晴れ時々甲虫(カブトムシ) 清水チャートリー

晴れ時々甲虫(カブトムシ) 清水チャートリー

2024年2月3日

晴れ時々甲虫(カブトムシ) 

清水チャートリー

現実を生きる清水チャートリー:「旅」と創作活動

「現実を生きる清水チャートリー」である私は毎日、あらゆることに五感を集中し、それを楽しんでいる。食事の際は味覚芽に意識を傾け、料理に何の素材が入っているのか、どのような出汁や調味料が使われているのかを想像する。移動をしている時は、移りゆく景色を目で見て、匂いを嗅ぎ、空気を肌で感じ取る。中でも私が最も重要視していることは、身を置いている表現環境を定期的に変えることで、建設的な批判やクリエイティブな刺激を浴びる機会を絶やさないことである。

作曲家を志したのは高校生の頃であった。しかし、当時は形式主義的な芸術として「型」に落とし込む必要性のあるクラシック音楽とそこから直接派生する音楽様式には少なからずつまらなさを感じており、さらに作曲科で作曲を学ぶというのはあまりにも慣習的に思えたため、一種の賭けではあったが、国立音楽大学でコンピュータ音楽を専攻することにした。大学では今井慎太郎氏のもとでライブエレクトロニクスや音響生成などを学ぶ傍ら、器楽作曲も諦めたくなかったため、川島素晴氏に頼み込んで作曲のレッスンも受けさせてもらっていた。その頃作曲した作品には《しかく》(2013)や《fiddle》(2014)がある。

大学を卒業後、ただただ広い世界を見てみたいという熱苦しい冒険心から、奨学金を得られたニューヨークのコロンビア大学の修士課程でサウンドアーツを学んだ。しかし渡米後1ヶ月も経たないうちに足を骨折してしまう。奨学金をアメリカのぼったくりのような医療費に費やす羽目になり、そのせいでアパートの家賃が払えなくなってしまったため、大学院の施設であるコンピュータ・ミュージック・センターに寝袋を持ち込んで住み込み始めた(ルール的にはNGなのだが、時効ということで)。建物は24時間アクセス可能であり、視覚芸術を学ぶ大学院生たちが各自スタジオを構え、休みなく創作に励んでいた(というか彼らも住み着いていた)。建物の屋上(6階)から中庭にテレビのブラウン管を投げ捨てる即興行為の芸術や、土を食べるパフォーマンスなど、「常識」という名のシートベルトが存在しない作品を間近で見て、形式主義的な芸術とは真逆と言っても良いであろう手法や発想法に触れることが出来た。

コロンビア大学修了後、アメリカの幾つものアーティスト・レジデンシーを渡り歩いたり、三菱財団のフェローとしてピッツバーグ大学で研究活動をしながら、声のない声楽曲《金魚オブセッション》(2017)など、ストーリー性の強い作品を創っていた。しかし、何をやっても「受け入れられてしまう」、建設的な批判を受ける機会の少ない環境に若干の不安を抱いてしまったのだろうか。20代のうちに伝統や理論をより重視し、現代音楽の本場と称されることの多いヨーロッパを体験してみたい欲望が強くなり、27歳の時にドイツのドレスデン音楽大学の修士課程に入学、マーク・アンドレとシュテファン・プリンスの両氏のもとで作曲を学ぶことになった。

ドイツでは作曲の過程からロゴスが重視されており、常に作品の説明を求められた。どちらかというと感覚的に音楽を創り、そこから滲み出てきた個性からその意味を読み取ることの多かった私にとっては新鮮で有難い体験であった。修了後もドイツに留まり、《ねんねこパンツ》(2021)や《海老レボリューション》(2022)など、コレオグラフィーや視覚的要素が不可欠な音楽作品を多数発表した。

A group of people playing instruments

Description automatically generated
《海老レボリューション》(2022):ソフィア・ゴイディンガー=コッホ(Vn.)とバーバラ・リッカボーナ(Vc.)

