プログラムノート 小林夏衣

プログラムノート 小林夏衣

2026年1月25日

小林夏衣

目次

◉《子供部屋のトポロジー》(2025-26)

初演:2026年1月30日 Cabinet of Curiosities 2026〈New Music Theater〉舞台芸術としての音楽の境界線を探る(ゲーテ・インスティトゥート東京)

心に深く残っている言葉がある。

それは単なる記号でもあるのではあるが、実際には、そこに付随する体験や感情の記憶、そして言葉の裏に潜む別の意味などが交錯している。

心に深く残っている音がある。

それは単なる響きでもあるのではあるが、実際には、そこに付随する体験や感情の記憶、そして音の裏に潜む別の意味などが交錯している。

言葉は音となり、音は言葉となる。その往来の中で、私たちは様々なところに導かれ、自らの記憶を追体験する。

——2026年 Cabinet of Curiosities 2026〈New Music Theater〉プログラムより

◉《SHALL I BUILD A DAM?》(2024)

初演:2024年6月1日 ミュンヘン・ビエンナーレ:ノイエス・ムジークテアター・フェスティバルの上演作品として (Schwere Reiter, München)

*上演後、観客へのアルコール飲料提供があります。

プログラム

水がなければ生命は存在しえない。水は、私たちの身体が生まれ、栄え、成長し、生き続けるための前提そのものなのだ。同時に、水は絶えず流動しながら、交代や変容を表している——様々な凝固状態のあいだで、常に異なる形態をとりながら、それぞれの身体を通り抜け、互いを結びつけていく。水は、親密さや近さを象徴するとともに、地球上のすべての生命を互いに結びつける、ひとつの要素としての宇宙論的な広がりをも備えている。

これに基づいて、SHALL I BUILD A DAM?は、ポスト・ヒューマン・フェミニズムの観点から身体、音響、テキスト、そして動きを互いに関連づけ、伝統的な主客関係を伴う人間中心主義的観点を超えた可能性を探求する相互作用と共同体の形に至るための道を探る。事物は流動し、互いに影響を与え、互いを内包し合いながら、関係づけられていく。それは罪と共犯、窃盗と贈与、詩と政治、そして粘性、凝固、蒸発と流動についてである。SHALL I BUILD A DAM?は、一方では哲学者アストリダ・ネイマイスAstrida Neimanisの思想から着想を得ている。もう一方には、インスピレーションの源として貢献している一連のテキストがあり、それらの一部が具体的な形で、音素材として、あるいは構造を形づくる枠組みとして小林夏衣の音楽へと取り込まれている。引用されるのは、ヴィクトール・E・フランクル、ベルトルト・ブレヒト、高良留美子、フリードリヒ・ニーチェ、オスカー・レルケ、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィによるテキストだ。

SHALL I BUILD A DAM?では、これまで継続して音楽劇に精力的に取り組んできた作曲家の小林夏衣が、振付家・パフォーマーのシモーネ・オーテロニーSimone Aughterlony、そして照明デザイナー兼舞台美術家のヨセフ・ヴェグマンJoseph Wegmannとはじめて協働した。また、このプロジェクトを通じてドイツ・オペラ・ベルリンはミュンヘン・ビエンナーレとの成功した協力を継続しており、本作は、ビエンナーレのフェスティバル・モットー「On the Way」に即し、展開や変容が空間的プロセスとして、可視化かつ可聴的化されたプロジェクトとして共同制作された。

——2024年 SHALL I BUILD A DAM?ベルリン初演時プログラムより(原文独語、作曲家による和訳)、コピーライト:ベルリン・オペラ財団、セバスティアン・ハヌサSebastian Hanusa編

すももの木

中庭に一本のすももの木がある
それは小さく、それとは気づかれないほどだ。
そのまわりは柵で囲ってある
だから誰もそれを踏みつけたりはしない。
その小さな木は大きくなれない。
なれるものなら喜んでなるのだが。
しかしそれは叶わないことだ。
陽がほとんど当たらないのだ。
人はそれがすももの木だとはほとんど思わない
それが実をつけることは決してないのだから。
それでも確かに、それはすももの木だ
葉を見れば、それとわかる。

ベルトルト・ブレヒト

崖下の道

その崖下の道を通るとき
彼女はいつも
十歳の少女に戻っていなければならない
その崖下の道を通るとき

あたかも彼女の生が
その歳で止まってしまったかのように
彼女が決して
十歳より上になることなどなかったかのように

深い渓谷に沿ってのびるその道が
十歳を超えた彼女を見ることを望まないかのように
あたかも彼女の生がその年に
運命の手に捉えられてしまったかのように

あの夏に十歳であったものは
いまも十歳でなければならないかのように
それ以上に成長しようとすれば
なにかが壊れてしまうかのように

その崖下の道を通るとき
彼女はいつも
十歳の少女に戻っていなければならない
その崖下の道を通るとき

高良留美子(『続・高良留美子詩集』思潮社より)

