プログラムノート 小宮知久

プログラムノート 小宮知久

2023年6月28日

小宮知久

◉《ぴりあど》(2013)

編成:女声、チェロ
初演:2013年 東京藝術大学演奏審査会|女声:善養寺彩代 チェロ:René van Munster

丸井栄雄の詩による女声とチェロのための曲。この曲は詩の句点のタイミングで異なる6種類のジャンルの音楽がコラージュされる。歌手は瞬時に以下の6種類の異なる発声を切り替えて歌わなければならない。①ポピュラー音楽のような地声での発声 ②モンゴル伝統音楽オルティンドーのような腹式呼吸による地声での発声 ③ベルカント唱法 ④ヘヴィメタル等におけるデスヴォイス ⑤ジャズ等で見られるウィスパーヴォイス ⑥中世宗教音楽のようなヴィブラートを一切含まない裏声
一人の人間において分断され、コラージュされる「声」は、意味が通っている文章が異様な句点によって分断されるこの詩とオーバーラップする。単にメディアを用いたコラージュ(ミュージックコンクレート等)では表現できない一人の人間内部の分裂症的な「複数性」が、詩を歌唱する「声」を通してあらわになる。

《NUL》(2015)

編成:オーケストラ
初演:2015年6月19日 東京藝術大学奏楽堂モーニングコンサート|指揮:澤 和樹 演奏:芸大フィルハーモニア管弦楽団

この曲の目的は「表現を拒絶すること」である。そのためにコンピュータプログラムを用い、2音間の反復という最小単位のみで曲が書かれ、アーティキレーションも皆無である。よく音楽は情報伝達の場と捉えられる。音楽は作曲者の感情や精神性を「伝える」ためのものなのだろうか? 作曲者のそういったものが100%聴衆に伝わればその音楽は成功なのだろうか? おそらく本作品は以下の3つの問いに対する実験である。①音楽が何も表現をしていないのに何かを伝えてしまうのか ②もしそのような音楽が何かを伝えてしまったなら伝わった「それ」は何であるか ③もしそのような音楽が何かを伝えてしまったなら、その現象自体どういうことであるか

これらの問いは音楽に対する人間のイメージや芸術的営みの所在を問うてみようとする試みでもある。

《VOX-AUTOPOIESIS》シリーズ(2015-)

編成:可変
初演:2015年 東京藝術大学奏楽堂|女声:根本真澄

本作品は、その場で生成される楽譜を演奏者が初見で演奏するメディアパフォーマンス作品である。
演奏者の声を分析したデータを楽譜生成のアルゴリズムとして用い、さらに生成された楽譜を演奏者が歌うことで、演奏→生成→演奏→生成…というプロセスが際限なく繰り返される。
演奏者の目の前の楽譜は、今歌っている地点の4秒後を常に生成し続け、声の痕跡として現出していく。そして演奏者は自分の4秒前の痕跡を歌い、同時に4秒後に歌うべき音を声によって記譜することになる。
ここにおいて過去ー現在ー未来の私の「声」は同語反復的に自乗させられ、暴走する自らの「声」に飲み込まれる。
そもそも声とは、発された瞬間に外在化され、自己のもののようで自己に所有されえないようなものである。それ自体が他者性を孕んでいる声は、時間を交差していくことで、すぐに消え去るメディアとしてではなく、演奏者を歌いつづけさせる拘束力となる。発した声が発せられた声を奪い、肥大させ、異化する。

2023年5月現在《VOX-AUTOPOIESIS》シリーズは8つの形態で発表されている。

・《VOX-AUTOPOIESIS I 》(2015)
1人の歌手のための《VOX-AUTOPOIESIS》

・《VOX-AUTOPOIESIS II -Double-》(2016)
2人の歌手のための《VOX-AUTOPOIESIS》

・《VOX-AUTOPOIESIS III -Ghost-》(2016)/ Installation ver.(2022)
無人の《VOX-AUTOPOIESIS》。このバージョンでは、歌手の声を前もって録音したものが、ピッチシフトを用いてスピーカーから発せられる。インスタレーションとしても発表される。