2023年10月にはアジアン・カルチュラル・カウンシルのグランティとして台湾の台北に拠点を移し、主に自由即興をしている音楽家たちや舞踏家たちと関わらせてもらっている。真っ裸で1時間半、休みなくくるくると回り続ける中年男性の舞踏家とのコラボレーションや、中国笙(シェン)をパンフルートのように吹く即興演奏会をはじめ、ドイツで足を深く踏み入れていたロゴスの表現環境とは趣の異なる、感覚的な表現領域に身を置いていると実感している。台湾で出会った表現者たちは、アカデミアで「芸術音楽」を体系的に学んだことのない人たちも多く、本当にズドーンと心に響く音楽を吐き出している。台湾の仲間たちと感覚的に音楽を創っているこの状況は、これまでで一番気安くて楽しく、アメリカでの体験とはまた違った意味で「シートベルトを外した」創作が出来ている様に感じている。

こうして振り返ると私は振り子のように、数年ごとに「現実を生きる清水チャートリー」を正反対の表現環境に送り出していることに気付く。以下の図は、拠点を置かせてもらった国で私がどっぷり浸かっていた表現環境を表している。無論、ドイツの音楽界の全てで理論的な説明を求められ、台湾の音楽界の全てが感性に基づいた創作をしていると言っている訳では断じてない。あくまでもそれぞれの国で、私に大きな影響を与えてくれたコミュニティの指向性を単純化し、主観的に表したものだとご理解いただきたい。

表現環境の変化(2010-2024)

現代音楽は紛れもなくヨーロッパ起源の音楽の流れを汲んだ表現である。私も西洋芸術音楽を学び、その創作手法に依存し、確実にその恩恵を受けながら活動を続けている訳だが、世界を見渡せば、西洋芸術音楽的手法だけが現代音楽における「正解」でないことが分かる。今後も、「西洋」に拘ることなく、多種多様な音楽文化に染まり流され、聴覚芸術や視覚芸術などの分類の垣根を超え、自分に深く関わる音楽作品を生み出し続けたい。

作曲家としての清水チャートリー(1):「時間」の解放

ここまで、「現実を生きる清水チャートリー」がどこでどのような影響を受けて作曲をしてきたかを、強いて言えば自分ごととしてではなく、半ば客観的に論じてきたが、ここからは「作曲家としての清水チャートリー」である私が意識的によく用いる手法について言及したい。その一つが、音楽の「流れ」を解放することである。

音楽は時間芸術である。クラシック音楽には基本的に拍子記号とテンポ指定があり、それらの情報を基にメトロノミカルな時間性を刻む。一方、雅楽など、拍の伸縮率が奏者に委ねられている時間性を持つ音楽も存在する。このような曖昧な拍の間隔は、西洋五線譜に記譜するのがほぼ不可能だ。私は国立音楽大学在籍時にデンマークからの留学生から強く勧められて笙を習い始めたのだが、雅楽の誇る時間性に触れることができたことは、今でも大きな財産になっている。

メトロノミカルな時間性は作曲家に都合が良い。ごく細かなリズム情報を記譜して奏者に伝達することも可能だし、オーケストラなどの大きな編成で演奏される音楽では、全員が同じように拍を数えるのは合理的だ。しかし全ての音楽に理性に基づく拍節を応用しても良いのだろうか。音楽の自由な呼吸を止め、窒息させてしまうことにならないだろうか。また、これは私のピアノと笙の演奏体験からくるものだが、実際の演奏は作曲家が頭の中で想定するものとはまるで違う。音の残響時間一つを取っても、空間の広さや形状、観客の数や服装などでまるで違ってくる。作曲家の自作自演でない限り、楽譜に書かれた音楽を奏でて観客に届けるのは演奏家であり、その空間の特質を感じ取り、演奏に反映させることができるのも演奏家である。その演奏家が記譜されたメトロノミカルな時間性にがんじがらめにされている状況を、私は見るに堪えないと感じる。このような理由から、私はなるべく奏者には柔軟な時間性の中で演奏してもらえるよう心がけている。