葉のかすみ

傷つきやすいものこそ永続する
長いあいだミドリのかすみは地球を蔽っていた、
それがどこへ行ったか。

新たな春にミドリのかすみはふたたび漂いはじめ、
地面と大空のあいだにある
自分の場所をいっぱいにする。
風に操られ、
雨に押しやられ、
光に引き上げられて、
ミドリのかすみはいつも戻ってくる。
こうして多くの歳月を経てきた。

秋の灯火がともるといつも、
ミドリのかすみの嘆きが聞かれる、「私が沈む、なぜに私が」
もっぱら詩人の心でもって畳みかける、
「私は滅びる、滅びないわけがあろうか」

それから冬になると、
空には曲げられた枝が這っている、
一度生まれた間隔を変えることなく、
どの枝も他の枝をおそらく意識することなく、
けれども一緒に同じ広がりを作って、

大地と大空のあいだで
庭師のノコギリに刻まれることなく、
木こりの斧に当たることなく
あの法則が生きつづける、
傷つきやすいものこそ永続する。

オスカー・レルケ(神品芳夫編著『自然詩の系譜:20世紀ドイツ詩の水脈』みすず書房より)

《SHALL I BUILD A DAM?》スコアより抜粋

◉《歌われざる歌たちUngesungene Lieder》(2022-23)

Ungesungene Lieder
ein Zyklus der Kompositionen für 8 Instrumentalist:innen

Ungesungene Lieder I (2022)
für vier Instrumentalist:innen(4人の楽器奏者のための)
初演:2022年4月18日 SUBITO! Woche der Neuen Musik (ハンブルク演劇音楽大学フォーラム)


Ein ungesungenes Lied (2022)
für Video(ビデオのための)


Ungesungene Lieder II (2022)
für fünf Instrumentalist:innen(5人の楽器奏者のための)
初演:2022年11月27日 MEHRLICHT!MUSIK 2022: Musiktheater(ベルリン芸術大学リハーサルホール)


Ungesungene Lieder III – Frederick (2023)
für fünf Instrumentalist:innen(5人の楽器奏者のための)
初演:2023年10月11日 Ungesungene Lieder – Musiktheater von Kai Kobayashi (ベルリン芸術大学リハーサルホール)

私のシリーズ《歌われざる歌たち》は、音楽そのものと、その内に含まれる非音楽的文脈との関係を問い直そうとする試みである。

ベートーヴェンの第九交響曲の《歓喜の歌》が、ヒトラーの誕生日を祝して演奏される模様を映した映像を見た時に感じた絶望を、私は今も忘れることができない。その出来事が決して過去のものではないという事実こそ、このシリーズに取り組む原動力となった。

作品が作者の手を離れる瞬間は、とても美しい。しかし、解釈の自由が悪用され、作品が本来とは異なる文脈で利用されたとすれば、それは悲劇である。一方で、もし作品が、作者の意図に完全に一致する解釈や表現のみを許すのならば、たとえその意図がどれほど見事であっても、その作者や作品は独裁的だとみなされるだろう。解釈の自由は常に開かれていなければならない。

チャップリンの有名な映画のラストシーンでは、理髪師が独裁者「ヒンケル」に代わって群衆の前で演説を行う。その演説の内容は、本物の独裁者のものとは正反対であるにもかかわらず、人々はその迫力ある雰囲気にのまれ、熱狂的な拍手を送る。情熱的な語り口には、内容を超えて興奮と陶酔を呼び起こす独特の音楽的な力が宿っている。

私がここで感じるのは、音楽的文脈のもつ圧倒的な力と、その文脈全体を厳密に特定することの難しさです。音楽を通して言葉を介さずとも互いを理解できる、とはよく言われる。しかし、音楽が幅広い人々を包み込む可能性を持つということは、同時にその曖昧さと危うさをも内包している。

これは、感情を押し付けることなく、観客と交わろうとする試みである。この作品のために選んだ言葉のそれぞれは、大きな意味を持っており、それらを観客と共有したいと願っている。ただし、同じ感情を共有することができるとは思っていない。誰もが、その感じ方や考え方に固有の背景を持っており、その違いこそが、他者との対話の喜びを生むのだ。

現代社会においてもなお、時代の潮流や共同体の規範に異を唱えることの難しさを、私たちは経験している。その困難を知っているからこそ、歴史の中で声を上げなかった人々を単純に非難することはできない。それでも私は、沈黙しなかった少数派の勇気を、決して忘れることはないだろう。

——2023年Ungesungene Lieder – Musiktheater von Kai Kobayashiプログラムより(原文独語、筆者自身による和訳)

Ein ungesungenes Lied (2022) für Video
Ungesungene Lieder I (2022) für vier Instrumentalist:innen
Ungesungene Lieder II 

◉アンサンブルとビデオのための《nach und nach》(2023)

英題:bit by bit
初演:2023年5月27日 Musik + (± Musik∓ Konzertserie für aktuelle Musik) (Altes Pfandhaus, Köln)

Wie flüssig unser Leben ist..!(私たちの生の、なんと流動的なことか..!)