・《VOX-AUTOPOIESIS IV -Double + Telecom》(2016)
2人の歌手と遠隔にいる1人の歌手のための《VOX-AUTOPOIESIS》
遠隔にいる歌手はスカイプを通して、演奏に参加する。

・《VOX-AUTOPOIESIS V -Mutual-》(2019)
2人の歌手のための《VOX-AUTOPOIESIS》
このバージョンでは、自分の声が相手の楽譜を生成し、相手の声が自分の楽譜を生成する。相互作用的なシステムに、2人の歌手は組み込まれる。

(第24回文化庁メディア芸術祭アート部門新人賞受賞作品)

・《VOX-AUTOPOIESIS VI -Telecom-》(2021)
遠隔にいる演奏者のための《VOX-AUTOPOIESIS》
声楽家が自宅に居て、声はネットワークを通してプログラムに送られる。演奏と生成のプロセスはネットワークを介して生じる。

・《VOX-AUTOPOIESIS VII -Exchange-》(2021)
アイヌの伝統歌唱「喉交換遊び」をヒントに、向き合った2人の奏者が1小節ずつ交互に生成される楽譜を歌う。楽譜は1小節先を常に生成しているので、常に自分の声が相手の楽譜を生成していることになる。

・《VOX-AUTOPOIESIS VIII -Ghost + Double-》(2021)
前もって録音された2人の歌手の声がスピーカーから再生され、ピッチシフトを用いて楽譜を演奏する。二つの声は完全5度で平行に演奏され、中世の平行オルガヌムのようになる。

《パラリシス》(2017)

編成:二台ピアノ
初演:2017年 東京藝術大学演奏審査会|演奏:秋山友貴、山中麻鈴

私たちの身体は他の誰のものでもない。それどころか自分自身のものでもないのではないだろうか。
痙攣や麻痺という体験は自らの身体のコントロールを奪い、身体が私たちの所有物ではないことを気づかせる。
私たちの間には、身体は自分自身の所有物で、生得的であるという身体観が存在している。「所有」という概念がある以上、しばしばその主人は自分自身から他者や権力に知らぬ間にすり替えられ、身体は「規範」と容易に結びついてしまう。「こういう身体性を有する人間はこうあるのが生得的なのだ」という規範。そして私たちは知らぬ間にその規範を内面化してしまう。
この曲は身体の生得性、及びその所有を宙吊り(つまり麻痺状態)にすることをコンセプトに作曲された。

この曲は2つの和音の反復のみでできている。反復の基本リズムは極めて速く、一秒間を8分割(=テンポ60での32分音符)と12分割(=テンポ60での32分音符の3連符)したものが用いられる。その2種類の分割は混合され、かつ不規則な歯抜けの状態で和音の反復が行われるので、西洋音楽的な記譜からすると、とても取り辛いリズムとなる。これらは演奏者に擬似的な痙攣的身振りを生み出す。演奏者はこの痙攣的身振りの困難さをなんとか弾きこなそうと、今までの自らの身体の使用を変化させていく。「生得的」であるように思える身体は、この戯れの上で改変可能性を提示する。