音楽と書のパフォーマンス集団「音と言葉の間」より作品委嘱をいただき作曲した《セルフ・ポートレイト》(2022)は、上記の手法が分かりやすく見える作品だ。ピアノと書のための本作品では、拍子記号は使わず、ピアノのペダリングにも柔軟性を持たせた記譜法を使用することで、ピアニストと書家の判断でホールに最適な時間の流れを作り上げている。ピアノの音の動きはほぼ装飾音に近い「呼びかけ」と、その完結を示す「応答」で構成されており、ピアニストはその完結音である親音符または和音の残響の長さを、その日のその空間に合ったものに作り上げることができる。ピアノ譜に記譜された休符、もしくは音符の長さの中に付けられたフェルマータは、リズムの単位としてではなく、ピアノの音の減衰する残響、筆から落ちる墨の音、筆が和紙を擦る音など、作品の様々な音が絡み合う時間の渦を生み出す機能を目的として使用している。そして公演の際、音と時間の渦の最適な混合を創り出すのが、ステージ上で演奏を任されている演奏家たちなのだ。

《セルフ・ポートレイト》(2022):新野見卓也(Pf.)と小杉卓(Calligraphy)

題名の通り、《セルフ・ポートレイト》は私自身の自画像である。書家には「猿」という字を私のフォルムに似せ、ひょろりと細長く、右上の「𠮷(つちよし)」から書いてもらっている。ちなみに「𠮷」には「道徳的に優れている」という意味が含まれる。人はみな、自分は他者より道徳的に優れていると思っている節がある。ネットを見れば、「正義」を振り翳して他者を非難する罵詈雑言が並び、現実世界でも人は派閥を作り、大局的には無益な対立を繰り返している。先に断っておくが、私は対立を恐れている訳でも、必要に応じて対象を批判することに嫌悪感を感じている訳でもない。しかし、相手の立場を慮る想像力のない、独りよがりの「正義」を振りかざす人たちを見る度に、私は暗く悲観的な気持ちになり、その人たちを軽蔑の目で見ていたように思う。

しかし、ある時、何かのきっかけで、私自身もまた、無意識に自分を道徳的に優位な立場に置き、自分と他者を選分け、「独りよがりの正義を振りかざす他者」を侮蔑していたことに気が付いた。そしてここでまた新たなループが生み出されてしまう。その気付きから見えた情景が「見えている」自分を、「見えていない」人たちから選分け、自分の中でまた新たな「嫌悪」が芽生える。主に西洋では古くから哲学を用いて、人間と動物を隔てる違いが論じられてきたが、人にあって動物にないと思われるものの一つが「想像力のある道徳性」であろう。そして人は、「想像力のある道徳性」の所持を盲信している猿なのだろう。それでは猿に失礼か。

作曲家としての清水チャートリー(2):「空間」の解放

私が音楽作品で用いている肝要な手法の二つ目は、鑑賞者の「体験環境」を白紙の状態からデザインすることである。クラシック音楽や現代音楽が上演される一般的な演奏会は、シューボックス型やヴィンヤード型のホールで行われ、ステージ上の演奏者と客席に座る観客の大多数が向かい合って座ることが多い。この前提を意識的または無意識的に踏まえることは創作にとってかなりの制約であり、自由な発想の妨げになる。

国立音楽大学卒業作品として作曲した《しかく》は、「四角」と「死角」の概念に基づき、物理空間的な常識を一新することを試みた作品である。中央にプリペアド・ピアノが設置され、それを囲むように、打楽器2名、管楽器3名、そして弦楽器1名からなる四つの楽器群が四角い演奏台上に配置されている。各楽器群は向いている方向がバラバラなので、楽器群ごとに設けられたアナログディスプレイに映し出される指揮者のリアルタイム映像に合わせて演奏する。鑑賞者は、四つの楽器群を囲む形で設置された客席から音楽を観ることが想定されている。鑑賞者が座る場所によって、当然ながら音の「死角」が生まれることになるが、その「死角」のある各面がそれぞれ音楽作品《しかく》として成立している。要するに、空間のどこで体験するかによって聴こえる音が違う作品なのだ。

