日常、癖、パフォーマンス
——今村さんの論考は、エッセイ風の文体で書かれていましたね。とても引き込まれる文章でしたが、どのような意図でこうした書き方を選ばれたのでしょう?(小島)
今村俊博さん(以下、今村):最近は、いわゆるアカデミックな文章よりも日常を描いたものを読む機会が多く、そこに見える書き手の癖だったり、特徴だったり、あるいは物事を眺める切り口だったりに、驚きや興奮を覚えるんです。それで、僕自身も何かそういう仕方で書けないかなと考えました。それから同時期に、柴崎友香と岸政彦による『大阪』(河出書房新社、2021)という本を読んだことも、きっかけのひとつです。これは大阪という街について二人が交互に書き交わすもので、それを読んだときに「実際に街を歩いてその風景を描写することでしか立ち上がってこないものがある」ということに気付かされました。そうしたことが重なって、あのような文章になりました。
——創作と文章の内容が強くリンクするというよりは、エッセイというスタイルに惹かれて、というイメージでしょうか。日常や癖というキーワードは、今村さんの作品とも通じるところがあるように思います。(小島)
今村:ふだんの生活のなかでも、人の動き、それも本人が何気なくやっている行為に着目していると思います。文章のなかでもソムリエがボトルをタップする動きについて触れましたが、公開されたあと本人に「こんなの書きましたよ」と伝えたところ、「ああ、そういえばやってますね」という会話になりました。そういう癖のような、人が気付かずにしているような行為の瞬間を切り取って、作品に組み込むことが多いです。
そのときには、観客が同調できるか、ということも考えています。たとえば、僕の作品に演奏者がスクワットをしながら計算を行うものがありますが、スクワットも、小学校の体育の時間などに一度は誰もがやったことのある動きですよね。そういった意味で、いわば日常とは切り離せない動作をモチーフに取り上げることがよくあります。ただし、そういう癖とか日常性を絶対に重要なものと考えているかと言われると、そういうわけでもないんですけど。
——そういう行為に注目し始めたのは、いつ頃のことですか。学生時代はどういう曲を書かれていたのでしょう?(小島)
今村:作曲を始めたのは高校に入ってからですね。当時、僕は教師になりたくて、教職系の大学に進学しやすい高校に進みました。教科はなんでもよかった。とにかく教師を目指していた。高校一年生のときに音楽の先生と話す機会があったんですが、ピアノを習っていたこともあり、ひょんなことから「放課後に集まっているから、暇なら遊びに来たら」と誘っていただいたんです。それで、顔を出してみると「折角来たんだし、ちょっとやってみなよ」と、ソルフェージュとか作曲をやることになり、その当時入っていた卓球部も気がついたら辞めさせられていて(笑)。その先生は高校の卒業生で、吹奏楽部のOBで、そして教師として高校に戻ってきてからは吹奏楽部の顧問もやっていて、部員時代はクラリネットをやっていたので、なぜか僕も吹奏楽部に入って僕もクラリネットを始め、部員のアンサンブルのアレンジなんかもやらされたりと、先生に良いようにのせられましたね。(笑)
その先生が、僕の師である川島先生(川島素晴)が大学院を修了して大阪音楽大学に非常勤講師として赴任した時代、放課後に学生たちと現代音楽の勉強会のようなものをやっていたなかにいた一人で、井上昌彦という方です。いまは僕の兄弟子にあたります。僕の通っていた高校では、2年生の1年間のみ、芸術選択で音楽か美術の授業があったんですが、音楽の授業で何をやるかというと、ひとりひとつ管楽器を選び、ユニゾンからはじまって二声をやり伴奏や裏メロなんかを、並行して音楽史、ジャズ、Jポップなどを学びながら、一年をかけて、合奏ができるようになるまでやる。その授業なかで、現代音楽も登場して先生がピアノの内部奏法を実演する授業ときもあったりして。井上先生に出会って、僕も感化されて、音大が選択肢に入ってきたんですが、どこの大学が良いか相談すると「川島先生がいる大阪音大しかない」と言うんです。入試では受験ソナタみたいなこともとりあえずやりましたが、いざ大学に入ってみると、川島先生の「もっと自由にやれば?」という甘い言葉に誘惑され、一年生のときからもう、現在と同じような作品を作り始めていましたね。なので「いつから」という問いについては「最初から」というしかないです。
