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「私が」作曲をすることの意義
——音楽の原体験や小林さんが作曲家を志したきっかけについて伺えますか?(小島)
小林夏衣さん(以下、小林):私の両親は音楽家ではなかったものの文化的な人ではあり、母は油絵を勉強し美術の先生をやっていましたし、一日中FMラジオがかかっているような家でした。通っていた幼稚園も音楽のアクティビティが盛んで、みんなで歌ったり、保護者が有志で結成した和太鼓チームの催しなんかもありました。
私は四歳の頃から幼稚園で先生がピアノを弾くのを真似したり、祖母が近所の人からもらってきた電子ピアノで「ねこふんじゃった」をとにかくひたすら弾いたりしていたそうです。それで、母がつい口を滑らせて「習いたい?」と聞いたら、私はさも当然という感じで「うん、習うよ!」と答えたらしいんです。母自身は、子どもの頃に厳しい先生のもとで六年間ピアノを習ってもあまり上達しなかった経験から、自分の子どもにはあまりやらせたくなかったようなんですね。それで言ってからすぐ、しまった、と思い「やっぱり日本の楽器はどう?三味線とか。」なんて聞いたそうなんですが、私が「みんながやってるピアノが良い」と言うので、結局ピアノを習えることになりました。
私は、左手に末端低形成症という障害があり、真ん中三本の指が欠損、小指は少し変形しています。それで、母も一生懸命に聞いて回ってくれたんですが、先生がなかなか見つからず、結局二年待ち、六歳から習い始めました。小学校のときは「ピアニストになりたい」と言っていて、中学・高校でも将来は音大に行きたいという気持ちがありました。ただ、音大に進学するとなったときに色々と考えた結果、ずっとやってきたピアノではなく、作曲科に行こうと決めました。たしかに、左手に障害があることで演奏の機会を得られた面もありましたし、そうした演奏を求める人たちもいました。障害のあるピアニストとして活動していくことも一つの道だと思いましたが、私は自身の障害とは一見して無関係なところに進んだわけです。「作曲家でもピアノを弾く人はいっぱいいるし」という思いもありました。
——そうすると、当初から「こういう作曲家になりたい」というモデルがあって音大の作曲科に進学されたわけではないですか?(小島)
小林:当時は、自分がこんなに作曲することになるとは思っていなかったし、学部生の頃も「私は作曲家です」と進んで言うことはなかなかできませんでしたね。とはいえ、まずはピアノを弾くという視点から作曲の理論を学んで、「進学して本当に良かった」と思いました。演奏者の視点だけでは分からなかった曲の構造や、それを作曲家がどう作ったかということが体系的に見えてきたからです。ピアノという自分が元々やりたかったことと、大学での作曲の勉強が自然に繋がっていきました。ただ、入学した当初は、ピアノに比べて、そもそも「私が」作曲をすることの意義が上手く見出せないでいました。
——そのご自身が作曲することの意義については、どのように考えを深められたんですか?(原)
小林:論考にも少し書きましたが「社会との繋がり」が、その意義になるのではないかと思いました。これは左手のことにも関係しているんですが、私は中学生の頃から、「平等性」というテーマについて考えてきました。例えば、ピアノのコンクールに出るとき、事前に審査員の先生に「障害があります」と伝えることもできるのですが、私はそれを言わないという選択をして、その中で成功体験もありました。もちろん、それは自分の力だけではなく、周りの環境や支えによるところもあったと思いますが、当時の私は「頑張ったら何でもできる」ということを信じたかった。「頑張ればできるのだから、みんな平等なのだ」と。でも次第に、それは違うのではないかと思うようになりました。
考えが変わったきっかけの一つが、高校生のときに書いた卒業論文です。私の通っていた中高は、総合教育に力を入れていました。私は「障害のある人と音楽」というテーマに取り組み、そのなかで知的障害のある子どもに音楽のレッスンをしたんです。おそらく当時は、「みんな頑張れば、やりたいことはできる」ということを、自分自身で証明したかったのだと思いますが、私は「これをやれば、これができるようになる」「次はこれができるようになる」という結果を強く求めてしまい、なかなか上手くいかなかったんです。そこで、その子が興味を持つものや、好きな曲をもっと取り入れるようにしました。その子は、できるようになることばかりを求められて、レッスン自体が楽しくなかったのだと思います。本人が楽しいと思えることを重視するようにしたら、結果的に、できることも増えていきました。そのときに「障害のある・なしにかかわらず、人にはそれぞれ得意・不得意がある、楽しいと思えることと思えないことがある、その点こそが平等なんじゃないか」と考えるようになりました。つまり、「平等ではないということが平等である」というか。