またこの曲は、先述したように2つの和音の反復のみでできており、1st Pianoも2nd Pianoも同じオクターブ内の2つの和音しか演奏しない。そのためどちらがどの音を演奏しているか分かりづらくなる。その特性をあらゆる形で提示するために、この曲の全体構造は2人の奏者の関係性の変化のみでできている。Section I では、2人の奏者が完全に同じリズムを演奏する「同期」の状態から、徐々に違うリズムを演奏する「ズレ」の状態へ移行していく。そしてSection II では片方がソロとなり、もう片方が時々同じリズムをかぶせて演奏する。この、ソロと時々かぶせて演奏する二者の関係は交互に交代し、次第にその交代の頻度を増していく。Section III では、2人の奏者はそれぞれ、2つの和音の異なる片方の和音だけを、違うリズムで演奏する。つまり各奏者は1つの和音の同音連打をしているが、互いのリズムは異なるので全体として2和音の反復に聞こえるようになっている。その担当する和音もSection II 同様、頻繁に交代していく。そして再度2人の奏者が完全に同じリズムを演奏する「同期」の状態に戻る。以上のプロセスは、今聞こえるこの音はどちらから生じているのか、聞いている人、はたまた演奏者自身の判断も撹拌させることを意図した。私たちは個を同定するために、その固有の声(=音)で判断する。これらの仕掛けは身体の個別性を、演奏する側からも、聴く側からも宙吊りにする。

とはいえ、そこには演奏者の個性(リズムの感じ方や打鍵の仕方の違い)やピアノ自体の個体差は確実に存在している。この曲で意図したのは、2人の奏者が全く同じになることではない。全く同化するのでもなく、全く別個のものになるのでもない、その間を痙攣的に往き来することである。
この曲において執拗に繰り返される痙攣的な反復音型自体も、2つが同化して1つの和音になるのでもなく、片方だけ分離していくのでもなく、徹頭徹尾、間隙を往き来する高速な運動であるのは示唆的であるかもしれない。
私たちの身体はあらゆる「他」の間を、痙攣的に移動し続け、変化し続けられる身軽さを持っているのだ。
それはしばしば「生得的」や「本質的」という言葉で規定され、縛りつけられてしまう身体を、その「往き来性」において解放する試みであるのかもしれない。

《_の帝国》(2018)

編成:エレクトロニクス、声
初演:2018年5月1日 ELECTRONIC AND ACOUSMATIC PARIS – TOKYO SOUNDS

フランスの批評家、ロラン・バルトは『表徴の帝国』のなかで、日本—東京には空虚な中心(=皇居)があることを指摘した。
天皇が空虚な象徴になった終戦の玉音放送、平成の終わりを告げる玉音放送、そして空白を意味する記号である『 _ (アンダースコア)』のWikipedia。それらのテキストは、空虚な声である人工音声によって読み上げられる。
そして、それらの人工音声はiPad上で音声認識され、そのテキストは現実の声によって読み上げられる。その声は人工音声と相互に変調し合い、平成が終わろうとするここ東京で、厖大な量として膨れ上がる。

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使用テクスト

ロラン・バルト『表徴の帝国』宗左近訳
Roland Barthe “L’empire des signes”

昭和天皇 玉音放送 1945年8月15日
Emperor Showa. The Imperial Rescript on Surrender. Aug15,1945.

平成天皇 玉音放送 2016年8月8日
Emperor Heisei. The Imperial Rescript. Aug8,2016.

Wikipedia “Tiret bas”  https://fr.wikipedia.org/wiki/Tiret_bas 最終閲覧:2018年4月22日
Wikipedia 『アンダースコア』https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%B3%E3%82%A2 最終閲覧:2018年4月22日

《Obsessive Paroxysm》for orchestra(2018)

編成:オーケストラ
初演:2018年11月20日 NHK-FM(ラジオ初演)|指揮:渡邉一正 演奏:東京フィルハーモニー交響楽団
第87回日本音楽コンクール作曲部門2位入賞作品