A diagram of a factory

Description automatically generated
《しかく》(2013)ステージ図

本作品の作曲を始める少し前、毎晩同じ夢を見ていた。暗闇の中、手探りで「何か」に会いに行く。なぜ会いに行くのかは分からないが、とにかく途轍もない必要性を感じ、会いに行く。その「何か」は暗闇の中にいるため、手で触れることしかできない。毎晩、その「何か」の大きさや形、手触りが違う。でもそれは同じ「何か」であることは間違いない。その「何か」と触れ合うと、夢の中の自分が安心するのか、スッと心地良い目覚めに繋がる。おそらく、インド発祥の寓話である「群盲象を評す」をどこかで読んだ記憶が回り回って、夢になって出てきたのだろう。《しかく》はその不思議な体験を基に作曲した作品である。

別の例として、光るソプラノサクソフォンとインスタレーションのための《ねんねこパンツ》を紹介したい。この作品はフランス在住のサクソフォニスト・阪越由衣氏の委嘱作品であり、2021年春に、フランス東部ストラスブールにあるホテル・グラファルガーの402号室を貸し切って、ミュージックビデオを撮影した。本作品はミュージックビデオ、すなわち映像として完結していた。作曲後、観客の前で上演する必要があるという既成概念から脱し、ユーチューブを通じて、現代音楽としてはそれほど普及していない「体験環境」で音楽作品を鑑賞者に提供することを試みた(演奏の記録映像の配信は既に普及しているが、それはあくまでも生演奏という「体験環境」が先にあるのであって、ユーチューブ動画を「体験環境」と見立てて作曲された作品は、私は片手で数えられる程しか知らない)。

ミュージックビデオは一人称視点で撮られており、視点の主の乗るエレベーターが地下4階に到着し、ドアが開くところから始まる。視点の主は、エレベーターを降り、ホテルの短い廊下を渡って402号室まで歩き、扉のリーダー端末にカードキーをかざして鍵を開け、中へ入る。部屋の中では不思議な女性が光るサクソフォンを吹いており、曲の進行と共に何枚ものパンツが思わぬ所から登場する。光るサクソフォンを吹く女性は、時には意図や対象が不明確な言動を繰り返し、また時には鮮明で顕著なメッセージを視点の主に向けて発する。過去の一瞬一瞬を無作為に繋ぎ合わせたかのような、無秩序な展開に耐え難い圧迫を感じ始めた視点の主は、402号室を飛び出してエレベーターのカゴの中に駆け込み、ドアが閉じるところで作品は終わる。

《ねんねこパンツ》(2021):阪越由衣(Sop. Sax)

音楽作品の完成形態を映像として創作することにはいくつもの利点がある。まずは鑑賞者の「視点を固定できる」ことだ。本作品はサクソフォンの演奏だけでなく、コレオグラフィーや様々な演出が楽譜に記譜されている。カメラをパンニングしながら、画面に映っていない場所で次の演出を準備することも可能だ。また、映像としての音楽作品を、ユーチューブを始めとする動画配信サービスにアップロードすることで、鑑賞者は特定の時間と場所に縛られずに作品を体験できる。物理的空間での上演を最終目的としない創作は、自分にとって、今まで無意識に囚われていた音楽作品の作曲という行為の「あるべき形」という既成概念からの解放を意味する。

しかしこの後、予想外の展開となり、さらに新しい手法へと繋がることになる。2021年夏にサクソフォニストのセラフィマ・ヴェルコラト氏から、本作品をロシアのサンクト・ペテルブルグ現代音楽祭にて、コンサートというコンテクストで上演できないかと問い合わせをいただいたため、熟慮の末、作品のコンセプトの濃度を薄めずに生演奏に対応することになった。余談だが、これはロシアのウクライナへの軍事侵攻が始まる約半年前である。地政学に通じていないだけかもしれないが、まさか半年後に戦争が始まってしまうとは想像もしていなかった。