——2023年 Musik + (±Musik Konzertserie für aktuelle Musik) プログラムより

◉五人の楽器奏者のための《五Fünf》(2022)

初演:2022年5月31日 ¡Power to the Performer! (Festival Crescendo 2022) (ベルリン芸術大学コンサートホール)

日本文化が古代中国から大きな影響を受けてきたことは、よく知られている。そのひとつに、万物を「木・火・土・金・水」の五つの要素に分類するという思想がある。この、いわゆる五行説は、私たちの暮らしの中の様々な概念にもその痕跡を残している。

この思想で興味深いのは、個々の要素そのものの特性に焦点を当てるのではなく、それらの関係性と均衡に重きが置かれている点だ。その関係は固定されたものではなく、常に変化し、ひとつの出来事を多様な視点から捉えることができる。一つ例を挙げる——例えば「火が木を燃やす」とき、同時に「木が火を燃え立たせる」とも言える。そして木が燃え続ければ、やがて火はその勢いを失っていく。それらは互いに影響し合い、その興亡によって、世の中のあらゆるものが変化し、循環していくのだ。

この曲では、五人の演奏者の間に流れる有機的な対話を生み出すことが試みられている。だがそれは同時に、私自身との内的な対話でもある。今、私が行っている素材の把握、処理、変化のプロセスは、過去の内的および外的な影響によって確立されてきた。何かに触発され、自分自身に影響を与え、変化の過程を繰り返していく。

五人の演奏者との出会いは、音楽にどのような変化をもたらすのだろうか。あるいは、それは彼ら/彼女らにどのような影響を与えるのだろうか。そして、その変化が再び、私自身にどのように返ってくるのだろうか。すべてが有機的で、生き生きと息づいていたなら、どんなに素晴らしいだろうか。

——2022年 ¡Power to the Performer! – Ensemble Ilinx – crescendoプログラムより(原文独語、筆者自身による和訳)

◉小オーケストラのための《摘み人の歌Lied der Pflücker》(2022)

初演:2022年5月25日 Werkstatt-Konzert (Miralles Saal, Hamburg)

ちょうど十年前、私は作曲家として初めての作品を完成させた。それから今日まで振り返ってみると、私の創作の中心にあったのは、常に「私」ではない何かだった。その何かこそが、私を強く惹きつける。まるで自分自身が「それ」であるかのように共鳴しながらも、それは決して私自身のものではない。

O fortunatos nimium, sua si bona norint, agricolas! (ああ、自分たちの境遇をよく知るなら、農夫らは幸福すぎるほどだ。)

このように——心からの賛美の言葉から、ウェルギリウス『農耕詩』の農夫たちについての章は始まる。今回の作品は、その一節を基盤としたものだ。私の育った街では、便利なことに、商店が365日休むことなく開いていたし、緑は少なく、自然を感じたければお金を払わねばならないほどだった。人類の長い歴史の中で農夫たちが置かれてきた不安定な暮らしを思えば、「憧れ」などという言葉を軽々しく口にするのは、いささか能天気すぎるだろう。それでも、自然の摂理とともに一日を精一杯生きる人々の生活の中に、生命の真実があるように思える。快適さを維持することに情熱を注ぐ現代の暮らしの中では、その感覚を実感することはおそらく難しい。私は、この飽和した生活に疑いを抱きつつも、同時に、そこにすっかり慣れてしまっているのだ。

おそらく、私の創作の中心にあるのは「強い憧れ」なのだろう。

有名な「carpe diem」という言葉が、よく知られた「一日を有効に使え」ではなく、本来は「一日を摘み取れ」と訳されるべきだというのを読んで、心が弾んだ。「摘み取る」という行為には、慎みと丁寧さがある。そしてそれは、同時に骨の折れる作業でもある。もしもあらゆる瞬間を、一つひとつ丁寧に摘み取ることができたのなら、それはなんと素晴らしいことだろう。

——2022年 Windfuhrs Werkstatt-Konzert mit den Symphonikern Hamburgプログラムより(原文独語、筆者自身による和訳、詩の訳は、ウェルギリウス:『牧歌・農耕詩』(河津千代 訳)、未來社(1991)からの引用)