——最初に書かれた作品については覚えていますか?(小島)
今村:フルートとトランペット、指揮者、それからカウントする人という四人のための作品だったと思います。ひたすら数を数える人がいて、残りの三人は指揮台の上で回転しながら、それぞれに割り振られたモチーフを合わせていくみたいな、そういう作品でした。当時から「作曲する上でパフォーマンスを取り入れるのは当たり前」と思っていましたね。もちろん、アカデミックな作曲も学んでいるので、それが当然じゃないってことはわかってはいたし、進級のために提出作品として古典的な作品を書くこともありましたが。レッスンでの「こんなことをやったらおもしろいですかね?」という僕の問いかけに返ってくる、「君、それおもしろいかもね!」という川島先生の言葉に甘やかされ、救われていました。(笑)
「音楽」というフレーム
——「パフォーマンスを取り入れるのが当たり前」となったとき、それを敢えて作曲というフレームにおさめるのは、どういう意識なのでしょう?(西村)
今村:自分が音楽というフレームのなかにいることは意識しないと、本当に何をやっているかわからなくなるので、その軸自体はずらしてはいけないなと。それから、他のジャンルとか、外に関心が向いても、「一からちゃんと学ばなければ」と思ってしまって、怖くて手が出せないということがあります。演奏者として他のジャンルの人を呼ぶとか、そういう風なずらし方をすることはありますが、その時にも、自分の軸はずれないようにしています。
一方で、そうした枠組みに固執しすぎているという問題意識もあって、大学院では東京藝術大学の先端芸術表現専攻に進みました。染め物や陶芸、小説、彫刻、日本舞踏、障碍者アートやキュレーションをやっている人もいるという感じの、本当にゴチャ混ぜの場所でしたが、そういうところの教授たちに、自分のやっていることがどのように受け取られるかみてみたいという好奇心がありました。「僕のやっていることは音楽のこういう文脈に則っています、それをどう見るかはお任せしますが」というようなスタンスでやっていましたね。僕は、自分は保守的で、ベートーヴェンと同じことをやっていると思っていますよ(笑)。
——音楽というフレームからずれないようにする、あるいは、それを軸とするという時に、今村さんの考える「音楽」というものの定義は、どのようなものなのでしょう?ここを譲ったら音楽ではなくなるというような線引きといいますか。(原)
今村:僕の場合、始まりがあり、終わりがあるものをきちっと書くということがまずひとつ。つまり、時間の制約を必ず設けていて、「なんとなくこうやったら終わります」みたいな作品を書くことはないです。時間の計測があり、ある一定時間が経ったら終了する、といったように、いわゆる五線紙に終止線を書くような感覚に近い。 それから、記譜されたものを演奏する、というところはいじらないようにしています。それは自分で演奏する時もそうですね。必ず記譜してそれを演奏するという、再現性を担保する関係性を必ず設けている。これが二つ目です。
とはいえ、この二つから逸れたら音楽じゃなくなるかといえば、そんなことはなく、あくまでも、僕はそれを大事にしているというだけの話です。たとえば、「いまいけぷろじぇくと」でやっている公演では自分以外の作家の作品を取り上げますが、いまいった二つの要素がなくても、作家が「これが音楽です」というフォーマットを提供してくれたら、僕もそれを音楽作品と思って演奏します。
数えること
——話を戻して、最初に書かれた作品についてもう少しうかがいたいです。カウントする人のパートを設けるのは、実験的な試みだったと思いますが、実際にやってみたときの手応えはどうでしたか?ここは上手くいったとか、ここはいまひとつだったというような。(原)