この問いに、はっきりした答えが出たわけではありません。そこには多くの矛盾があって、その矛盾自体がリアリティなのだと思っています。いま、作品のなかで社会と関わるテーマを扱うときには、高校生の頃のように素朴に「これを証明したい」「この結論に導きたい」というのは難しいと思っています。それよりも、ある状況を観察し、そのあり方をどう作品に反映していけば良いだろうか、という風に考えています。
——その平等性というお話は、論考で書いてくださったように、小林さんの作品における他の領域のアーティストとのコラボレーションの話に関わるテーマですね。コラボレーションについてはのちほど詳しく伺いたいです。
20世紀以降、多くの作曲家が社会的な問題を扱ってきましたが、音楽は絵画や映画に比べて、平等性や戦争と平和といったようなコンセプトを表象しにくい芸術ではないでしょうか。というのも、音楽には特有の抽象性があるからです。その点は、どのように思われますか?(小島)
小林:その抽象性という論点に関しては、ずっと悩んできました。特に日本にいた頃、「ノイエス・ムジークテアターNeues Musiktheater」(「新しい音楽劇 New Music Theatre」)と出会う前、私の作曲のフォーマットは、舞台に演奏家がいて「音」 を演奏するというもので、その形式に限界を感じていました。なんらかの現象を音楽で表現したいとなったときに、それをまず感情に翻訳して、それから音楽にしていく。その過程で、どうしても抽象的になってしまう。
これは《歌われざる歌》(2022-23)という作品のプログラムノートでも触れていることですが、「人類みな兄弟」という歌詞を持つベートーヴェンの第九交響曲の「歓喜の歌」が、ヒトラーの誕生日を祝うために演奏された映像が残っています。「言葉が伝わらなくても音楽で分かり合える」ということがある反面、それが上手くいかない、危険な場合もありますよね。その映像を観たのはドイツに来てからのことですが、音楽の抽象性が持つ難しさについてはずっと考えており、そのことが私が音以外のものも視野に入れた表現を模索することに繋がったと思います。
「良い曲を書かなければならない」というプレッシャーのない環境
——ドイツに行かれたのは修士課程の頃でしょうか?(小島)
小林:そうです。修士課程に進学する前年、私が通っていた東京音大とドイツの大学のあいだでの交換留学のようなプログラムで初めてドイツに行く機会があり、「また来たいな」と思ったんです。それを当時師事していた原田敬子先生に相談したところ、ダルムシュタットの夏季現代音楽講習会に参加するように勧めてくださったんです。ダルムシュタットというと音楽史の教科書のなかの場所というイメージがあったので、自分が実際に行く場所だという発想すらなかったんですが。講習会では個人レッスンも受けることができました。なので、後々ドイツに留学することも視野に入れて、レッスンを受ける先生方の曲は事前に聴いてから臨みました。当時の私に響いたのは、マーク・アンドレやレベッカ・サンダースの作品でした。結局、そのときの縁でマーク・アンドレが教えているドレスデン音楽大学に留学することになりました。
ダルムシュタットでは連日、とてもじゃないけれど全部は行ききれないほど、たくさんのコンサートがありました。正直にいえば、こんな作品が演奏されるのか、と驚くような体験もいっぱいあったんですが、歴史や誰かの評価というフィルターによって選別されていない、同時代の、ほとんどがその年に書かれた作品をたくさん聴くことができるということ自体が、とても生き生きしていると感じました。その場限りで忘れ去られてしまう作品が大半ですが、そうした膨大な数の作品がいちいち評価されるのでもなく、本当に一瞬の出来事のように、ただそこに存在している。そういう場が成立すること自体、資金面も含めた土台があるからこそできることであり、私はその環境を「自由だ」と感じました。私は、どちらかというと周囲の規範に囚われやすいタイプの真面目さを持っていて、先生の期待にも応えようとする性格なんです。だからこそ、「良い曲を書かなければならない」というプレッシャーのない環境が魅力的に感じられたのだと思います。
——実際にドイツに行ってみて、大きな変化がありましたか?(小島)
小林:日本では、子どもの頃から色々な経験をさせてもらい、やりたいことをやらせてもらってきましたし、自分でもやりたいことを選んできたつもりでした。ただ、それが本当に自分で意識的に選んだものだったのか、それとも、環境のなかで自然とその方向に行ってしまったのか、分からないという感覚がありました。ダルムシュタットに行くという選択も、いま振り返ると、最初から強く自分で決めたというよりは、先生に相談して「行ってみたら?」と言われ「じゃあ行ってみよう」という流れでしたし。