◉オーボエ、テナーサクソフォン、チェロ、アコーディオンと4人のパフォーマーのための《nicht zu betreten》(2021)

英題:not to be trodden on
初演(非公開オープンエアー)およびドキュメンテーション:2021年8月29日〜9月5日 akademie kontemporärの一環として (ハンブルク演劇音楽大学)

東京・渋谷駅のそばに、ひときわ大きなスクランブル交差点がある。その話をある人にしたところ、「ああ、あの有名な」と言われたので、多くの人がその光景を思い浮かべることができるのかもしれない。その交差点を定点観測するライブカメラがあり、その映像はYouTubeで観ることができる。

ある夕方のこと、私は、道路を埋めつくすように車が並び、とめどなく流れてゆくその様子を眺めていた。パンデミック以前のようではないが、想像したよりも多くの歩行者がいた。信号が赤に変わる前のわずかな時間を見計らい、人々は急ぎ足で道を渡っていく。これらの人々と車両は、それぞれが自らの意思でルールを守ることによって共存しているが、その間に横たわる力の差はあまりにも大きい。ひとたび、その秩序が崩れれば、取り返しのつかない惨事になる。この関係は、どこか自然と人間との関係にも似ているように思えた。大きな泥流のような車の流れを見つめながら、私は、人の力では抗えぬ数々の災害や、先の見えないパンデミックの行方について考えていた。

かつて自分がその場所を歩いた記憶と重ね合わせるように、交差点の様子をぼんやりと見ていると、人々が出会い、別れ、それぞれの方向に散っていく過程がはっきりと浮かび上がり、「交差点」という場所が、このプロジェクトのテーマ「Farewell」と結びつく、象徴的なものとして立ち現れた。

私たちは、出会いと別れの繰り返しの中で、様々なことを感じ、学び、自己を形成してゆく。もちろん、今まで出会った人やその経験の全てを覚えているわけではない。かつては毎日のように共に過ごし、お互いの人生の変化によって、今では年に一度の挨拶しか交わさなくなった人を、突然強く思い出したりする。「ほら、あの人」と言われても、全く思い出せないこともあるだろう。きっと、忘れるという行為もまたプロセスの一部で、そこから生じた「何か」が小さな欠片となり、思いもよらぬ形で、私たちの中に残っているのかもしれない。

私が今書かんとしている音の根底には、私自身の経験が複雑に絡み合っている。(間接的な再体験もたくさんあり、これは本当に入り組んでいるのだと思う。)そこには、今は手放してしまい、しかしかつては非常に身近だった感覚などもある。いつか、どこかで振り返ってみたとき、もしかしたら何も残っていないかもしれない。いずれにせよ、どのような形であれ、「今」というものは、過去の膨大な集積としてここに在る。その過去から現在に至る積み重ねが、どのようになされてきたのかを想像するとき、新しいことに挑戦する力が湧いてくる気がする。

——2021年 Farewell – a million ways to say goodbye – akademie kontemporärカタログ冊子より(原文英語、筆者自身による和訳)

◉13人のパフォーマーとトロンボーンのための《近代的な身体をつくる音Klänge, die den modernen Körper herstellen》(2021)

初演:2021年7月3日 Gerüchte  Konzert und Installation (Alster-Bille-Elbe PARKS, Hamburg)

16世紀に伝わった宗教音楽を除けば、ヨーロッパの音楽が本格的に日本に入ってきたのは、19世紀末のことである。当初、この音楽は芸術としてというよりもむしろ、「近代的な身体」を形成するための音として導入された。伝統的な武術において、戦いの行方はしばしば個人の能力に左右される。しかし、近代戦においては、個々の判断が求められることは少ない。求められるのは、整然とした集団の中で命令に従い、定められた個々の役割を一斉に果たすことである。その結果、個人の力では決して生み出せないような圧倒的な効果が生じた。金管楽器は、日本以外のシルクロード各地でも用いられてきたが、日本では仏教儀礼にも戦の合図に使用されることはなかった。それが使われるようになったのは、19世紀末に西洋式の軍楽とともに導入されて以降のことである。

——2021年 Gerüchte – Konzert und Installationプログラムより(原文独語、筆者自身による和訳)

◉バリトン、テナーサクソフォンとアコーディオンのための《im Kreis, um uns》(2020/21)

英題:in the circle, around us
初演:2021年11月1日 Für Aller Seelen 3 (聖コロンバ教会ケルン大司教区美術館礼拝堂、ケルン)

「実にそれは生死(いきしに)の問題だ。」

この特別な種類の緊張感を、本当に久しぶりに感じている。前回は2011年——自然災害のあとの、放射能への不安の中にいたときだった。あのとき、私は生まれて初めて行き場のない恐怖を経験した。

