音楽で掬いとれるもの 小倉美春

音楽で掬いとれるもの 小倉美春

2023年2月11日

音楽で掬いとれるもの

小倉美春

 私はからっぽだ、と思うことがある。

 ある人が、「からっぽな自分をみんなと共有するために音楽があるのかもね」と笑い飛ばしてくれたとき、私は救われたような気がしたが、からっぽの自分を絞って絞って捻り出しても、雑巾から零れ落ちる一滴の水ほどのアイデアさえ、なかなか出てこないものである。

 「じゃあなんで、作曲なんかしてるの?」と面と向かって問われるとなかなか衝撃的だ――私はこのセリフを実際に投げられたことがある――なんてったって、私の曲はいつも、まるで私の知らない私を映していて、それを直視することのこそばゆいことといったら。それは、確かに私が聴いて記した音なのに。

 ここでまた人の言葉を借りるのも顰蹙を買いそうだが、この質問に対して納得のいく答えを与えてくれた作曲家がいた。

 「内側にいるもう一人の君を正当化するために、あなたは作曲しているのかもね」

 作曲を始めて既に9年が経った、2022年のことだった。

 こと現代に生きる表現者として、からっぽな自分を、言葉を尽くした鎧で武装しなければいけないことは多々あるわけで、特にアカデミックな場において、0から100まで言語化しないといけないとき、余計に私はからっぽだと思う。

 この論考では、からっぽな自分なりに、自分の作品――それは私がある時点で生きていた証拠でもある――、そして演奏家と作曲家両方の思考を合わせ持つ自分そのものを、言葉というマテリアルでもって見つめてみようと思う。

アイデア①:編成

 作品を創るとき、楽器編成から入ることが多い。組み合わせが既に決められていることもあるし、自由に選べる場合でも、この楽器とあの楽器でこんなシーンがあったらいいな、などと妄想する。

 名作と呼ばれる作品(何をもって名作と呼ぶか、何が良い曲/そうでない曲と判断させているかは、これまた終わりのない論点である)が多数存在してしまっている編成は、なかなかに書き辛さを感じる(オーケストラにはじまり、ピアノトリオ、弦楽四重奏など)。なかでもピアノソロは、何とも言えない責任を感じながら創る、自分が最も自由になれると同時に最も窮屈にもなる編成である。

 二作目である《Réflexion géométrique》(2016)はピアノと打楽器のために作曲された。現代音楽のレパートリーとして考えると、シュトックハウゼンの《コンタクテ》に代表される「古典的な」編成ではあるが、思い描いたのは、自らが鍵盤へアプローチする手指の感覚を、打楽器へと落とし込むことであった。また、3台ピアノのための《》(2017-18)では、耳の先にピアノ一台でも二台でも実現できない音響体を捉えていた。

 オーケストラ曲を書くにしても、ピアノと打楽器がこっそりとダブルコンチェルトになっていたり——そうして「古典的」な協奏曲とそうでないものとのあいだをはかる——、ピアノとハープが組み合わさっていたり、打楽器が声に近付けられていたり、夢見るのはそんな作品たち。

 いつも考えるのは、「この編成だからこそできること」と「この編成からは想像できないこと」の両方を取り入れることである。例えば、三人いるのに八声のように聴こえる、あるいは一声しか聴こえないなど。全ての曲でそれが達成できているかは分からないが、少なくともこう考えることで、オーケストラとは少し友だちになれる気がするのである。

 編成を語る上でもう一つ欠かせないのが、二群の使用である。処女作である《ゆらぎ》(2016)は、二組の弦楽四重奏のために書かれ、オーケストラ作品《Eruption géométrique》(2018-19)、ピアノ協奏曲《enflammé》(2020)、 チェロ協奏曲《Pierrot’s eyes》(2021)においても、弦楽部分は二つのグループに分けられている。ある集合を一つにまとめて考えるより二つに分けて考える方が、なぜ作曲のイメージがしやすいかと自問すると、そこに関係性を作るチャンスが増えるからだと思う。AとBを全体として捉える、AとBを対立させる、AをBに従属させる、BにAを無視させる…ここでも、様々な組み合わせの妙が私の興味を駆り立てる。