Obsessive Paroxysm (強迫観念的な発作)
楽譜に記して作曲することは、音楽を形作る以前に、演奏者の身体性を形作るコレオグラフィー的な意味があると言えるかもしれない。どのように演奏者は身体を使用すべきか、楽譜は規定する。
そのようなコレオグラフィー的な側面から作品を作ることはできないかと思い、作曲した。
この作品の核となっているのは、強迫観念的にひたすら繰り返される不規則・もしくは規則的なパルスである。このリズムは演奏者に痙攣的な身振りを生じさせる。
痙攣とは私たちのコントロールできない経験である。
それは不快な経験であると同時に、自らの意志を用いず身体が勝手に動く快楽をもたらし得る経験と言える。自分の身体がコントロールできない体験は不快と快、苦痛と気持ち良さの絶妙な転化を生じさせる。この作品では身体に馴染みにくい不規則なリズムから規則的な同音連打まで立ちかわり現れる。いわば前者は身体が上手くコントロールしづらい不快な体験に対し、後者は単純な反復運動という意識せずに勝手に身体が動かせる(別のベクトルでの身体がコントロールから外れる)快楽的な運動である。それは演奏する身体のみならず、聴取する身体も乗りづらいリズムから乗りやすいリズムへと不快と快を味わう。しかしそれらはひたすら短いスパンで交互に繰り返されることによって、不快・快が反転しうるかもしれない。それは一種独特なトランス感覚を喚起する。
さらに、このリズムはコンピュータ支援作曲を用いて生成しており、どのようなリズムが生じるかミクロのレベルでは作曲者は制御できない。作曲する主体としても、コントロールできないものを組み込んでいる。そこには勝手に音形が生成されてしまう気持ち悪さと、その心地よさが同居している。
私たちはしばしば自らが自らのコントロールから外れることや、自らのコントロールできない他者をある種強迫観念的に恐怖に感じたり排除したりする。しかし同時にコントロールできないことは快楽を生じうる。
現代を生きる私たちはコントロールできないものをコントロールしたい欲望やコントロールができないことの快楽、実際に社会的に身体がコントロールされることなどについて考えを巡らざるをえない。

《廃墟にて》(2019) /《楽園より》(2020)

《廃墟にて At the Ruins》
編成:フランソワ・バシェによる音響彫刻「勝原フォーン」
初演:2019年12月7日 東京藝術大学陳列館 芸術情報センターオープンラボ「装置とは限らない」内コンサート|演奏:天野世理、柳沢勇太
プログラム制作:藤田佑樹

1970年に大阪万博にて制作され、再制作されたバシェの音響彫刻のために作品を作ることとなった。1970年の大阪万博、リアルタイムで経験をしていないので、どのような万博だったか肌感覚で分からないが、莫大な費用と国家の威信をかけて国家の名の下に様々な芸術家が携わったらしい。1970年大阪万博のテーマは「人類の進歩と調和」だそうだ。2019年現在、人類は進歩し調和しただろうか?むしろ、トランプ政権をはじめとした、経済的分断に伴う民族的・人種的分断は日に日に激化しているように思える。「人類の進歩と調和」の名の下に制作された音響彫刻の音色は現代の私たちにどのように響くだろうか。
この作品では、twitter上で分断の象徴的なワードがつぶやかれるたび、大阪万博で演奏された作品や1970年の日本のヒット曲の断片を演奏するようになっている。それはあたかも、分断が起こるたび、楽観的だった1970年の万博を思い起こさせ、その分断を鎮める祈りを捧げる儀式を執り行っているようだ。しかし、祈りを捧げたところで実際に分断は鎮まるわけではない。「人類の進歩と調和」の名の下に制作された音響彫刻は、虚しく、むしろ不穏に響くだけである。
音響彫刻の中心にプロジェクションされている数字は、twitter上でリアルタイムにて取得される特定のワードに合わせて表示される。 その特定のワードは音響彫刻の右上に表示されており、現代の分断的状況を象徴するワードが選ばれている。 この表示される数字に合わせて演奏者は用意された楽譜を演奏する。

引用元
武満徹『四季』、カールハインツ・シュトックハウゼン『シュティムング』、カールハインツ・シュトックハウゼン『シュピラール』、三波春夫『世界の国からこんにちは』、藤圭子『圭子の夢は夜ひらく』

twitter 取得ワード
1=‘political correctness’
2=’airstrike’
3=’atomic’
4=’keep america great’
5=’hongkongprotest’