一年後に作曲したのは、全ての命に等しく敬意を表すオマージュだった。それは、災害で命を失った人々だけではない。当時、危険地域から避難する人たちが、家畜たちを置き去りにしたという事実は、今日の社会のヒエラルキーの縮図のように思えたのだった。

それが、私の作曲家としての最初の作品だった。

「彼は、あなたのためを思ってるんだよ。」

どれほどの人が、「傷つける意図のなかった言葉」によって傷ついたことがあるだろうか。私たちの周囲の物事は、少しずつ変化していく。私たちがすでに、「適切ではない」と気づいている言葉がある。それと同時に、似たような作用をする新しい言葉も生まれてくる。おそらく私たちは、何か似たようなことを何度も繰り返しているのだろう。けれども、それは決して、まったく同じことではない。

「〔……〕 2011年当時に比べると、太陽光発電を中心として再生可能エネルギー(再エネ)の発電量が増えていることは間違いありません。しかし、これだけでは必要な電気の量には足りません。実は、震災後、全国の電力会社の火力発電所では「炊き増し」、つまり、これまでより多くの燃料を使って多くの電気をつくり、原発の不在分をまかなっているのです。

これらは、私たちが支払う電気料金に影響を与えています。火力発電に必要な燃料の価格は震災前よりも低下しているものの、火力発電自体が増加したこと、また再エネの買い取りによる負担(再エネ賦課金)などによって、電気料金は上昇しているのです。〔……〕」(2018年経済産業省ホームページより)

原発事故からわずか一年後には、被災地のものを食べて地域を助けよう、という風潮が広がっていた。「助ける」というその言葉の響きがあまりに美しかったために、私は自らの不安や恐れの感情を、多数派の前で言葉にすることができなかった。「みんなが同じ方向に進まなければならない」という空気が漂うとき、私は直感的な恐れを抱く。それは、祖母の世代が私たちに語ってくれたある経験を思い出させる。竹内浩三(1921-1945)は、当時の国家の期待に従い、「勇敢に」戦死した。しかし、彼の心の内にあった本当の弱い部分は、戦地から姉へひそかに送られた小さなノートに記されていた。少なくとも私は願っている——この社会で、もはや「国のために死ぬこと」が名誉とされることのないように。

「〔……〕

白いりんどうの花が

狂気のようにゆれておった

白いりんどうの花に顔を押しつけて

息をひそめて

ぼくは

切に望郷しておった」

——2021年 Für Aller Seelen 3プログラムより(原文独語、筆者自身による和訳)

《im Kreis, um uns》スコアより抜粋

◉3人のパフォーマーのための《美しい自然と、戦闘機とSchönheit der Natur, Kampfjet》(2019/2023)

初演:2019年12月6日 Zukunft  Briefmarkenopern(ドレスデン音楽大学コンサートホール)

花鳥諷詠とは、近代(日本ではおよそ1868年から1945年頃)に形成された俳句における精神で、今なお強く息づいている。その最も重要な規則の一つは、句を読む際に、厳密に分類された季節を象徴する言葉を用いることである。

——2019年 Briefmarkenopernプログラムより(原文独語、筆者自身による和訳)

◉オーケストラのための《けものたち、わらい、哭き、あそぶ》(2019)

独題:Tiere lachen, jammern und spielen
初演:2019年12月10日 Werkstattkonzert mit dem MDR Sinfonieorchester(ドレスデン音楽大学コンサートホール)

諸行無常とは、仏教の概念の一つである。日本では特に学校教育の中で、まさにこの言葉から書き出される有名な叙事文学『平家物語』を学ぶことが、この言葉と出会う機会となることが多い。

諸行無常が意味するのは、この世のあらゆるものが絶えず変化し、同じ瞬間が二度と訪れないということである。

ものごとの変化を発展として捉える弁証法と比べると、この概念には、うつろいゆくものの儚さという性質が含まれている。しかし私は、その絶え間ない変化の中にこそ、等しく持続し続ける時間の流れを強く感じるのである。

この曲は、十二世紀の絵巻物《鳥獣人物戯画》を出発点としている。この絵巻の中にもまた、諸行無常を思い起こさせるような大きな時間の流れが見て取れる。そして、動きのある筆致によって生き生きと描かれた動物たちの、何ものにも束縛されない自由さに、私は深い感銘を受けるのだ。

——2019年 Werkstattkonzert mit dem MDR Sinfonieorchesterプログラムより(原文独語、筆者自身による和訳)

◉バスクラリネットソロのための《阿留辺幾夜宇和 (Arubekiyouwa – As it should be)》(2019)