 ここで「編成の必然性」について考えたいと思う(音楽に必然性はどの程度必要か、という議論もまた発生するだろうが、少なくとも私は音楽に必然性を感じる時、愛おしくなる)。その編成を選んだから音楽が必然性を保てているのか、あるいはどう書いたかによって編成に必然性を再帰させているのか。いずれのケースもありうるだろうし、理想はどちらも成立していることだろう。あらかじめ実現したいことがあって、それをどのように実現していくのか、最初の音を置いた瞬間から見通せていなければならないし、それこそが、正しい必然性の持たせ方、「コンポジション」だとも思うのだ。とはいえ、後述の通り道筋が見えないまま曲を書き進めることの多い私にとっては、偶発的に生成されてしまった必然性なるものも存在する。

 編成が決まったところでいざ五線の前に座っても、座るだけでは当然何も出てこない。うんうんと机の前で数時間過ごして何も書かなかったり、上首尾の場合はその編成の特徴的な音像をいくつか書いてみることから始まる。この「机の前で数時間過ごす」ことが大事だと思っていて、別に机の前である必要はないのだが、からっぽな自分をできるだけからっぽにしていく時間。孤独と言ってしまえば簡単だが、孤独を自らのうちに発見すること、そして孤独から逃げないことで、滲み出る音楽がある。

 そうして生まれた発想は、限定的でクリアであるほど、書きやすい。とはいえ、さあようやく道筋が見えてきたと思って書き進めて行くうちに、当初の発想から外れてしまうこともある。

 曲の最後までかっちりしたプランを立てないで書くことが殆どである。最後まで一回曲が通ったときに「ああ、私はこういうことがしたかったんだ」と分かることもあるし、結局分からないときもある。行き当たりばったりで書いているつもりは決してないのだが、それでもふらふらと彷徨う森の散歩のように書き進めすぎやしないか、と思うこともある。それでも、出来上がった曲を眺めていると、自分でも気付いていなかった辻褄の合い方を発見することが多々ある。偶発的に書く中でも、無意識が必然性や整合性を産み出しているのだろうか。

アイデア②:身体感覚

 演奏者としての自分を消そうにも消せないとある作曲家にとって、身体感覚は考えざるを得ない大きなテーマの一つであろう。舞台人としての身体感覚――それは一人で孤独に練習するとき然り、リハーサルのとき然り、様々な場面に発見が埋め込まれている――は、作品が現実世界でどう立ち上がるかについて、より実体のあるアイディアを与えてくれることがある。

 例えば、私の殆どの弦楽器作品には、tap(左手で指板を叩いて音を鳴らす)の間にarco(通常通り弓で弾く)やpizzicato(弦をはじく)などの右手の動作を入れるイディオムが出てくる。これは、左右の手が違うリズム・違うテンポで進まなければならない部分が多くあるリゲティの練習曲を弾く際、左半身と右半身を「がっぽり」と分ける身体感覚からヒントを得たものだ。弦楽器においても、左手と右手が自動的にお互い連携しているのはなぜだろうと、いっそ意図して「がっぽり」切り離してしまえと考えた。声(弓で演奏される音)になる前のささやきだったり、声になりきれない声を聴き取ったときに、特に好んで使う表現である。

 だが、ことピアノ作品を書くという文脈においては、身体感覚のことを語るのは少々厄介でもある。私の手は、私の頭以上に楽器のことを知っている。手の求めることだけを聞いて作曲するかぎり、私が経験したピアノ書法しか出てこない危険性がある。もちろん、何が演奏可能で、何が不可能か、自ら判断できるのは、非常にありがたいことではあるが、聴いた(弾いた)ことのある和音の羅列はなるべく避けたいのが正直な気持ちであり、常々課題ともなっている。

 2018年オルレアン国際ピアノコンクールで自演するために作曲した《Labyrinthe》(2018)では、これがテーマの一つとなった。自分が経験したことのない身体感覚を書けば、何か新しいものが生まれるのではないかと思った。左右の手が交差した状態で、距離のある跳躍を繰り広げる場面は、コンクールという場においてはある程度効果的だったろう。ただ、使用した音のマテリアル自体はある種古典的だったため、私もシェーンベルクがはまったのと同じ罠に落ちにいったのだろうかと考えてしまうことがある。