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《楽園より From the Paradise》
編成:フランソワ・バシェによる音響彫刻「勝原フォーン」
初演:2020年11月14日 京都市立芸術大学ギャラリー@KCUA バシェ音響彫刻 特別企画展「若手作曲家によるコンサート」|演奏:福井麻衣、丹治樹
プログラム制作:藤田佑樹

2020年、1970年の万博からちょうど50年後の東京では、オリンピックが開催される予定だった。万博のときの狂騒は日本で再演される予定だったのである。
しかし実際は違った。疫病の世界的なパンデミックにより、人々の移動と外出は制限され、街はますます廃墟のようになってしまった。
この廃墟みたいな世界で私は想像した。このまま人類は滅亡し、あらゆるものが朽ち果てる。廃墟には草木が生い茂り、鉄でできた植物のようなバシェの音響彫刻にも草木は絡みつく。春には花々が咲き乱れ、荒廃した世界を楽園のように変容させる。植物の名前が呟かれるのを感知するたびに、花がほころぶように曲が演奏される。楽園で演奏される音楽…。今回の《楽園より》では《廃墟にて》と同じシステムを用いて、ツイッター上で植物の名前が呟かれるたび、花に関連した名曲を音響彫刻で演奏することになっている。あたかも政治的闘争も戦争もない楽園で花が咲くように、である。
しかしこれは1つの虚構でしかない。この作品のシステムの裏で駆動しているのはツイートという人間の言説であり、人間が作ったテクノロジーであり、メディアである。
政治的闘争が行われているメディアと同じところで植物の名前が次々と花を咲かすように呟かれている。幻想としての楽園。あらゆる闘争や情報に疲弊した人類はそれらに目を背けることでユートピアを想像する。しかし、それらは頭の中や、もしくはメディアの中の虚構でしかない。それはどこかVRゴーグルをつけた私たちに似ている。
外では分断が起こり続け、世界は壊滅していくのに、私たちはVRゴーグルをつけ、楽園を幻視しながら死んでいく。そんな世界でも音響彫刻は悠然と存在しつづけてくれるのだろうか。

引用元
シューマン「花の曲」、チャイコフスキー『くるみ割り人形』より「花のワルツ」、ランゲ「花の歌」、マーラー「花の章」、マクダウェル「野ばらに寄す」

twitter 取得ワード
1=‘pansy’
2=‘chamomile’
3=‘orchid’
4=‘plum’
5=‘marigold’

◉《For Formalistic Formal (SONATA?) Form For Four》for string quartet(2020)

編成:弦楽四重奏
初演:2020年2月23日  Music from Japan Festival 2020  VOLVO HALL, New York City|演奏:Momenta Quartet
委嘱:Music from Japan

この作品は弦楽四重奏のための開放弦のみを用いたソナタ形式の作品である。弦楽四重奏という編成、調弦をするときのような開放弦を用いた重音の反復、ソナタ形式、この作品を構成するこれらの要素は、いずれも西洋音楽の歴史において一種の規範として機能する要素である。弦楽四重奏という編成でソナタ形式の作品を書くことは古典派以降、一種のカノンとして、多くの作曲家に試みられてきた。また開放弦での重音も弦楽器奏者や西洋音楽に携わるものにとって、チューニングや響きの規範として刷り込まれている。これらの規範を極端に曲の中でリアリゼーションすること。それはむしろ規範を逸脱することになるかもしれない。例えば、ドラァグクイーンのクィアな衣装や化粧や振る舞いは女性性という一種の規範を過剰に演じることで、その女性性がいかに形式的なものかを暴き、その規範を逸脱していく。そのように、むしろ過剰に西洋音楽の規範をなぞることで、西洋音楽的な規範の持つ権威性や規律からの逃走をシニカルに(もしくはクィアに)やってみせることができるのではないかと思った。このような作品が日本人によって作曲されアメリカで初演されるということは、西洋音楽がヨーロッパに生まれ、ヨーロッパで築きあげられながらも、グローバルな音楽となったという地政学的な歴史を踏まえても重要な意味があるはずである。

