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◉《はーもないぞう》(2015)
初演:サラマンカホール電子音響音楽祭「響きあうバロックと現代」JSEM 第19回演奏会(2015年9月12日、岐阜サラマンカホール)、今村初子(アシスタント)、大久保雅基(アシスタント)
岐阜県サラマンカホールに建造された「辻オルガン」のために書かれた作品である。辻オルガンは1994年に製作された古いスペイン様式のオルガンであるが、音色はスペイン式、ドイツ式に対応しており様々な音楽が演奏できるようになっている。調律はヴェルクマイスターの第3調律法をベースに、製作者の辻氏によるアレンジがなされている。これは現在のコンサートピッチよりも低い。
また、現代のオルガンの鍵盤とストップはエレクトリック・アクションのものが多いが、辻オルガンは全てトラッカー・アクションである。これは、鍵盤と音色を変更するストップが電子制御ではなく、演奏者が接触する部分と内部が繋がっている機械式であるということだ。つまり、オン・オフの制御だけではなく、半開にすることができ、パイプが持つ倍音を演奏することができる。《はーもないぞう》はそのような特徴を取り入れ、辻オルガンのみで演奏することができるように作曲された。
この作品にはオルガニストが登場しない。通常のオルガン曲で音色を変えるストップを操作するアシスタントのみが2人登場するだけだ。まず準備として、ストップの足鍵盤と第1、第2、第3手鍵盤を連結するカプラーを全てオンにする。そして、足鍵盤の1オクターブの範囲の白鍵と黒鍵に重りを置き、音色のストップを引くだけで音が鳴る状態にする。
譜面台に譜面を置き、さらにその中央には音の出ない視覚的にテンポを認識できるメトロノームが置かれる。2人のアシスタントは、音色を変更するストップの数から設定された拍数でカウントしながら、指定されたストップを操作する。ストップの操作は、半開で鳴る倍音を強調させるために、拍を数えながらゆっくりと押し引きする。
◉《sd.mod.live》(2018-2019)
初演:第21回日本電子音楽協会定期演奏会「詠像詩」(2018年3月6日、浦安音楽ホール ハーモニーホール)、関聡(スネアドラム)
(初演時のプログラムノート)
本作は打楽器奏者による即興演奏の映像とスネアドラムを使用したオーディオヴィジュアル・パフォーマンス作品である。演奏者の即興演奏による連続的なリズムと、スキップやループを加えた断片的なリズムを融合させている。演奏された音を音源として、演奏の所作を映像としてレコーディングし、それをサンプリング素材としてコンピュータで演奏を行う。生演奏には人間の生み出す連続的なリズムが含まれる。そこにスキップやループなどの処理を施しデジタルの断片的なリズムを加える。2つの異なるリズムが融合された音と映像は、それらが互いの枠から脱しようと抗う様子にも見えるだろう。
スネアドラムを演奏する機構は、ヘッドにトランスデューサーを貼り付け振動のデータを再生するものである。これにより擬似的な振動が起こり反対側のヘッドにも伝わって胴体が共鳴し、実際にスネアドラムが演奏されているように聞こえる。
振動のデータは撮影時に録音した。スネアヘッドの中心にマイクロフォンを向けて集音。マイクロフォンにはSENNHEISER MD421MK2を使用。この機種は一般的にタムドラムの録音に使用されることが多いが、膜振動の倍音である高音域よりも、揺れの成分である中低音域を使用する目的が強いのでこのマイクを使用した。
マイクロフォンで収録した音をスピーカーで再生することは一般的な聴取方法であるが、実際に演奏される音に比べて演出的に聞こえてしまう。マイクロフォンが楽器の側にセッティングされているということは、マイクロフォンと同じ位置に耳を置いて聞いているのと同じ状況である。そして複数のマイクが使用されている場合は、それぞれの位置から聞こえる音を混ぜた音となり、実際の楽器から聞こえてくる音とは異なるものとなる。そこで本作の機構を用いることにより実際のスネアドラムが演奏され、実際の演奏で発せられる音に近い音の再現が可能となる。
◉《太陽と月のように照らし続けて》(2019)
初演:第二回 絶頂(2019年8月17日、宮城野区文化センター パトナシアター)、川又明日香(第1ヴァイオリン)、瀧村依里(第2ヴァイオリン)、飯野和英(ヴィオラ)、山澤慧(チェロ)
私達の生活にスマートフォンやPCがあることは日常的な風景になりました。友人とのコミュニケーションに使用したり、知りたい情報を検索するなど、私達の生活に欠かせないな有益なものとなっています。しかし一方でプライバシーを脅かす存在となっていることも懸念されています。2013年にアメリカ国家安全保障局(NSA)の元局員エドワード・スノーデンは、NSAによる国際的監視網を告発しました。これによるとNSAはPRISMという検問システムによって電子メールやチャット、電話、ビデオ、写真、ファイル転送などを自由に監視できるそうです。私達がしているプライベートな会話はパブリックにもなりうる状況にあります。本作では意味のある情報、意味を持たない情報が演奏によって公開され、鑑賞者はそれらの情報を監視できる視点を持ちます。弦楽四重奏はタブレット端末を、12人のパフォーマーはモバイル端末を楽譜にし、コンピュータでリアルタイムに生成された演奏情報が各端末へ送られ、それに従い演奏します。歌詞は予め決められており、カフェやレストランにてスマートフォンを使って録音された一般人の会話が元になっています。