 他にも、自分がピアノを練習する方法からアイディアを得た、音を出さずに鍵盤に触れる動きと音を出す動きのコンビネーション(先ほどのtapとarcoのミックスにも通じるかもしれない)など、陽の目を見ずにいる身体感覚由来のスケッチがある。身体感覚を作品に落とし込むとき、演劇的とまでいかなくとも、何らかの視覚的な効果も同時に狙うことが多い。難しいのは、私たちは音楽を聴くとき、確かに視覚からの情報にも大きく左右されているが、それが全てではないことだ。採用されなかった身体感覚由来の音像は、大抵の場合、視覚に頼りすぎてしまっている。「結局」どんな音が鳴るか自体をピュアに信じる姿勢は、作曲家として時代遅れなのかもしれないが、私が演奏家としての身体を持つ以上、一番の強み、楽器を始めてから追求している「楽器音そのもののクオリティー」をないがしろにしたくないのは、自然なことだろう。私が特殊奏法や演劇的要素を作品の中心的アイデアに据えたことがないのは、その人が最も長い時間を費やして取り組んできた「普通の音」を、魅力あるものとして引き出したいという思いがあるからだ。

 演奏家的身体感覚は、実際に曲が演奏されるときの空気感や呼吸感を想像する助けになる。前述の編成の話然り、作品が舞台上でどんな格好をするかに気を配ることは、音楽を頭の中、机の上、あるいはパソコンの中で完結させることなく、生身の人間相手に仕事をしている意識のあらわれでもある。

アイデア③:記譜

 なぜ五つの線があって、そこに丸を記していくのか。なぜとある時間を二つなり三つなり、はたまたそれ以上に分割することで、音が鳴るタイミングを記すのか。そもそもなぜ左から右へと時間が流れていくのか。などとうんうん頭を抱えたことがある。現代音楽の譜面に限らず、線が五本以上あったり、暗号のようなルネサンスの楽譜をぼーっと眺めるのも、記譜の妄想に貢献してくれる。ただ物珍しい譜面を書くためだけに記譜の開発をしても、音楽が追いついて来ない可能性も充分あるのだが、魅了されるのは、五線の形を取らなかったことの必然性がはっきりと提示されている楽譜だ。

 記譜について考えることは、私にとってリズムや時間と向き合うことだ。もはや当たり前のように共通言語となっている五線から外れることで、何か新しいことができるのではないか。そう思うのだが、結局は五線の力の前に屈する人生。とはいえ、五線の支配下にあっても、何か面白い記し方を発見し、あわよくば未聴のリズムや時間感覚を生み出せないかと思っている。

 前述のピアノソロ《Labyrinthe》では、定量記譜と非定量記譜の組み合わせに興味があった。右手が規則的に音を弾いているところに、左手が不規則なリズムを入れる。私にとって視覚的に新しくはあったが、聴覚的にどの程度効果的だったのかは、曲を聴き慣れてしまった今となっては判断が難しい。

《Labyrinthe》(2018)
《Credo―ソプラノと弦楽四重奏のための―》(2019)

 もう一つよく使う方法に、「その人にとって最も早いテンポで」というのがある。これは、周囲が大枠のテンポを既に持っていて、それに対して異なるテンポを聴きたいときに使っている。これは繰り返されるパッセージの内容に対して使われることが多い。パッセージの内容は、同じ音価の羅列ではなく、弾いている人にとっては、まだ音同士リズムの比率が残っている状態である。繰り返しのなかで、すぐに周期が聴こえてきてしまうのを避けたくて、この方法を考えたが、それでもある程度聴き慣れてくると、同じものが戻って来たという印象を与えてしまうことが課題である。

 ところで、私は未だにほとんど全ての楽譜――パート譜も含めて――を手書きで書いている。それをどうスキャンするかはいつも大きな問題で、見辛さゆえにご迷惑をおかけしてしまうことも多々あるが、私が手書きを続けている理由は、ただPC浄書の習得をサボっているからとは限らない。

 もともと、私は手を使うことが好きだった。幼少期の折り紙に始まり、字を書くこと、編み物…自分の手から何かが産み出される感覚は、自然と楽譜を書く行為に繋がっていった。

 手書きだからこそ発想できる音楽があると思っている。尊敬する先輩方の中には、どんなことでもパソコンで書けてしまう作曲家もいて、自分がその域に達するには何年かかるのだろうと目を回すものだが、稀にコンピューターの前に座って「今度の曲こそパソコンで浄書しよう」と覚悟を決めた何分か後に「やっぱり手書きで書いた方が早い」と諦めることの繰り返しである。