コンサートというコンテクストでの初演、そして再演が可能なよう、まずは全てを再現可能にするためのマニュアル作りに取り掛かった。結果、パフォーマンスノートの長さが当初の約5倍の量になった。奏者の衣装、演出に必要なベッドやライトの指定と設置方法、また、エレクトロニクスのトリガーとなるペダルの配線方法などを記述。また、サクソフォン奏者のコレオグラフィーや、鑑賞者の「視点」が本作品の重要なポイントとなっており、それらの点を除外すると《ねんねこパンツ》が《ねんねこパンツ》でなくなってしまうため、演奏会場での生演奏の際はビデオグラファーによるライブプロジェクションを義務付けた。

映像としての《ねんねこパンツ》を、演奏会というコンテクストで、可能な限り忠実に再現する場合、「光るサクソフォンを吹く不思議な女性」以外の人物がステージ上に立つことは許されない。しかし、ライブプロジェクションを実施するには、ビデオグラファーをステージ上で動き回らせる必要がある。逡巡した結果、私はビデオグラファーに忍者のコスプレをしてもらい、黒子という設定でステージに上がってもらうことにした。そうして漸く、黒子に徹したビデオグラファーがステージ上でスマートフォンのカメラを起動し、その画面(縦長)をリアルタイムでステージ背景に設置されたスクリーン、もしくは壁に投影することにより、ミュージックビデオと同じ「視点」を観客に提供できることとなった。

楽譜には、元々記譜されていた五線譜、コレオグラフィー(詳しい指示はパフォーマンスノートに記載)、そしてエレクトロニクスのトリガー指示の3点に加え、新たにライブカメラワークの指示を付け足した。このライブプロジェクションの手法を発見したことは、のちの創作にも大きな影響を与えてくれた。

A sheet music with notes and text

Description automatically generated
《ねんねこパンツ》(2021)より

時代の変化とともに音楽の体験方法が多様化している中、私は演奏家と観客がステージと客席から向かい合って座るような典型的な演奏会場での上演を前提とした音楽作品はもちろん、リアルな諸種の空間やバーチャル・リアリティ空間、または映像としての音楽作品のデジタル配信など、多様な「体験環境」を想定して作曲している。音楽作品の発表方法をゼロベースでフラットに考えること。それは単純に「できること」が増え、表現の幅がぐっと広がることに繋がっている。

鑑賞者としての清水チャートリー:「自分」との距離

私は「清水チャートリー」の創る作品が好きだ。「清水チャートリー」からどのような音楽作品が生み出されるか、いつも楽しみにしている。また、「清水チャートリー」の創る音楽作品を第三者的に観て、その作品から滲み出る、自分では自覚できていない無意識領域の断片などを観察し、言語化を試みることも面白い。

人間は常に正反対の存在状態の狭間で、均衡を保ちながらうまく生きている。表と裏。外側と内側。自我と非我。そしてその境界は常に揺らぎ、複雑性を持つ。人間は自分自身を理解していない。そんな人間が創る作品だから、作曲家も自分の作品の真髄を理解しきれていない。

既に紹介した《ねんねこパンツ》を制作する際、私は「自由」について考えていた(自由の定義は古今東西議論されてきており、この記事ではあえて深入りしない)。そして、その過程である疑問にたどり着いた。私たちは目覚めている状態と夢の中にいる状態では、どちらがより「自由」なのだろう。

作中に登場するパンツは、我々誰しもが持つ「ひた隠したい何か」のシンボルである。

この世の大多数の人が日常的にパンツを履いていると私は認識しているが、それを他人に見せたがる健全な人はいないように思える。同じく、誰もが過去の失敗体験などから形成されたトラウマや、社会からは受け入れてもらえないであろう性癖などを「恥」として認識し、意識的に抑制し、人目につかぬよう隠している。しかし、それが「夢の中」になるとどうだろう。思いも寄らぬところから、トラウマの破片や性癖の断片が現れることはないだろうか。夢の中では、ある一定の統御能力を手放す代わりに、 ある種の「解放」が手にされるのではないだろうか?