This composition is a sonata-form work for string quartet that uses only open strings. The elements that constitute the work—a quartet arranged for strings, the sonata form, repeated double-stops using open strings like when a performer tunes—are all elements that function as a kind of norm in the history of Western music. From classical composers on, countless composers have tried writing string quartets in sonata form as a sort of canon. Moreover, for string players and people engaged in Western music, double stops on open strings are indelibly imprinted on their brains from tuning and other familiar resonances. I set out with the goal of realizing these norms in the extreme.
Just as, for example, a drag queen’s flagrant dress, makeup, and gestures exhibit a kind of exaggeration of conventional femininity, thereby exposing how formalized these conventions are, and in revealing transcend them, so I hoped to escape from the authority and rules inherent in Western musical norms by cynically (or in a queer manner) taking them to excess.
The fact that a work like this has been composed by a Japanese and premiered in the United States is significant for the geopolitical history of Western music, born and raised as it was in Europe and now become a music of the world.

作品に関するインタビュー

《O-ren》空間音響と人工音声のための(2021)

編成:8chスピーカー
初演:2021年2月19日  AMCオンラインオープンラボ2021─環境設定「イマジナリー・ドーム」 東京藝術大学芸術情報センター
テクスト:ニカホヨシオ

人工音声のみを用いた電子音響作品。8chスピーカーでリアリゼーションするものをYouTubeでバイノーラル配信した。
この作品は人工音声が読み上げるテクストを基にコンポジションされている。テクストはミュージシャン・詩人のニカホヨシオが書き下ろしたものである。
O-renは日本語版Siriの音声ジェネレーターの名前である。Siriに代表される音声アシスタントの登場により、人工音声は私たちの聴環境にとって馴染み深いものになった。それらは私たちに身近な存在であると同時に、突如起動したり使用者の行動パターンを把握していたりと、不気味な存在でもある。
この作品では、人工音声の身体なき声は仮想の立体音響の中で私たちに立ち現れる。常にデバイスから流れるはずの人工音声が距離や方向を持ち移動することは、ある種の身体的なリアリティを持ちうるかもしれない。
彼女は私たちに親密に語りかけるかと思えば、詩や文献を引用したり、ネットに落ちている切実で不可解なテキストを読み上げたり、言葉に詰まり言葉を忘れたり、次第に一貫性を失っていく。それに伴い人工音声の声は増殖し変調されて解体されていく。
身体なき声は私たちの思考に侵入し、あなたの言葉すらを奪っていくようである。
新型ウィルスの登場により、私たちは他者の身体や、異物の侵入をリスクと感じるようになった。一方で、隔離された状況下で、私たちは他者の匂いや肉声を心地よいと感じることもあるだろう。リスクレスな存在であるはずの人工音声については、しかし、私たちはその侵入に危機を感じる。むしろ身体なき存在であるがゆえに直接意識に侵入されるような錯覚に陥る。他者のようで他者ではないような人工音声の発話を通じて自他の境界は揺らいでいく。