 決められた枠組みを組み合わせるという前提に立つより、道具から何から自分で作ることのできる状態が、私はやっぱり自由になれる。

 もちろん、手書きは時間がかかるし、修正も難しい。清書を始めてしまったのに「やっぱり構成を変えたい、ぐるっとひっくり返そう」と思いたった暁には、振り出しに戻ることになる。

 自分がもし作曲家としての活動しかしていなかったら、と考えることがある。パソコンを強力な相棒にせざるを得ないだろう。ピアノと作曲の両方で活動するのは、決して容易いことではないが、一曲創るのに時間をかけられる状況だからこそ、手書き派自認も成り立つ。

 時間といえば、私の場合何事も、午前中が一番頭が働いている。締め切りを抱えているなら、朝起きてすぐ作曲に取り掛かるのが理想だ。もっとも、理想とは打ち破られるためにある言葉で、私は日々徹夜エピソードを戦わせ合う同級生たちを尻目に、早起きに挑戦してしばしば失敗していた。「大作曲家は、皆朝型だったんだよ(だから頑張れ)」と言われたことさえあったが、夜ふらふらの頭で清書しなければならないこともしょっちゅうだ。それでも徹夜の経験をほとんどしたことがないのは、私がただの睡眠バカだからなのか。どの時間帯にしろ、頭が冴えている状態で書きたいものだ。そのためには、日々ある程度の節制は必要だと思っている。夜眠るために運動する、締め切りの重圧で潰れてしまわないようにスケジュール管理をきちんとする。健康に気をつける作曲家など伝記的にはオモシロくないのかもしれないが、それで上等。

 閑話休題。手書きの話に戻ろう。ある人が「私手書きの方が好きよ、読むのは少し大変だけれど、音楽に深く入れる気がする」と言ってくれたことがあった。私も、数少ない美しい手書きと出会うと、嬉しくなる。手書きにしろパソコンにしろ、重要なのは演奏者に余計なストレスを与えないこと。もうしばらくは手書きで書き続け、そして手書きだからこそ発想できる音楽について考えたい。

アイデア④:言語

 私の大きな興味の一つは、言語だ。音としてのヒントもたくさんあるし、言語毎の構造面の違いも興味深い。人はなぜとある音の組み合わせに一つないし複数の意味を見出して、それを共有することでコミュニケーションを図っているのだろう、などと考えて、ぐるぐるするのがたまらなく好きだ。

 私たちが知っているけれど言葉に出来ていない価値観が、「〇〇〇」と名付けられた瞬間に生を持つ。その謎に想いを馳せる時間は、私の人生に彩りを与えてくれる。

 言語というトピックは特別なものであるため、少々散歩道をふらつくことをお許し願いたい。自分と言語の関係性を振り返ってみるとき、中学生でフランス語を始めたのよりも前に、友だちと創作言語辞典を作っていたときの記憶が真っ先に蘇る。小学生ゆえ、ベースは日本語(ひらがな)であったが、今となってはどうしてそんなことをしようとしたのか、覚えていない。12歳になって、フランス語を学び始めるという選択肢があったのは幸運でしかなかったが、そこでは音の美しさ、構造から来る美しさに触れることができた。並行して勉強していた英語は、私にとって最初は美しい言語とは言い難かったが、高校の恩師と出会って考えを改めることになる。四つ目の言語となったドイツ語は、残念ながら未だ美しいと思える瞬間が少ないが、構造がいかに思考回路に影響するかをよく示している一例だと思う。

 四つの言語それぞれを喋るとき、微妙に異なる人格が宿ると感じることがある。ドイツ語を話すとき最も声量が大きくなっている気がするし、英語を喋るときはもう少しリラックスしている気がする。全てを日本語で受け取るのと同じように理解するのは無理だが、同時にそれぞれの言語でしか言い表せない様態もあって、その表現を宙から掴み取ったときには、爽快な気分になる。

 さて、このようにして私が言語に対して何らかの「実体」を感じていることが明らかになった。ここで作曲における言語の扱い方と、「実体」の問題について考えていきたい。

 英語話者でない作曲家が、英語で書いたオペラをみて、「この人はこんなに素敵な母語を話し、音楽自体も英語の響きをしていないのに、なぜわざわざ英語を使ってしまったのだろう」という感想を持った。その人にとっては、言葉の意味が伝わる確率が増えることの方が重要だったのかもしれないし(実際無視できないファクターではある)、英語の台本が既に存在していたのかもしれないのだが。