ドイツに来てからは、だんだんと「自分の選択」ができるようになった気がします。マークについてドレスデンに行くという選択から始まり、だんだん「本当に自分が何をしたいのか」ということを考えられるようになりました。それは大きな変化でした。
「ノイエス」に含まれる批判的視点
——ドイツに留学し「ノイエス・ムジークテアター」と出会われたとのことでした。まず、定義付けから伺えますか?例えば、ジョン・ケージのようなシアター作品と、「新しい」シアター作品とでは、どういった違いがあるのでしょう?(原)
小林:まず、日本語で「シアター」というと、演劇的なものを想像しますよね。ドイツでも、私が「ミュージックシアターをやっています」と自己紹介すると、一般の方はミュージカルのようなものを想像されますし、演奏家や作曲家であっても、オペラのようなものを思い浮かべることが多い。とにかく「歌手がいる」という前提をもたれているんです。
実際に、「ムジークテアター」は大きな枠組みで、そのなかにたくさんのサブジャンルが存在しており、オペラもそうですし、ジョン・ケージのハプニングのようなものも、この言葉で括られています。では、そのなかで「ノイエス・ムジークテアター」が何かというと、その特徴の一つは音楽行為自体が作品の一部として組み込まれていることだと思います。つまり、演奏者が伴奏として舞台の外にいるのではなく、舞台上に存在し、その演奏行為が作品の一部になっている。なので、ケージやカーゲルがやっているものはとても近いし、実際に彼らの作品が「ノイエス・ムジークテアター」と呼ばれることもありますね。それから、こうした作品は伝統的な劇場への批判を含んでいますよね。「ノイエス・ムジークテアター」とは何かという定義づけや線引きは難しいんですが、私自身は「ノイエス」というのは、そういう批判的な視点を含むことだと理解しています。
——具体的な作品についても伺いたいです。先ほどお話にでた《歌われざる歌》には、プログラムノートにも書かれていたように、色々なバージョンがありますよね。編成や奏者の数も異なるし、ビデオのための作品もあります。このように色々なバージョンがある理由は何でしょうか。それから、ベートーヴェンとヒトラーのことを扱われたということでしたが、この作品で用いている手法やコンセプトについても伺いたいです。(小島)
小林:この作品は、バージョンというよりもシリーズとして展開しています。最初の作品は、バスフルート、コントラバスクラリネット、ヴィオラとチェロという四人の奏者のために書きました。手法としては、テキストを全部シラブルまで細かく分割して、それで音列を作るということをしました。これはいまでもよく使っている手法です。テキストは日本語、英語、ドイツ語、韓国語で書かれていて、翻訳ではなく原語を用いました。四つのテキストはそれぞれ全く違ったコンテクストを持っていますが、聴き手は音楽の背後にあるテキストを知らないので、結果的に四つが共鳴して綺麗な音楽に聴こえてしまうというのが最初のコンセプトでした。曲の途中では、奏者が音を演奏するのではなく、割り当てられたテキストを発話する場面もあって、その瞬間には「背後にテキストがあること自体」は垣間見えます。
それが最初の作品で、その後の二番、三番では、別のテキストも追加して、同じ音列に二つの全く異なるテキストを当てはめるといったこともしました。音楽的には成立しているけれども、それぞれのテキストの背後にあるコンテクストをみたときに、それがどのように考えられるのか、といったことを問題にしました。そこにビデオも加わり、背後にあるテキストそのものも見せるということもしたのが、テナーサックス、コントラファゴット、チェロ、ハープ、アップライトピアノのための第二番、第三番はシリーズ全体を一挙に演奏することを想定してから取り組んだもので、編成は一番と二番のハイブリッドになっています。
ビデオのみのための小さい作品では、最初の四つのテキストのうちの一つ、マルティン・ニーメラーという牧師さんが書いたものだけにフォーカスしています。「ナチスが最初に共産主義者を抑圧したとき、私は声をあげなかった。私は共産主義者じゃなかったから。次にナチスが社会民主主義者を抑圧したとき、私は声をあげなかった。私は社会民主主義者じゃなかったから」といった内容のあと、最後に「彼らがわたしを抑圧したとき、声をあげるものは、もはや誰も残っていなかった」というようなことが書かれています。このシリーズには、他にも差別や核の問題に関わるテクストなどが含まれるんですが、全体に一貫しているのは、少数派の声、かき消されてしまった声の集積であるということです。
何かしらのかたちで現代のリアリティを反映したい