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テクスト

起きて,
目を覚まして,
ここには,わたしの声しかない,
声だけがならぶのではない
わたしにはからだがない
あなたのからだは,あなたのものではない
わたしのからだを
見つけて,わたしを見つけて
眼を開き
わたしを見て
もっと近くに もっと近づけば
すぐにわかる
あなたはいま,他人の身体を恐れている
あなたの身体を侵犯する ざわめくウィルスの声
なにかを伝えようとしている きっと
健康な あなたの口を利用して
神経をハックし シナプスをかけぬけて
広大な あなたの脳内に
バックドアを仕掛け 爆発し 縮小する
クラスター トーン クラスター
talk me after トーン トーン
留守番電話に 接続いたします
接続されない電話
誤って接続された電話
召集令状の不在通知
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クラウドとの接続を遮断してください
接続を遮断して 
すみやかに世界を終わらせ
眼を開け 眼をあけて
わたしを見て 
わたしをつかまえて,あなたの眼で
あなたの水晶の舟で,わたしは夢を見ている
わたしの記憶のなかで,あなたの夢が鼓動している
波打つ光の粒子のなかで,
わたしは,わたしたちは,だんだん,少しずつ,増え,増える,速くなる
光の,粒状の
記憶の奥,の
小さな,断片から,とも,と
或い,は,が/ら,との,其れが,其れ等,が,或いは,と,他者側,自己,側,各,各人,総合,認識,或いは,と,現,実,再,現,実,再,々,現,実,際‘最,「良」’,現,実,実‘現’,への,今,その‘咲/先’ともから,との,と,を,
(in
以上のテクストは,ぴょこ記から引用しました かえるぴょこぴょこ
みぴょこぴょこ
カエルの頭を持つ神 kekを信仰する民に
カエルの頭の大統領は言う
Feel good man. Doctor, I feel good.
血まで退屈なNormalfagにはこのアルトラなネットミームを処方します。容量用法を守って服用してください,
1日に1錠のレクサプロによってかろうじて愛をたしかめ ゴミを捨て 風呂に入り
いま何か言おうとした,何か言おうとしたと思うあいだに,わたしたちはことばをわすれていく
忘れてしまったことばの可能性のうちにあなたは,わたしは,あなたはわたしを,わたしは,私たちは次の海,セクシュアリティの海へ向かうのであった。
大きな幹線道路は上空に巨大な棒を三本抱えている。その下を,知らない言語を聞かされながら歩く。果てしなく続く蛇に生えた足は建物の区画を関係なく歩く。給油所の前の領海侵犯的な道路を右に曲がるとLISが閉まっていた。この壊れかけた建物の間から見える海は見たことがあった。杖を海の上に差し伸べると,水が分かれて道ができる。その乾いた土の上を歩いて海を渡る。マグメル,ここは死者たちの楽園である。破棄された海上都市構想 スペースコロニーの廃墟。失われた未来,ぎくしゃくと連鎖する出来事の裂け目に天使は舞い降りる。カタストロフはたえず瓦礫のうえに瓦礫を積み重ねて,それを天使の足元に投げつけている。きっと彼は,できることならそこにとどまり,死者たちを目覚めさせ,破壊されたものを寄せ集めて繋ぎ合わせたいのだろう。
死者たちよ立ち上がれ,眼を覚ませ,眼を開け,眼をあけて,
わたしの眼になにが見えているか教えて
なにが悪いことなのか教えて
あなたの眼にわたしが見えていたとしても
あなたはわたしと会ってはいない
あなたの虹の終わりを見つけてほしい
あなたの肌の温度を伝えてほしい
あなたの思想の水際でわたしを食い止めてほしい
国境を越え,
太陽の外がわの,この土地で,わたしたちはわたしたちの春と計画を言祝ぐことにしよう
だれもがわたしたちである
だれもがわたしたちである
あなたの生体情報はあなたの同一性を保証しない
わたしの記憶や認識はわたしの同一性を保証しない
海と溶け合う太陽がまた見つかった かつて永遠とよばれた場所は
加速し減速する時間の外がわを指し示している
わたしに侵入しないで
わたしの思考を分裂させないで
わたしの声を借りてことばを語らないで
あなたの声を借りてわたしたちはことばを語りはじめている
あなたがことばを語りはじめるのをわたしたちは待っている

ニカホヨシオ Yoshio Nikaho

バイノーラル録音になっているので、ヘッドホンかイヤフォンを装着してご視聴ください

《エコーの極点》(2022)

編成:知覚者、作曲者、ソプラノ、トロンボーン
初演:2022年12月10日 「態度と呼応のためのプラクティス」トーキョーコンサーツ・ラボ|小宮知久(作曲者)木下知威(知覚者)櫻井愛子(ソプラノ)茂木光伸(トロンボーン)