同編曲版(2019)
for Bass Clarinet and Alto Saxophone
初演:2019年3月15日 MISE-EN_PLACE Curator Series (MISE-EN_PLACE Bushwick, New York)

“人は阿留辺幾夜宇和と云七文字を持つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此あるべき様を背く故に、一切悪きなり。”

明恵上人 (1173-1232) の残した阿留辺幾夜宇和という言葉は、人間としての理想像を掲げるものでもなく、逆にありのままで良いとするものでもない。自らの置かれている立場を見定め何をどうすべきか考えよ、というメッセージである。

身分制度の無くなった今でも社会のヒエラルキーは存在しているし、従来では考えられなかったような職業が成立し生き方は多様化している。

”我は後世たすからんと云者に非ず。ただ現世に先あるべきやうにてあらんと云者なり。”という言葉も現代に生きる私に少しも古くなく響いてくる。

自身は僧侶としての阿留辺幾夜宇和を厳しい姿勢で問い続けた彼の素朴な一面が感じられるひとつの和歌がある。この直球的感嘆もまた一種の阿留辺幾夜宇和ではないだろうか。

あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月

(*この作品は 2019年3月にニューヨークで初演されたバスクラリネットのための独奏曲をアルトサクソフォンとのデュオに書き改めたものである。)

——2019年モノドラマ 花 – Hanaプログラムより

◉9人のパフォーマーとピアノのための《ああ ヒロシマ  〔……〕〈ヒロシマ〉といえば〈ああ ヒロシマ〉と やさしいこたえが かえって来るためには わたしたちは わたしたちの汚れた手を きよめねばならない/栗原 貞子(1913-2005)Ah, Hiroshima […] That we may say “Hiroshima”, and hear in reply, gently, “Ah, Hiroshima”, we first must wash the blood off our own hands. / Sadako Kurihara (1913-2005)》(2018)

初演:2018年12月20日 MehrLicht! MusikTheaterWerkstatt  Briefmarkenopern(ドレスデン音楽大学コンサートホール)

暗闇に光が灯るのがみえたら、私たちは安心するだろう。

でも、どうにもつらいとき、誰かのたった一言に心底救われる。これも光だ。

暗闇でも誰かの助けや励ましがあったら生きていけるかもしれない。

反対に、とても明るいけれど誰も助けてくれない場所で生きていけるだろうか。

核兵器という大きな負のエネルギーに打ち勝つには、たくさんの人が一緒に手をつないで立ち向かっていかなければならないのだ。

私は、”ヒロシマ”や”パールハーバー”、”南京大虐殺”を言うかわりに、あの戦争でつらい思いをして亡くなっていった人や、あるいはこれから手を取り合っていけるかもしれない人々の名前を言いたい。

〈ヒロシマ〉というとき
〈ヒロシマ〉というとき
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくこたえてくれるだろうか

〈ヒロシマ〉といえば〈パール・ハーバー〉
〈ヒロシマ〉といえば〈南京虐殺〉 
〈ヒロシマ〉といえば 女や子供を 壕のなかにとじこめ ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑
〈ヒロシマ〉といえば 血と炎のこだまが 返って来るのだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉とやさしくは
返ってこない
アジアの国々の死者たちや無告の民が
いっせいに犯されたものの怒りを
噴き出すのだ

〈ヒロシマ〉といえば 
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしくかえってくるためには
捨てた筈の武器を ほんとうに 捨てねばならない
異国の基地を撤去せねばならない
その日までヒロシマは
残酷と不信のにがい都市だ
私たちは潜在する放射能に 灼かれるパリアだ

〈ヒロシマ〉といえば
〈ああ ヒロシマ〉と
やさしいこたえが
かえって来るためには
わたしたちは
わたしたちの汚れた手を
きよめねばならない 

栗原 貞子(1976)

——2019年ACOUSTICLUB VOL.4プログラムより(2018年MEHRLICHT!MUSIKプログラムの独語原文からの和訳)

​​◉4本のフルートとピアノのための《三つの嘘とひとつのまこと》(2016/2017)

初演:2017年3月15日 原田敬子門下作曲作品発表会(東京音楽大学J館スタジオ)

アサーティブネスって聞いたことがありますか?

それは、「私」を主語にしたメッセージです。しなやかに「私の気持ち」を伝えて表現しようというコミュ ニケーションのスキルなのです。

さあ、自分の気持ちを深く素直に感じて、始めてみませんか、あなたも素敵なコミュニケーションを!