今村:「数を数える」という行為については、いまでも《数える人》という作品を作り続けていますし、エッセイでも意図的に「数」を強調して書きました。数を数えてしまう、というのはそれこそ僕の癖としてあるんですが、さきほどの、始まりがあって終わりがある、という終止線を書くような感覚に相当するものを、僕はそこから得ている。それと、数えるという行為は、さっき言ったスクワットと同じように、会場に居合わせた人々が「時間体験を共有する」ための、ひとつのモチーフとしても使っています。それが成功しているかは、いまもわからないですが(笑)。ただ、僕は自分の作品をいつもおもしろいと思っていて、発表してつまらなかったと思うことはないんです。その時点その時点のベストではないかもしれないけど、少なくともベターな状態の作品を出しているつもりです。それは、自分がプレイヤーとして自演するときでもそうだし、他の人に上演してもらうときもそうです。僕自身、客席にいて、いつもひとりでゲラゲラ笑い、幸せな気持ちで終わる。満足する閾値がただ低いだけかもしれないですけど(笑)。
——他の人に上演してもらうときは、具体的な奏者を想定して書くことが多いんですか?(原)
今村:ええ。僕の作り方は「あて書き」に近くて、基本的には誰がどこでやるか決まった状態で書いています。同時に、さきほど記譜という話で少し触れたように、再演可能であること、作品がその作品として固有の強度を持っていることは大事にしています。そういった点からみても、一作目について「ここをもっとこうやればよかった」と思う点はなかったですね。
——癖にフォーカスするという話もありましたが、あて書きするときには、そのパフォーマーの観察なり、何かしらインタラクションがあった上で書くのでしょうか?それとも、演者とは別個に、いま今村さんが興味を抱いている動作みたいなものを取り上げるのでしょうか。(原)
今村:演奏者がどういう風な状況に置かれているとおもしろいかなというのが大きいです。さきほどの癖云々は「日常にはそういうものが転がってますよね?」という話で、直接的に演奏者の癖がどうこうということではないです。言い換えれば、演奏者のパーソナルな部分にフォーカスして書くということはないです。それは、あて書きという話とは一見したところ矛盾するように感じられるかもしれないですけど。もっとも、器楽曲であればそういうアプローチの可能性はありますね。この演奏者はこういうモチーフが得意だからそれをたくさん入れようとか、逆にそれは敢えて省こうとか。
——つまり、動作としてはニュートラルなものを設定しておいて、その状況のなかにパフォーマーが入り込んだときに、何かしら未知の予測不可能なことが起こる。その瞬間に、その人の個性が浮かび上がるという、そういう仕組みですか?(原)
今村: そして、そこの発生率をリハーサルなどでコントロールするというイメージです。具体的には、回数設定だったり、何らかのレイヤーで負荷を足すとか、そういうことで調整します。
——なるほど。なかには、ご自身で演奏される曲もあると思うのですが、その場合はどうなのでしょう。ある種、マゾヒスティックに、自分が追い込まれている状況みたいなものをイメージするのですか?(原)
今村:ソロで演奏する前提だったら、そういうことも考えますね。 自分自身がどうなっているか、それを別の視点から見ながら書いている。でも、デュオやそれ以上の編成だったら、どちらかというと、一緒にやる相手次第ですね。その場合には、あまり僕自身のことを考えない。
——いま、リハーサルでの調整の話もありましたが、《数える人》シリーズは、実は「数え損なう人」というか、どうやって負荷をかけて失敗させるかという作品ですよね。これまで成功してしまった例はありますか?(坂本)
今村:《数える人》シリーズで成功した例はさすがになかった気がしますが……いや、一度あったかな。それはともかく、大前提として、僕はストレートに成功してほしいと思っていますよ(笑)。なので「いやいや、成功できますよね?」っていうギリギリを攻めていく。