 そういう私も、「あなたにとって実体を持ちにくいラテン語でなぜ作曲するの?英語なら書く意味が分かるし、うまくいっているのに」と言われたことがある。よその人が見たら、日本人の私が日本語以外の言語を使う時点で「ナンカオカシイ、実体が伴っていない!」と感じてしまうのは、自然であろう。

 そもそも、歌詞や言葉を使う作曲で、どの程度「実体」なるものを求めるかは、人によって違う。作曲家がいくら「実体」をもって作曲したところで、演奏者ましてや聴き手に同様の感覚を与えられるかは保証されていない。それでも、自分にとって「実体」のある言語とはなんだろう、と考えたのが、テッセラ音楽祭の委嘱により作曲したモノオペラ《Call〜あなたとわたし〜》(2021)である。元々は英語の歌詞を用いて作曲していたが、日本人である自分が英語を書くときの情感、特に音の捉え方は、日本語で同じ内容を消化するときのそれとは全く違う。リアルでないものを書き進める意味について自問していたころに、人間がまだ言葉を理解しない時期、つまり胎児や乳児のとき、それでもコミュニケーションを取れるのはなぜだろうと考えた。言語を超えて理解できる「言語」があるのではないか、それを聴き取ってみたいと思った。

 そこで私が用いたのが、IPA(国際発音記号)だ。「方向性として英語と大して変わらないじゃん」と言われても仕方ないが、世の中のほぼ全ての言語が示せるIPAを組み合わせて、新たな共通音を作ってみたかった。それは、赤ちゃんが聴いている世界かもしれないし、言語体系が生まれる前の叫びや祈りかもしれない。あるいは、それは英語が巣食っているこの世界で消えつつある言語かもしれない。

 作品を書き進めているうちにぶつかったのが、やはり音は構造を持つことによって意味をなしているということだった。文法というものがどれだけ人間社会に大きな役割を果たしているのか感じながら、同時に、それでも発音記号で書き表せない音があるのではないかとも考えていた。それを落とし込もうとしたのが、同時期に作曲していたヴィオラ三本のための《》(2021)である。

 声を使わない楽器のみの作品においても、言語の感覚は発生するはずだ。そう考えることによって、スカルラッティも、ブーレーズも、捉えやすくなるという都市伝説があるとかないとか。

 歌詞を伴って作曲するときによく言われるのが「言葉の奴隷にならないように」ということだ。言葉の奴隷にならずにどうやって音楽だけでその言葉を喚起させるか、あるいは音節の奴隷にならずに節回しの不自然さを回避するかは、どの作曲家にとっても課題であろう。それを判断できるには、やはり使う言語に「実体」を感じられた方が良い、ということになるのだろうか。

 私にとって最も「実体」を感じられるはずの日本語では、一作品しか書いたことがない。大学卒業時、同期生が書いた詩を使って、門下の同級生が演奏できるような編成で作曲した。いつか、日本語とも向き合わなければならないと思うけれど、私にとっては今のところ言語は意味より音である。人と話しているときにも、内容を逐一追っていくより、ぼうっと音として捉えているため、理解が追いついていないこともあるし、寝ぼけまなこの朝の電車で、日本語が宇宙語に聞こえるという体験を何回もしたことがある。次に声を使う作品を書くのも決まっているけれど、そちらも音としての側面から言葉に対してアプローチするつもりである。

アイデア⑤:宗教

 宗教というのは、デリケートなテーマである。デリケートな話題であるということを失念して、初めて話す人に「信者ですか?」と尋ねてしまったことがあるが、そこから非常に深い会話になったことがあるのも事実である。

 私自身は、キリスト教信者である。といっても、幼児洗礼であった。物心ついた頃には、聖書のエピソードに、神話や童話を読むような感じで触れていた。

 現在、特に興味があるのは、宗教による概念の捉え方の違い、あるいは聖書解釈の歴史などである。初めてキリスト者である自分を作品に投影したのは、ソプラノと弦楽四重奏のための《Credo》(2019)。Credoは、ミサの中の信仰宣言であり、どのような教義を信じるかというテキストになっている。いわば儀式の中心ともいえる文言に、私は司祭に化けた悪魔という役を借りて「信じるなんて、簡単なことではないよね」という声を混ぜ込もうとした。