◉《トリチャン大好き倶楽部》(2023)
初演:JSSA音楽祭2023(2023年8月11日、めぐろパーシモンホール 小ホール)、グリーンルームプレイヤーズより:松岡麻衣子(ヴァイオリン)、亀井庸州(ヴァイオリン)、迫田圭(ヴィオラ)、北嶋愛季(チェロ)
本作は制御できない他者による音楽生成によってリアルタイムに生まれた音符を用いて、楽器による生演奏を行うパフォーマンスである。ボイドという鳥の群れを模倣するシミュレーションをスクリーンに表示し、赤い線がボイドの上をスキャンすることで音符が生成される。スクリーン上のボイドの縦位置が楽器のピッチにマッピングされている。そのためこの作品では音楽生成の構造のみが作曲されており、音楽的内容は制御できない他者に委ねられる。オペレーターによって操作可能なパラメーターは、ボイドの増減、速度、縦線と横線のそれぞれの増減と速度である。オペレーターによるそのパラメーターの操作がパフォーマンスの展開を決定する。楽譜には動的楽譜システムが用いられており、コンピュータでリアルタイムに生成した演奏情報を、タブレット端末にアニメーション楽譜として表示させることができる。スクリーンとタブレット端末には異なる映像が表示されており、そのタイミングは映像のディレイによって調整されている。
◉《私達はどのようにして私達であるか》(2024)
初演:2024年1月27-28日、宮城野区文化センター パトナシアター、千葉里佳(平田クワ 役)、川畑えみり(森愛オガ 役)、タマミジンコ(演奏)
新型コロナウイルスの禍中、舞台に登場する役者や演奏家などがマスクをするべきかどうかの議論が生まれた。舞台というのはパフォーマーが演じるフィクションを楽しむものだが、マスクを付けていることでコロナ禍という現実を突き付けられ、目を覚まさせられる。それならば、パフォーマーが完全に隔離されて舞台に登場せずに演じれば、安全になるのではないかという想像をしたのが本作が生まれる切っ掛けである。
オンラインのビデオ通話が普及し、仕事上でのテレワークやテレカンファレンス、プライベートでのオンライン飲み会など、それまでは同席することが当たり前だった行為も離れた場所でも可能になった。移動する必要がなくなる一方で、対面で得られる相手の全身像、ジェスチャー、匂い、声色や音量などは失われたり曖昧になったりする。しかし現実よりも解像度の低い映像や音声でも、情報伝達はできるということは実感できた。
これらの舞台と日常生活における代替されたコミュニケーション手段は、自分の中でVTuberの配信文化と繋がった。諸説はあるがVTuberとしての存在は2016年頃から登場している。VTuberは一般的にはモーションキャプチャーやWebカメラのトラッキング等を用いてアバターのモーションを動かすことで、キャラクターになりきって配信をする。アニメにおけるキャラクターでは普通、例えばドラえもんは水田わさびによって声が当てられるが、鑑賞者は水田わさびが話しているのではなく、ドラえもんが話していると想像して鑑賞する。しかしVTuberはアバターと、それを操作する人物のキャラクターを2重に捉えながら鑑賞するのである。この新しい文化の特殊な鑑賞構造に惹かれ、作品化することを決めた
VTuberを含めた動画配信文化のコンテンツに特徴的な要素はフリー素材が多用されることである。配信者によってはオリジナルのグラフィックや音楽を制作して動画を作る者もいるが、多くはフリー素材を用いて賑やかさを増やす演出に用いている。今作もその文化の慣習に則りフリー素材を多用した。私は作曲家であるが、映像内の音楽や効果音でさえ作曲せずにフリー素材のものを使用している。新たにオリジナルを作曲するよりも、多くの動画や広告に使われ、多くの人が耳にしたことのあるフリー素材の音楽を使用するほうが、動画配信文化のイメージを作るためには適していると判断したからである。
本作では舞台上に人物は一切登場しない。映像の中にいるアバターの動きや話す内容が人間によって演じられるものである。テレカンファレンスは対面よりも人間性が失われるが、本作ではそれよりも更に限定的な要素に絞られている。そのような状態で行われる舞台からいかに人間性が取り出せるのだろうか。一方で舞台上には音楽を奏でる存在がおり、それは人間ではなくミジンコである。人間によって演じられることが当たり前の舞台で、一切人間は登場せず、ミジンコのみが舞台に上がっている。VTuberのキャラクターが人間そのものではなく他の存在になろうとすることと同じく、テクノロジーによって人間ならざるものによるパフォーマンスが行われているように見えるような装置を開発した。