収録と編集が完了し、ミュージックビデオとして完成した《ねんねこパンツ》を何度も見返していると、「作曲家としての清水チャートリー」が現実と認識する世界を「エレベーターのカゴ」として、そして夢の中を「ホテルの一室」として表現していることに気が付いた。作曲家として創作過程では特に深い意味を持たせた演出ではなかったが、鑑賞者として作品に触れて初めて、自分が現実の世界を狭く息苦しい「エレベーターのカゴ」だと感じており、夢の中ではより「自由」に存在できていることを認知した。

イギリスの哲学者であるR.G.コリングウッド(1889-1943)は、芸術家は鑑賞者と共同で、作品から芸術家自らの精神状態を認識することが出来ると説いているが、私自身もこのように、芸術家であると同時に、自分の作品の鑑賞者でもあり、そこから多くの発見を見出してきた。

そういえば私は一度、甲虫(カブトムシ)になったことがある。無論、本当に甲虫と化した訳ではないのだが、フランツ・カフカの『変身』に登場する主人公のグレゴール・ザムザがある朝起きると巨大な毒虫になっていたのとほぼ同じ状態を体験した。ドイツに住んで2年目となる2019年の秋、どうしても納得のいく作曲が出来なくなってしまい、一度引き受けた委嘱を断腸の思いで辞退せざるを得ず、その上ビザの更新や引っ越しも重なり、心身ともに疲労が溜まっていたのが原因だろうか。目覚ましのアラームが鳴り続ける中、それを止めることも、ベッドから起き上がることもできなかった。その後、少しは動けるようになったものの、永遠に感じられるような2週間弱の間は、食事もろくに喉を通らず、ほとんどの時間、天井を見つめながら過ごしたのを覚えている。

2022年にコントラバス奏者の近藤聖也氏から作品委嘱をいただき、甲虫になった体験を基に《変態ビートル》(2022)を作曲、12月に東京で世界初演を行った(打楽器は會田瑞樹氏)。コントラバスを甲虫に見立て、6本の独立した動きが可能な甲虫の脚を製作。ステージの床に寝転んだ奏者の上に6本の脚が縫い込まれた布団を敷き、その上にコントラバスの裏板と脚の位置が甲虫の脚の位置と一致するよう楽器を寝かせる。6本の脚は差金で6足の黒いスリッパと繋がっており、それらは同じくステージの床に寝そべっている、黒子の打楽器奏者の左右両側に設置される。黒子の打楽器奏者が記譜通り、モゾモゾと手足を動かすことにより、甲虫の脚が連動して動くという設計だ。

A diagram of a bass drum

Description automatically generated with medium confidence
《変態ビートル》(2022)パフォーマンスノートより

作品は目覚まし時計がけたたましく鳴り響いている情景から始まる。甲虫の寝息の音が何度か微かに聞こえ、次第にギシギシと音を立てながら6本の脚がゆっくりと動き出す。苦し紛れのコントラバスの低音が途切れ途切れに聞こえ、泥のように全てが混ざり合った、有耶無耶な時間の流れが作り出される。ごくたまに黒子の打楽器奏者が落雷のように大太鼓を打ち、鑑賞者はハッと現実に戻されるが、またずるずると夢なのか現実なのか分からない、深く居心地の悪い泥濘に引きずり込まれる。

観客は、ステージの床に寝そべったコントラバス奏者と打楽器奏者の周りを、ゆっくり時計回りに回りながら、哀れな甲虫がモゾモゾと布団から起き出そうとしている様を見下ろす設定となっている。しかし、ホールの制約など、様々な理由でそれが叶わないこともある。東京オペラシティのリサイタルホールで行った世界初演では、観客がステージ上を回ることが不可能であったため、《ねんねこパンツ》同様、ライブプロジェクションを応用し、滑稽で痛ましい甲虫を上から見下ろしながら時計回りに歩く視点をライブプロジェクションによって観客に提供した。