 そこから、悪魔/天使という存在に興味を持った。神学的には悪魔は元々天使である。それを裏付ける聖書の部分をテキストに、ソプラノとヴァイオリン、ピアノのための《Lucifer》(2021)を作曲した。前述のモノオペラ《Call〜あなたとわたし〜》では、もともと題材の候補の1つが、母マリアという存在だった。マリアは人間なのか、神の子を宿したから神の一族なのかという問題を扱う研究や、聖書の中での彼女の扱われ方に興味があった。あるいは、遠藤周作的なキリスト教の捉え方も勉強した。詩篇も全て読んだ。

 祈るということには、確かに力が宿っている(実際、科学的にそれを証明しようとした人もいるらしい)。それをどう具体的に曲に組み込むかは、なかなか言語化が難しいと思うけれど、少なくとも無意識では、祈りのともしびを作品のどこかにそっと置いておきたいものである。

アイデア⑥:他分野の芸術

 他分野の芸術からインスピレーションを受けて作曲することは、一般的に珍しいことではない。私はといえば、絵を観るのが好きなのだが、絵で表現されているのと同じことを音楽で表現するのは難しいと思ってしまう。

 「音楽の特徴は時間芸術であること」とはよく言われるが、私たちを罠に引っ掛けてくるのが、譜面は画の状態(=瞬間)で提出されるということだ。画そのものである絵画(もちろん、その中に時間感覚は存在するが)、画の連続である映像、読者一人一人が独自の画を描けるよう、文字によって設計図を提出する小説。他分野の芸術を音楽に取り込もうとするとき、画と時間がそれぞれどう立ち振る舞っているのかに注意を払うべきだ。

 映画と音楽は、ある程度の尺があり、そして物語を紡ぐことができるという点で共通している。チェロ協奏曲《Pierrot’s eyes》は、その年に流行った映画『ジョーカー』のピエロの姿が忘れられなくて、作曲した。というより、作品中のピエロの執拗さ、そして悲しみについて、音楽で捉えたかった、と言った方が正確だろう。ある作品に感銘を受けた場合、何が心を突き動かしたのか、どの成分を音楽と共有できるのかをはっきりとさせた上で、自分の創作に取り込むか決めることが大事だと思っている。音楽作品から影響を受ける場合にも同じことが言えて、そうでなければコピー(コピーにも良い側面はあるが)に陥ってしまう可能性がある。

 そしてどんな場合でも、音楽「でしか」表現できないものが表出されたとき、音楽である意味が生まれると信じたい。

展開と受容としてのスタイル

 作曲はマテリアルなり、アイデアなり、種のようなものを、時間経過ととも展開していくべきだ、というのが、一般的な教えである。展開とは、とんかちでトントン叩くようなものだという感覚が私にはするが、注意深く観察すればそこにはもっと多様なイメージがあるだろうし、まとめてしまえば手入れをすることだと思っている。外から与えられたにせよ、自分で準備したにせよ、目の前に置かれた種を、どのように育てていくか…。

 作曲中は展開の善し悪しを判断しながら書き進めるわけだが、その基準について考えてみよう。

 この展開は早すぎるとか、ここはもっとこうした方が良いとか、それは全て各自がこれまでに積んできた音楽経験に基づいている。この経験というのが厄介で、例えば私たちは「モーツァルトはこういうスタイルですよ」とか「倚音が解決するときにはアクセントを付けると変ですよ」とか、和音進行の重さ軽さとか、そのように学んだからそう感じることができる。しかし、学びや経験により得られるそのような感覚を、自分がある程度他人と共有可能と思うのは、幻想なのかもしれない。異なる経験や音楽感を持つ人々には、どのように音楽が聴こえているのか、とよく考える。

 バックグラウンドが異なる聴衆一人一人に、自分が意図したように曲を伝えるのは難しい。だからこそ、私は音楽でもって人類が共有する感覚というものを掬いたいのだが、掬えたとしても、展開の善し悪しを判断する基準でさえ人によって違うことが厄介だ。その違いを美学という言葉で置き換えても良いのだが、美学がテクニックに収斂していくとき、私はささやかに抵抗したくなってしまう。テクニックには確かにテクニックと呼ばれる理由がある。意図をより多くの人に伝えられたり、善し悪しの基準を共有しやすくなったり。