ただ、矛盾するようですが、どこかで「間違えろ!」とも思っているのは事実です。その感覚は、 たとえば、演劇を観に行ったときとかに近いのかもしれない。演劇の場合、音楽と違って 一週間なり一ヶ月なり、同じ内容を再現するものが何公演も行われるわけですが、ああいうものを見続けていると、プロパーの人は「昨日と今日でどこが違うんだろう」って考えるし、一瞬起こるミスのようなものを、みんなどこかで求めるわけですよ。アドリブの絡みが設定されている劇だったら、そこで何が起こるかを楽しむ。あるいは、なんか噛んでしまったとか、物が落ちてしまったとか、舞台スタッフが出すものを間違っちゃったとか、なんでもいいんですけど。それは本流の見方ではないけど、ただどこかでそういうものを楽しみにしているところがあって。
これは、ブラームスの作品とかバッハの作品とか何でもそうですが、そういったものが演奏されてる瞬間に、 ただじっと聴いていても感動はするし、心地いい音楽を体験できるわけですが、ミスが起きたその瞬間にこそ、逆説的に、僕はその場にいる全員が同期されると思ってるんです。同じ時間体験を共有していると感じるというか。《数える人》の場合、それが「数える」という行為とその失敗にあたります。だから、ミスした瞬間に、それがミスだとわかるような設定を作るのが大事なんです。数えるというシンプルな行為だからこそ、失敗に気付ける。
——もし《数える人》で、ミスなく通ったとしたら…(坂本)
今村:実際に、みんな一緒に数えてるはずなので、「おーーっ!」って拍手するかもしれないですね(笑)。
記譜法をめぐって
——コントロールという点についてですが、たとえば《数える人》シリーズのような音響がメインではない作品でも、何かしらの音は出ますよね。今村さんの記譜では、サウンドはどのように考えられているのでしょう。(小島)
今村:そこに対する興味は一切ないですね。たとえば、 演奏中に空調がかかってようがなかろうが気にならないですし、「いち、に、さん、し、ご、ろく、ひち、はち」と数える人と「いち、に、さん、し、ご、ろく、なな、はち」と数える人がいても良い。あるいは関西出身の人に「いち、にぃ、さん、しぃ、ごぉ、ろく、ひち、はち」と発話されても、何とも思わないです。曲のなかでは、演奏者が一定のビートで数えられるように電子メトロノームなどのデジタル音を鳴らしたりもしますが、その時に「この機種の音が良いんでこれを使ってください」みたいなこともないですね。
器楽曲を書くときには、サイコロなどを使ってランダムに決めたり、マトリックスを作ってパターンに嵌めたり、そういう作り方もします。そのマトリックスの素材でさえ、ランダムに選んでいる。そういえば、トロンボーン奏者の青木昂さんに演奏してもらう作品を書いたときも、床にスライドの先端を付けて固定してスクワットみたいにして吹くというトロンボーン科のお家芸みたいなネタがあるんですが、彼がそれをやっている様子が好きで作品内でやってもらいましたね。あの作品は、少し複雑な背景があって、井上昌彦がやはりトロンボーンのためにスライドのポジションを指定する作品を書いておりそのオマージュという側面があったり、初演の場が、川島門下の発表会的な会だったこともあり、川島先生の作品を意識した設定を盛り込んだり、最後にモーツァルトのレクイエムから引用するために結果的に音響を作り込んでいたりなどしてはいますが、やはり行為の側面が先行しています。
——記譜に関して言えば、ラフに行為を指示する場合と、演奏者に明確にこうしてほしいと書く場合があるということですか?(西村)
今村:そうですね、その両方のパターンがあります。いま言ったトロンボーンの作品は可能な限り厳密に書いています。そうかと思えば、《数える人》では、テキスト形式でルールとやることだけが書いてあって、終わりの時間が設定されている。こちらは、フルクサスの作品に近い記譜法ですね。もちろん、この二つの中間のような記譜も存在します。たとえば、aのポジションは何秒、bのポジションは何秒、cは何秒繰り返し、2回目は、aはその2分の1、bも2分の1、cも2分の1という風に構造を書いておく。その上で、実際にaで何をやるのかはランダムにして、プレイヤー自身があらかじめ楽譜を作りなさいとか。そういうことをやった曲もあります。