作曲中、私は打楽器奏者を甲虫から独立した一人の演奏家として存在させるべきか悩んでいた。しかし、どうしてもその空間に一人以上の奏者、さらに言えば甲虫以外の存在が目視できることに違和感を覚えたため、打楽器奏者を設定上黒子とし、鑑賞者には見えないという体で創作を進めることにした。

当初、ただただ感覚的な判断で打楽器奏者に床に寝そべってもらい、甲虫の脚を動かす視覚的な演出と打楽器の演奏をお任せしたのだが、リハーサルの際、初めて作品を第三者視点から観ることが出来、黒子となった打楽器奏者は、このような極めて不幸な変身を遂げてしまった自分の中にわずかに残る「人間」部分を象徴していることに気が付いた。「器」としての私が甲虫となってしまった状態で、「人間」として残る私は、失われつつある運動機能を必死に維持し、どうにか手足を使って起きあがろうともがき、不定期に流れる電気ショックのように突然発生する焦りの情動を感じ取っているのだ。

《変態ビートル》(2022):近藤聖也(Cb.)と會田瑞樹(Perc.)

上記に挙げた2作品の例のように、私は「自分の音楽作品を第三者視点で体験すること」を創作のプロセスに含めている。メタファーとして受け取っていただきたいのだが、「清水チャートリー」はそれぞれ役割を果たす三つの人格から成り立っている。まずは、「現実を生きる清水チャートリー」。環境によって、夢とうつつを行き来したり、甲虫に「変身」したりする。そしてそれをあくまでも忠実に、そしてなるべく中立的に描写する「作曲家としての清水チャートリー」。最後に、その描写から滲み出る論意を独立した視点から解釈する「鑑賞者としての清水チャートリー」が存在する。この三つの人格をうまく機能させることにより、創作が成り立っている。

創作過程で必要な清水チャートリーの「三つの人格」の例

作品を観察し、耳を傾け、表現者の無意識に宿る論意を読み解る第三の視点(それが他者であれ、はたまた作品から距離を置いた自分であれ)が、芸術を芸術たらしめる。

芸術家の初期の衝動は、計画された表現にとどまることなく、意図しない場所からも滲み出てくる可能性がある。それは、表現者が意図的に選んだ素材の提示で完結するものではない。芸術家の「無意識の声」を「鑑賞者としての清水チャートリー」が認識して創作が完了するのである。

「清水チャートリー」を一緒に楽しみませんか?

「アーティストには強烈なエゴが必要でしょう」と私が尊敬する、今は亡き友人がいつも言っていた。無論、私にも人並み以上の自己顕示欲はあるのだろうし、作品を多くの人に知ってもらい、体験して欲しいと強く思っている。しかし、こうして自分が書いた文章を読み返してみると、本当に確固たる「自分」というものが存在するのか不安になってくる。私は13歳の時からほぼ毎晩、日記を書いているが、音楽作品もそのような感覚で創っているのだろう。巨大な蚊に刺されたら《big mosquito》(2017)が生み出されるし、親知らずを抜くと《magic manju》(2023)が誕生する。

私がどこに向かっているのか、私自身も分かっていない。既に甲虫になった経験があるし、次は突然、コンクリートの壁になってしまってももはや驚かない。私が今後、どの国に行き、その国で創作活動をしているまだ出会わぬ誰かと深く交流し、どのような新しい概念や感覚に染まってゆくのか、そして如何なる手法を用いた作品が生まれるのかは、自分にも分からない。しかし、「現実を生きる清水チャートリー」が一歩一歩「今」を生きることで、そして「作曲家としての清水チャートリー」がその体験を忠実に、そして様々な思考的な制限を振り切って、妥協を許さずに描写することで、新しい音楽作品が生み出される。その音楽作品を「鑑賞者」として体験するのが楽しみでならない。