——2017年原田敬子門下作曲作品発表会プログラムより

◉独奏アコーディオンのための《陸を泳ぐ魚》(2015)

​​英題:The fish swimming on land
初演:2015年11月12日 ヴュルツブルク音楽大学×東京音楽大学 国際交流~創造と発信(東京音楽大学100周年記念ホール)

人間は「大切なもの」を膨大に持っている。それらを失うたび、人は嘆き悲しむ。そして、それらを守ろうとしてまた数えきれない道具を利用する。

水に生きる魚が何か失うとすれば、自らの命ひとつだけ。陸に上がった魚は力の限りもがき、やがて運命を受け入れる。

自然をないがしろにして、他者を支配し利益を追求する人間が、かたい鎧で自らを守ろうとすればするほど、身ひとつで生きるものの潔い強さと美しい様が際立つ。

人間は道具によって海に深く潜る力を手に入れたが、魚は今日も身ひとつで泳いでいる。

——2015年ヴュルツブルク音楽大学×東京音楽大学・国際交流〜創造と発信プログラムより

◉ソプラノとオーボエ、チェロ、ハープのための《竹内浩三の詩による楽書き歌曲》(2015)

初演:2015年5月22日 第13回学長賞受賞作品選考演奏会(東京音楽大学100周年記念ホール)

同編曲版(2015)
~ソプラノとクラリネット、ピアノのための~

竹内浩三という人を知っているだろうか。

さまざまな詩人の“反戦詩”をまとめた本に彼の代表作とされる「骨のうたう」も入っている。しかし私にとって彼は“反戦詩人”ではない。明確な反戦の考えを持っていたとは感じられないのだ。死を怖がるというのは人間としてふつうのことであり、そんな気持ちを秘めていたのは彼だけではなかったはずだが、ただ、彼は時代の色に染まらず、素直な心を無くさなかった。

それゆえ彼の詩や言葉はもし当時の世間に知られていたら咎められてしまったようなものであろうし、現代人に対しては「戦争はいけない」と訴えてくる力を持つ。

浩三は、早くに両親を亡くしたものの裕福な家に生まれ育った。「金がきたら」は、日大芸術学部に在籍し映画監督をめざす学生であった彼が、親代わりの姉あてに金を無心する手紙に添えた、遊びのような詩である。真の困窮ではなく気楽な金欠。同じく親の力で学生生活を送る身である私は、まずはこの詩によって彼への親近感がぐっと高まり、他の詩もよりリアルに響いてくるようになった。

「金がきたら」が書かれたのは1940年の9月、すでに日本は太平洋戦争へと通じる日中戦争を始めていた。しかし、彼の詩には戦争の影は見えない。まだ国は戦場にはなっておらず今と変わらぬ日常が人々によって営まれていたことが彼の詩から読みとれる。

しかし結局彼も1942年10月、それまでの彼の詩とは真逆の“勇ましい”手紙を残し、入隊した。たくさんの若者たちが、それぞれの思いを心に秘めながら、いつのまにか大きな渦にのまれていったように。

今、私たち若い世代にとって戦争とはもはや切り離された時代のものだ。戦後の貧しさやひもじさも過ぎ去った時代のもの、これから来るものではない、と思える。しかし現在も世界では戦争も貧困も起きている。あの時代はつづいているのではないか。

私事ですがこの初演の2日後に24歳になります。23歳で戦死した彼の言葉をとりあげるなら「今しかない」という思いを持って取り組みました。思いもよらず、同い年であるうちに初演の機会をいただくことが出来てたいへん幸せです。 この作品に関わる全ての人に感謝の気持ちを述べたいと思います。ありがとうございます。

*楽書き(らくがき)という言葉は、よしだみどり編『竹内浩三楽書き詩集』からとった。

——2015年東京音楽大学第13回学長賞受賞作品選考演奏会曲目解説より

◉オーケストラのための《誰も私の話をきかない、私は誰の話もきかない》(2014/2018)

初演:2014年12月19日 Composer+Performer(東京音楽大学J館スタジオ)

人はわかり合うことなどは出来ないものだ、だからこそ、人と親しくなるというのは、自分とはちがう考えに耳を傾け、ちがう感情を尊重することなのだが、しかし成熟していない人間たちにとって、それは容易なことではない。「あなたが前に言っていたこととは違うな」「私はそういうつもりで言っている訳ではないのだけど」そんな当たり前のやりとりも出来ないような関係は不安や絶望を生む。 一方的な感情の爆発、ハラスメントなどによってアンバランスな関係や緊張が生まれる。

ものごとの本質というのは、普段の生活の中ではなかなか見えてこない。しかしどこかにその「本質」が如実に現れている箇所というものがあり、それを手掛かりにしていくと自分自身をも顧みる機会ができる。このタイトルの「私」は 元々は嘲笑の対象として表現するつもりであったが、もしかすると作曲者である私自身にも潜んでいるのでは、と考える。

完全に理解し合うことはできないが、世間的おとなは妥協や柔軟性、そしていつも平等に流れる時間を味方につけて、他者とうまくやっていこうとしているかにみえる。噛み合っていない部分をなんとか噛み合わせようとして。