——どういう記譜法をとるかは、どのように決まるのですか?(西村)
今村:ある程度は意図的に選びますが、やっぱり作品の性質というか、どういう場所で誰がやるかといったことによって変わってきます。器楽曲だから五線譜かというとそうではないですし。パフォーマンスだからテキストだけかというとそんなこともない。
楽譜を読む人がどういうリテラシーを持っているか次第ですね。特に、いまいけぷろじぇくとでは、音楽家ではない人をゲストに呼んだりすることがあるので、そうなると五線譜で書くことはない。
このインタビューの冒頭でした話に戻ってきますが、このように作品毎にやり方を選んでいるので、根底にあるものは一緒でも、表立ってはバラバラということがあり、それを詳しく説明するとなると、前提をたくさん書かないといけないので、ああいうテイストの文章になったという側面もあります。
——と、いうと?(西村)
たとえば、そうした前提のひとつとして、僕が大学院時代からオーケストラのライブラリアンの仕事をしているということがあります。フリーで受けたりすることもありますが、その仕事をやっていて痛感したのは、当然の話ではあるけどリハのたびに指揮者やプレイヤーの都合で、演奏がコロコロ変わることも多くあるということです。予算の都合で編成通りにやらないこともあるし、繰り返しをカットすることもある。指揮者によっては、A社の版を使いつつも、ある箇所だけはB社の版にあるアクセント記号を加えたりとか。そういうものをライブラリアンは手書きで書き足していくわけです。そうなると、実際には毎回、微妙に違う演奏になっているのに、お客さんは毎回なぜか同じオーケストラの同じベートーヴェンの曲を聴いていると感じる。
こうした現場に身を置くなかで、作品の同一性の線引きはどこなんだろうとより考えるようになりました。一時期は具体的に、執拗なまでに厳密に行為を書く方向に傾いたりしたこともありました。どこの舞台で誰がやるかを念頭に、楽譜に舞台の端っこからテンポいくつで何歩で出てきて、どこで止まってくださいみたいなことを、それこそ演劇のト書きのように書いていた。でも、次第に「そんなことしても無駄だな」って思えてきて。作品の本質はそんなところにはない。再演になれば、演奏される環境も変わってくるし、厳密に書くのではないやり方で、作品を楽しむための強度を担保できるならそれでいいんじゃないかなという風に、グラデーション的に変化してきましたね。
なにを記録するか
今村:ライブラリアンの仕事について触れたついでに、もうひとつ言うと、僕のなかではアーカイブというテーマが、大学院在学時の大事な研究課題でした。アーカイブというと、たとえば、録音の記録なんかを残しているところがありますよね。あるいは楽譜だと、「これは旧東ドイツ時代に買った楽譜で」とか「これは誰々先生が振った時の楽譜で」とか、そういうものを大事に残している。でも、本当は、無数のリハーサルの演奏とか、あるいはリハーサルのたびにどんどん上書きされていく鉛筆書きの指示とか、そういうものだって残さないといけないと思うんですよ。ただ、それは実務との兼ね合いで難しい。
——全部を記録していたら埒が開かないし、それを全部記録すると、今度は作品というものが逆に固定化されすぎる危険もありますよね。(西村)
今村: そうです。録音や楽譜だけ記録すればいいかというとそうでもないですしね。同じ曲を同じオケでやっても舞台の組み方は変わるし、指揮台の位置だって指揮者によって変わる。あるいは、指示通りに組んだはずなのに、「もうちょっとオケを前出して」と言われたりとか。最初の図面から、結局現場でどんどん変わっていっちゃう。あとは、客席に何人入っていたとかね。細かいことを言い出したらきりがないわけです。 だけど、それはそれで記録するべきものだと思うんです。
——そういう現場で移り変わる、通常のアーカイブには残らない部分に関心がある。(西村)
今村:ええ。同時に、最近ではそれについて細かく考えても仕方ないなと思い始めています。もちろん、いまでは映像メディアも発達し、美術のパフォーマンス作品なんかもどんどん美術館に収蔵されるようになってきているので、これから何か変わっていくかもしれませんが。
