが出来るので、その言葉に固執するつもりはないし、「マジョリティ」と呼ばれている人たちの全員が多数派に属する「幸せ」を噛み締めることが出来ているとも到底思えない。しかし、(少なくとも2019年時点での私は)心のどこかで、どこかに所属することを求めてしまっているのだろうか。だから《和牛ピッグス》のような作品が生み出されてしまったのかもしれない。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/wagyupigs

《しかく》(2013)

初演:2013.01.24/国立音楽大学(東京)/国立音楽大学・東邦音楽大学学生有志

プログラムノート
毎晩同じ夢を見ていた。暗闇の中、手探りで「何か」に会いに行く。なぜ会いに行くのかは分からないが、とにかく途轍もない必要性を感じ、会いに行く。その「何か」は暗闇の中にいるため、手で触れることしか出来ない。毎晩、その「何か」の大きさや形、手触りが違う。でもそれは同じ「何か」であることは間違いない。その「何か」と触れ合うと、夢の中の自分が安心するのか、スッと心地良い目覚めに繋がる。

作品について
国立音楽大学卒業作品として作曲した《しかく》は、「四角」と「死角」の概念に基づき、物理空間的な常識を一新することを試みた作品である。中央にプリペアド・ピアノが設置され、それを囲むように、打楽器2名、管楽器3名、そして弦楽器1名からなる四つの楽器群が四角い演奏台上に配置されている。各楽器群は向いている方向がバラバラなので、楽器群ごとに設けられたアナログディスプレイに映し出される指揮者のリアルタイム映像に合わせて演奏する。鑑賞者は、四つの楽器群を囲む形で設置された客席から音楽を観ることが想定されている。鑑賞者が座る場所によって、当然ながら音の「死角」が生まれることになるが、その「死角」のある各面がそれぞれ音楽作品《しかく》として成立している。要するに、空間のどこで体験するかによって聴こえる音が違う作品である。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/shikaku

《セルフ・ポートレイト》(2022)

委嘱:音と言葉の間
初演:2022.6.26/MUSICASA(東京)/新野見卓也(Pf.)、小杉卓(Calligraphy)

プログラムノート
私は、度々山から降りてきて我々の生活を荒らす「猿」という幻の生き物に興味を持ち、いつの間にか、「猿」の情報を集めることに没頭していた。ある時、私が学んだ「猿」の特徴をそっくりそのまま持つ者が現れた。「そいつは猿だ!」と咄嗟に思い、周りにも協力してもらい、捕獲に成功した。しかし、そいつは猿ではなく「熊」だということが後々判明した。数年後、体毛の濃い私は見知らぬ誰かに「猿」だと決めつけられ、捕獲されてしまった。

作品について

作品について
題名の通り、《セルフ・ポートレイト》は私自身の自画像である。書家には「猿」という字を私のフォルムに似せ、ひょろりと細長く、右上の「𠮷(つちよし)」から書いてもらっている。ちなみに「𠮷」には「道徳的に優れている」という意味が含まれる。
人はみな、自分は他者より道徳的に優れていると思っている節がある。ネットを見れば、「正義」を振り翳して対象者にマウントを取り、自分のエゴに食事を与えるように、対象者を非難する罵詈雑言が並ぶ。現実世界でも人は派閥を作り、大局的には無益な対立を繰り返している。先に断っておくが、私は対立を恐れている訳でも、必要に応じて対象を批判することに嫌悪感を感じている訳でもない。しかし、相手の立場を慮る想像力のない、独りよがりの(もしくは集団的な)「正義」を振り翳す人たちを見る度に、私は暗く悲観的な気持ちになり、その人たちを軽蔑の目で見ていたように思う。しかし、ある時、私自身もまた、「独りよがりの正義を振り翳してマウントを取る者たち」を心の中でひっそりと侮蔑し、無意識に自分を道徳的に優位な立場に置いていたことに気が付いた。

詳細:https://www.chatorishimizu.com/self-portrait