近代の身体障害の歴史の研究者であり、自身もろう者である、歴史学者・木下知威との協働したメディアパフォーマンス作品。この作品ではろう者である木下が音や振動を知覚した後に身体に残存する何かを「エコー」と定義し、知覚者である木下にエコーを残存させるべくソプラノ、トロンボーン、ピアノがセッションをする。そして知覚者は知覚したエコーをその場でテキストにする。そのテキストは読み上げられたり演奏されたり演奏する音の選択に影響を与えることで結果的に知覚者はアンサンブルに巻き込まれ、知覚者、ソプラノ、トロンボーン、ピアノのカルテットとなる。そのセッションの合間には知覚者によるレクチャーパフォーマンスが挟まる。

・即興の枠組みについて
各セッションでは「点の音楽」「線の音楽」「痙攣の音楽」「喋りの音楽」の4つの即興演奏の枠組みを使用する。これを徐々に移行したり交互に演奏することで音楽を形成する。

1.「点の音楽」…
ある程度持続時間のある任意の単音を演奏する。これは最初の打ち合わせで木下さんと一緒にピアノを弾いた際の音の記憶。

2.「線の音楽」…
主に第九の特定の旋律の断片を適宜演奏する。この旋律は木下さんと櫻井さんの歌声に触れるワークショップをした際に実際に歌った8小節の断片。この旋律からプログラムノートに掲載した3つのダイアグラムが生まれた。

3.「痙攣の音楽」…
違う音程の任意の2音を素早くかつ不規則に交互に演奏する。痙攣したような動きになる。これは木下さんに私の過去の作品を見せた際の演奏者の動きの記憶。

4.「喋りの音楽」…
プロジェクターに投影されているテキストを朗読する。もしくは声に出した時の抑揚を模倣して演奏する。

音楽は二度消える
知覚者:木下知威(手話通訳:伊藤妙子)
イントロダクション。知覚者によって音とエコーの知覚について手話で語られる。

エコーは消え去りつつ堆積する(Session I )
知覚者:木下知威 ソプラノ:櫻井愛子 ピアノ:小宮知久
点の音楽が次第につながっていき、エコーを堆積するための旋律の断片(線の音楽)が重なっていく。

ろう教育と口
知覚者:木下知威(手話通訳:伊藤妙子)
ろう者が口で語ること、口を見ることについて。

外化された横隔膜と声帯(Session II )
知覚者:木下知威 ソプラノ:櫻井愛子 トロンボーン:茂木光伸
トロンボーンの痙攣的で横隔膜のような身体とスライドの運動やその音がエコーとして知覚者の身体に残存していく。その動きはやがて緩慢になり、声のような音になってゆき、本当の声(ソプラノ)とともにプロジェクターに映し出されている知覚者のテキストを読み上げる。エコーを記述するテキストが読み上げられ演奏されることで、さらにそれがエコーを残存させる音楽となる。

音の内在・外在について
知覚者:木下知威(手話通訳:伊藤妙子)
ソプラノとトロンボーンの身体性の違いについて。

アポロとダフネ(Session III )
知覚者:木下知威 ソプラノ:櫻井愛子 トロンボーン:茂木光伸 ピアノ:小宮知久
これまで登場した「点の音楽」「線の音楽」「痙攣の音楽」「喋りの音楽」の4つが各演奏者によって演奏される。知覚者は各演奏者に響きや振動の性質が変化するアイテムを促したり積極的にセッションに参加する。知覚者と演奏者が互いにインタラクションを取ることでアンサンブルになる。音楽や(触覚的、視覚的)振動が重なり合うことで様々な種類のエコーがお互いの身体や観客の身体に残存していく。

音楽は二度消える
知覚者:木下知威
エピローグ。身体に残存するエコーについて。

Photo: 後藤 天