さっき自分の作品をいつもおもしろく見ているという話をしましたが、僕はもう自分の作品の記録映像を一切見返さないんです。興味がなくて。もちろん、編集上のチェックをしなければいけない場合なんかには見るわけですが、作品を体験しようと思って見ることはない。
——それは映像だとやはり場の空気感が再現できないということですか?単純な話で言えば、客席も映らないし、時間体験の共有という面からいうと、映像だけでは捉えられないものは多いですよね。(原)
今村:そうですね。さっき言ったようにパフォーマーがどういう風な状況に置かれているかとか、そういうことも含めて僕は体験だと思うので。そういう風に感じない人にとっては、記録映像でも全く問題ないのかもしれないですけど。 僕は、演劇やダンスの公演にもよく行きますが、それは「生の体験」が好きだということと不可分で、僕は「状況」に興味を抱いている。それは日常の小さなことに注目するのと根っこで繋がっていると思います。単に集中できていないだけかもしれないし、作り手からしたら決して良い客ではないですが(笑)。
——たとえば、実際には現場の状況に応じて細部が変わっているにもかかわらず、みんなそれを同一のものとして認識してしまうのは、イデアとしての不変の「作品」があるからともいえると思いますが、みんながそれに没入しようとするのに対して今村さんはむしろ、完全な「作品」という理念の「破れ」にこそ関心があるわけですね。それは、たとえば、上映中になにか物が落ちるとか、舞台美術がセットを間違えるとか、あるいは演奏者が数えるのをミスするとか、そういう瞬間に露わになるし、あるいは上書きされて消えていくスコアのなかに眠っているものでもある。そういう瞬間や消え去るものへの関心と、「生の体験」に否応なく惹かれてしまうというお話は繋がっている。(原)
媒介としての演奏会
——話は尽きませんが、いま現在、制作されている作品についても伺えますか?(原)
今村:作曲家の池田萠さんとやっている「いまいけぷろじぇくと」の公演が6月29日と30日に京都芸術センターで、7月13日に東京であり、その作品を作っています。ワークインプログレスをやり、それを踏まえてどうなのか、どう回収するかという試行錯誤の状態ですね。作曲家のなかには、ずっと作り続けないとダメな人もいて、僕はそういうタイプではないとは思うんですが、結果的に大学生のときからコンスタントに作品を発表していて、この先、かたちが変わることが仮にあるとしても、「いまいけ」のような何かをずっと継続してやっていくんだろうなという感覚があります。
——なにか新展開というか、大きく変化しそうなことはありますか?(原)
今村: そういう欲求が全くないかというと、もちろんそんなことはないので、「こういうことができるかもしれない」という新しいことが出てくる可能性はありますが、いまのところ、具体的に何かを考えているわけではないです。なにかあるとすれば、「いまいけ」の次の演奏会では、これまでとは全然違う方向性でゲストを呼びましょうかとか、 もう全部電子音楽でやってみましょうかとか、なにかそういう企画を立てるなどですかね。そして、そうなったときには、誰かを巻き込んでいくでしょうね。 個人の創作として「よし、これにチャレンジしよう!」みたいなものはない気がします。
——今村さんの場合、演奏会の企画が作品化している側面もありますよね。(西村)
今村:そうですね。作曲者であり、プロデューサー的立場でもあるのかもしれない。「いまいけ」の企画も池田さんと二人で話して決めるんですけど、誰に委嘱するかとか、誰をゲストで呼ぶかとか、どういうジャンルの人を呼ぶかとか考えるのがすごく楽しいです。そのアイデアをもとに「こういう人がいいかな」とか「じゃあもうちょっとこういう人もいるかもしれませんね」と二人で練っていきます。
——企画を媒介にして、人や作品と対峙するとも言えますね。(西村)
今村:そうですね、今度からそういう言い方にしようかな(笑)
2024年6月5日
Zoomにて
インタビュアー:小島、坂本、西村、原