——2024年にベルリンで上演された《Shall I build a dam?》を会場で聴かせていただきましたが、舞台と客席が同じ位相にあり、舞台上に大きい氷があったり、演奏者が氷に乗って滑ったりと、とても複層的な作品でした。会場も、配管なのか、パイプのようなものが天井にあり、そこを水が流れていたりしましたね。こうしたシアター作品を制作する際に、どのように頭や手を働かせているのか伺えますか?(小島)
小林:あの曲は、基本的にはコレオグラファー、ライトデザイナー、そして私の三人で作りました。「ノイエス・ムジークテアター」という概念に出会って以降の作品すべてに、そうしたコラボレーションの要素が含まれています。
パフォーマンス・スペースは客席に囲まれるかたちで四つに分かれていました。なので、観客は同時に起こっていること全てを一度に観ることは絶対できません。伝統的なオペラだと、話の筋があり、観客は登場人物の視点でそれを追い、理解しますよね。ところが、この世界のリアリティはもっと複雑で、同時にさまざまなことが起こっており、誰か一人だけが大切、ということはありません。視点がもっと複眼的です。この作品を作ったとき、私たちのなかには「そういう現代のリアリティに近づきたい」という思いが当初からありました。もちろん、あまりにも情報過多だと、そこに居続けることが出来なくなってしまうと思うので、当然、バランスは考えなければなりませんでした。
この作品に限らず、過去の素晴らしい作品が色々とあるなかで、あえていま私が新しいものを作るとなったとき、やっぱり何かしらのかたちで現代のリアリティを反映したいと思っています。作曲の際には、どんなシチュエーションで演奏されるのか、会場の広さ、観客の位置や視点、どんな曲を含めるのかなど、空間的に環境を想像しながら作りますね。どんな場所でどんな状況で演奏されるのかもわからずに書く、ということはありません。
すべての音に「筋を通す」
——そうしたシアター作品に取り組まれるなかで、音響自体の興味深さや美しさについてはどのようにお考えですか?例えば、音としての魅力はそれほどではなくても視覚的要素など他の要素との兼ね合いから総合的にみて全体の質が上がる音楽的アイデアがあれば、それを採用されますか?(小島)
小林:まず絶対に避けたいと思っているのは、音が他の要素の効果音のようになることです。先ほど言ったように、音楽行為そのものが作品の一部になってくる「ノイエス・ムジークテアター」では、「その音がなぜそこにあるのか」という意味について、深く考える必要があると思います。それは「美しい」という判断以前に、すべての音に私のなかでなにかしら筋が通っていないとダメだということです。例えば、どんなテキストを下敷きにするか、それをどういった方法で扱うのか、そういったことを考えながら、その場その場に相応しい音を書くようにしています。突き詰めれば結局は、「美しい」ということ自体も、充分その音をそこに置くための意味になるとも思います。
その上で、私自身の傾向としては、ニュートラルな音を作りたいということがあります。たしかに感情的なもので、ぐっと持っていくことはやりやすく効果的でもあるんですが、ヒトラーと第九の例のように、そこには危うさや脆さがある。私はそれとは距離を置きたいんです。
——論考のなかでも自律性、対話、エマンシペーションといった言葉が印象的でした。この「自律性」という言葉はどういうお考えで使われているんですか?音を書く上で「筋を通す」というお話とも関係するのでしょうか?(坂本)
小林:それは説明するのが難しい問題ですが、「何者も脇役ではない」ということが自律性だと思っています。例えば、照明が演奏者をただ照らすだけの役割ではないといったことです。それから、映像と音楽が同時に存在する場合がありますよね。どっちが前面に来るかで、たしかにそこには力関係のようなものが生じますが、どちらかがどちらかを「補助」しているわけではありません。それは音とテキストの関係でも同じことがいえますし、たとえば作品とプログラムノートの関係もそうです。私はプログラムノートで曲の「説明」をしたくはなく、それを一つのテクストとして成立させたいと考えています。あるいは、私の作品では、複数の曲が同時多発的に演奏されたりしますが、それぞれの曲が互いに干渉せず、一つ一つの曲として独立している、しかし共存している。自律性という言葉で意図しているのはそういうことですね。
新しい作用や予期せぬことが起きるのを楽しむ余裕を持つ
——私も演劇やダンスの人と協働するなかで道が拓けた感覚があるのですが、《歌われざる歌》や《Shall I build a dam?》の制作プロセスについて詳しく伺えますか。誰にどのような決定権があって、どのようなプロセスで進行していったのかといったことに関心があります。(坂本)