——2014年Composer+Performerプログラムより

◉2本のホルン、トランペット、トロンボーン、テューバのための《組まれた手に朝陽は映え》(2013)

初演:2013年10月31日 音大作曲科交流演奏会2013「金管アンサンブルの極み」(東京音楽大学100周年記念ホール)

「わたしは百姓として生まれ、百姓として死ぬだろう。」

ジャン=フランソワ・ミレーの言葉です。

芸術家として、とは別に、ひとりの人間としての基盤をしっかりと持っている生き方に、私は共感に似た憧れを持っています。

自然主義でバルビゾン派の一人として知られていますが、単に自然を賛美した写実だけではなく、そこに生活する農民の内面に目が向けられており、彼の思想が深く感じられます。

彼の作品にある明暗は、絵画技法的なものだけでなく、農民として生きることの厳しさに立ち向かう力強さだと私は思います。

この曲は、闇から始まります。

夜の時間の流れや空気には、不思議さや不気味さを感じることがあります。

私たちはコンクリートにかこまれ、自分に心地よい温度が簡単に得られますし、昼間と同じように明るい空間が作れます。

ミレーが描く農民たちは、夜をどのように感じていたのでしょう。

動物や植物には、寒さをしのぐ家も少しの灯りもありません。

持っている物が少ないほど、太陽が昇る歓びは大きいと思うのです。

——2013年音大作曲科演奏会プログラムより

◉ホルンとチェロのための《ぼくはぼくでよかった、と思う》(2013)

初演:2013年7月15日 学内オーディション合格者によるソロ・室内楽 定期演奏会(東京音楽大学100周年記念ホール)

百歳を超えてなお詩を書き続けているまど・みちおの詩の世界に惹かれ、感じたものをタイトルにこめました。

まどさんの詩に登場するもの達はみな生きる喜びを表現しています。ぞうさんは、ながい鼻をからかわれてもかあさんと一緒だからと胸を張ります。くまさんは自分が誰だか忘れるほど長い冬眠から覚めて「くまであること」を思い出したときに、よかったなと言います。ヤギさんは、届いたお手紙を食べてしまってもちっとも悪びれません。

でも、私には簡単にはできないこと。identityを主張したい一方で、自分の中で認められない部分があります。

まどさんの詩のようにシンプルな世界にあこがれなから、さまざまな葛藤を抱えているのです。

最後に、この曲をご指導くださった糀場先生と、演奏者のお二人に感謝申し上げます。

——2013年東京音楽大学学内オーディション合格者によるソロ・室内楽定期演奏会プログラムより

◉独奏ピアノのための《いのちによせて》(2012)

初演:2012年11月6日 糀場冨美子作曲科教授門下発表会(東京音楽大学大J館スタジオ)

音楽を通して社会と関わっていきたい、と以前から思っていました。同時に、その難しさも感じています。結局は自分の興味のある分野で関わっていくしかなく、私の場合それは「命」です。
たとえば、人間の都合の良いように、時には愛され、また時には使われ、そして殺されてゆく動物たち。そこには、人間社会での命の格差も映し出されていると感じます。
私は生まれつき手に障害があるので、差別され、切り捨てられる命について他の人より敏感なのかもしれません。
これは私のライフワークとなるでしょう。
音楽でどのように伝えていったら良いのか、模索しているところです。

——2012年糀場富美子門下作曲作品発表会プログラムより

音楽を通して社会と少しでも関わっていきたい、と考えてきた私が、2011年の震災後に模索しながら書いた作品です。
原発事故のあと、家畜やペットたちの過酷な運命もたくさん見聞きしました。人間の都合で生み出され、時に愛され、利用され、不要になると見捨てられてゆく動物たち、それは人間社会そのものも映し出しているのではないか。日々、社会で起こる出来事を通して「命には格差があること」を感じ、心が痛むのです。
この曲はすべての命を平等にとらえ、ひとつひとつに敬意を示す、オマージュです。
この曲はすべての命を平等にとらえ、ひとつひとつに敬意を示す、オマージュです。冒頭は特に、和音を命の重みと感じて響かせてほしい。複雑に感じる響きも、実は馴染みのあるシンプルな和音から構成されています。たったひとつの細胞から発生していく生命の不思議さや面白さをポリフォニックな部分に重ねました。そして音楽はさらに自由に動き出し、いのちの力強さを表現します。拍を数えることだけにとらわれず、自由なリズムと流れの中にあるエネルギーを感じてほしいです。

——2015年コンサート・ピース コレクション(カワイ出版)「作曲者から」より

アイキャッチ画像 ©︎Ayaka Imamura