 ある展開は、テクニック的美学と、作曲家に内在する美学両方から分析できる。答えが異なる場合、どちらを優先すべきか(という判断基準も、人によって変わるというループが発生するが)。私には意外にも、テクニック的美学を取った方がうまくいく感覚がある。自分では面白くないと判断したり、頭の中で聴こえてこない音でも、理論上必要な展開であれば、そちらを優先した方が、全体の構築に役立つことがある。逆にどんなに美しいアイデアを思いついても、前後の展開を見通した上で、本当にそう書くことが必要かどうかを考えなければならない。構造や展開からどんなに外れていたとしても、そのアイデアが譲れないものであり、真に自分の中から出てきたならば、内在する美学を優先してみる。この選択をするのは、どうしてもそうしなければならないと思ったときのみ。だからこそ、その瞬間が非常に心に触れる(ようにと狙っている)。

 とはいえ、私のテクニック的美学も、例えば全て数列でコントロールされているようなものほどに理屈付けられる訳ではなく、全体の構造や時間の流れの中で展開の良し悪しを随時判断していくという意味では、感覚的なのかもしれない。コンセプトがあるもの、システムがしっかり作られているもの、言葉で説明しやすいものの方が誤解も少ない、という昨今の流れにおいて、説得力の観点から、言語化・数値化し辛い自分の展開方法は弱いのだろうかと考えることもある。ただ、よく出来た価値観に乗っかっても、全員がその価値観を共有できるとは限らないということを、いつも心に留めておきたいものだ。例え自分の価値観が少数派だったとしても、誰かとそれを共有できる可能性を切り捨ててはならない。

 さて、上に述べてきたようなことや、そもそもの生き方が音楽にスタイルとして表れているのかもしれないが、私はスタイルというのは、どちらかというと、演奏者を含めた、音楽を受け取る側のためにある言葉だと思っている。ある作曲家の作品が繰り返し演奏される中で「この人の音楽はこういう雰囲気だよね」となんとなく共有されるのが、スタイルなるもの。もしも「あなたの音楽にスタイルはありますか?」と問われたら、ないように感じる。

 スタイルを語れるようになるには、ある程度の演奏史と受容史が必要になる。どこを切り取っても「あ、あの人の作品だよね」と認識できる瞬間を積み重ねられる作曲家がいる。極めて個人的な表出が、人々が共有するはずの感覚に触れ得るという、妖しい矛盾が成立した音楽。一方で「あ、これは」を実現するには、その人の作品を複数聴いていなければならず、結局は演奏と受容の問題に関わってくる。作曲家が好む音程感や、よく使う和音などが、その判断の助けになっているかもしれない。実際、自分のピアノ作品に取り組むと、次に来る音に対して腑に落ちる感覚を抱きながら、譜読みをしている。

 もちろん、どのように作曲するかを、スタイルと呼ぶこともできる。作曲人生で、スタイルの変化はあった方が良いか否か論争が存在していることが、それを証明している。ただ、いざ「自分のスタイルを言語化せよ」と言われると、「あの雲に乗ってみろ」と言われたような気分になってしまうことも事実である。

 意識というものを説明するのが簡単ではないように、自分のスタイルというものの存在を今この瞬間に認めるのは難しい。この論考において、作曲する際に軸となる発想をいくつか見てきたことは、自分というものを聴き取り、音楽観の傾向を言語化するのに役立っただろう。

 音楽でしか出来ないことを信じたい。人類共有の感覚を掬いたい。常に、人間あるいは世界、ひいては宇宙が共有している深淵に近付きたいという思いがある。私たちは様々な区切りを持つことによって、このマクロな世界で生きる術を見出しているけれど、元来共有している感情や感覚がきっとあるのではないか。そこを少しでも掬いたいというのが、私の作曲の基本姿勢のように思う。

 ここから生まれた音楽に、実際どのようなコスチュームを着せて「スタイル」と名付けていくのか、作品を演奏してくださる方、聴いてくださる方と共に見届けたいというのが、これからも私が作品を書き続ける原動力になるだろう。

2022年12月2日 フランクフルト