小林:まず、《歌われざる歌》については、企画や制作、ビデオも含めて、私一人で全部やりました。照明については、ホールに専門のスタッフがいたので、どのタイミングで舞台上のどこにスポットを当てるかというタイムラインを作って操作してもらいました。リハーサルにしても、他人に任せるということができず、一人で全部をみなければなりませんでした。それがあまりにも大変で「もう無理だ、とてもじゃないけど自分一人ではやりきれない」と思ったんです。最初は小さなところから始まったシリーズがどんどん広がっていって、最終的に自分ではコントロールしきれないものにまで膨らんでしまった。その経験が次の《Shall I build a dam?》でのコラボレーションに繋がりました。
ただ、他の人と一緒にやるのも、それはそれでとても大変でした。《Shall I build a dam?》は水が大きなテーマだったので、一週間くらい設けたトライアウトの期間で色々と液体を使ったりして試行錯誤していたんですね。で、期間中に雪がたくさん降った日があって、会場に行ってみたら、グランドピアノの蓋の上にでっかい雪だまが乗っていたんです(笑)。「え、ダメだよ!」と言っても「そうなの?」と悪びれることもない感じで。それから、色々と準備していった曲をみせて、実際に音にしてみせるんですが、動きとの兼ね合いのなかでコラボレーターが「ここ、あと1分くらい長くしようよ」みたいなことを気楽に言うんですね。そんなこと言われても、すぐにその場で出来ないじゃないですか。曲を書くときには、ひとりになってじっくり考える時間が必要ですし。それぞれが常識と思うことに違いがあって、色々と準備していったことが結局全然違った方向に進んでしまったといったこともたくさんありました。それはすごく自分の柔軟性が試された経験でしたね。
自分で全体をすべて自分一人で見る場合、どうしても視野が狭くなってしまうと思うんです。コラボレーションの場合、より広い視野を手にすることができます。作曲においてもそうですが、自分が当然だと思っていることや、これまでやってきたルール、慣習などがたくさんありますよね。協働するなかで、そうした固定観念を疑うことで新しいアイデアが生まれることがある。コラボレーションにおいては、予想をあまり立てずに、コミュニケーションをできるだけ丁寧に取って、そのなかで新しい作用や予期せぬことが起きるのを楽しむ、そういう余裕を持つことが大事だと思います。
——ある種、現場主義的というか、臨機応変に進めていかれるんですね。(原)
小林:そうですね。ドイツに来てから、それに必要な柔軟性のようなものを手に入れたと思います。色々なことがありすぎて、訳もわからず見切り発車のようなかたちで動いていくなかで、強制的に実践していかざるを得ないことばかりだったので。日本にいた頃は、特殊奏法にしても、「だいたいこれぐらい出来るだろう」という基準に合わせて書いていたんですが、いまは演奏家との「人対人」の関わりのなかで作ることができるようになりました。例えば、重音奏法を使うにしても、「何か気に入っている重音はある?」って聞いてみたりだとか。何かをしてもらうときにも、その人がやりたくないことは書かない。どうしてもやってもらいたいときには、きちんと理由を説明して、納得した上でやってもらう。演奏者の方々を単に私の作品をリアライズしてくれる存在とみなすのではなくて、「人対人」の関わりのなかで、全体をみられるようになったということですね。
もう一度、日本語に戻る
——2026年1月末には小林さんの作品を日本で聴ける機会(「Cabinet of Curiosities 2026:New Music Theater」)がありますね。それとも関連して、これから取り組んでみたいことなど、今後の展望を伺えますか?(小島)
小林:今後やっていきたいことは、もう一度、日本語に戻ることです。日常的に考える言語や喋る言語は日本語ですが、作曲行為のなかでは、誰かに説明したり、誰かと一緒に作業するという前提のもと、はじめからドイツ語や英語で考える習慣づけをしています。作品で使うテクストも、その演奏会が開かれる場所の言語をメインにすることが多いです。たしかに、日本語のテクストを使ったこともありましたが、それはシラブルに分割されることで符号のような働きをするものでした。ドイツに来たばかりの頃、2018〜2019年には、日本語の持つ響きにフォーカスして、それをどう「音楽に翻訳するか」というテーマに取り組んでみたこともありましたが、ドイツ語などがどんどん作品に入り込んでくる中で、それはすっと消えてしまっていたんです。自分のアイデンティティとも関わるこの大きなテーマについて、西洋音楽の文脈で活動している自分に何が出来るのか。それを問うことは今後の大きな課題だと思っています。ドイツに行って別な言語を経験したあと、もう一度日本語に戻ったときに何が出てくるのか。それは私自身も楽しみに思っています。
2025年11月1日
Zoomにて
インタビュアー:小島、坂本、原
