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サブカルベイベーエンタメ好きのヲタクガール 池内奏音

サブカルベイベーエンタメ好きのヲタクガール

                                         池内奏音

サブカルチャーはお好き?

 何を語ろうか迷いに迷った挙句、やっぱり自分の好きなことについて語ろうと思う。なんだか昨今、自分の好きなこと(推し?笑)について語るのが流行ってるらしいので、便乗してみる。
 語ることは大きく、ふたつ。ひとつは、VOCALOIDを主としたサブカルチャー/ポップカルチャーと芸術。もうひとつは、日本のオペラである。

 アコースティック主体のいわゆる「現代音楽」を長らく勉強して書いてきたが、まあ色々思うところもあり、最近はエンタメ的要素を重視するようになってきた。
 作品のクオリティを担保するための、アカデミックな文脈や、時に「技術」と呼ばれる部分は保ちつつ、表象としてはポップでときにはエンタメ的な狙いも感じられる作品というのが、現在のスタンスである。
 大きく分けると、①VOCALOIDを基軸としたエレクトロニクス作品、②日本語のオペラ作品、このふたつが今の私の最も関心の強いコンテンツである。
 それを語るにあたり、まず前置きとして、私のこれまでのサブカルコンテンツ遍歴について述べたい。

ヲタク遍歴

 私がこれまでに、どんなヲタk…カルチャーコンテンツを辿って今に至るかを紹介したい。文章にしてしまうと莫大な文字数と面積を消費してしまうので、年表にまとめてみた。後の自分に大きく影響しているなと思った項目には色をつけている。


 軽くまとめる。まず10歳で深夜アニメにハマり、同時期にニコ動でVOCALOIDと出会うという快挙を達成。そこからは順調に、各時代ごとのハマりジャンルが増え、活動範囲は年々拡大(結果万年金欠)。音楽だけでなく、他分野への興味も今の私に大きな影響を与えている。こうして手広くヲタ活を続けてきた結果、サブカルの文脈が自分の芸術的な作曲・音楽活動と自然に繋がる地点に辿り着いた。そこに至るまでは、ルーツと理想のジレンマや、周囲の目(耳?)といった壁も多々あったが、詳細は割愛する。語り出すとヲタク口調が止まらないからね (^_−)−☆

VOCALOID

 さて、まずはVOCALOIDを基軸に、サブカルチャー/ポップカルチャーと私の音楽との繋がりについて語っていく。
 紹介する自作曲は2曲。ひとつは先に挙げた、巡音ルカとピアノのための《Cold×Code》-Edit 2025-、もうひとつは巡音ルカとヴァイオリンのための《BUG BORDER》-Edit 2025-。ここでは曲そのもののコンセプトや細かい内容というよりは、VOCALOIDという媒体とそれを使用する意義について語ることに重点を置く。

《Cold×Code》-Edit 2025-
《BUG BORDER》-Edit 2025-

私が自身の作品にVOCALOIDを起用した理由やそれに期待していることは、主に次の3つである。
①新規性
②自身の作風との親和性
③単純に、愛。

新規性

 多くの作曲家は、「新しい音」や「自分にしか表現できない音楽」と日々向き合っているものかと思う。私も例外ではない。そして、とても不思議でならないのだがVOCALOIDを使った作品はとても少ない。萌え声やアニメ素材を使った作品はここ数年で爆発的に誕生しているのだが。学術的/作曲的文脈でVOCALOIDを扱う例はまだ限定的だ。もちろんゼロではないことは断っておく。
 冨田勲の《イーハトーヴ交響曲》(2012)は、オーケストラと合唱、そしてソリストに初音ミクを起用した作品である。初演された2012年は、今よりもヲタク文化に社会が寛容ではなかったと思うが、その中で初音ミクと現代音楽をマッチさせた冨田勲に敬意を表したい。渋谷慶一郎のオペラ《THE END》(2018)では、伝統的な悲劇オペラの形式を、人間不在という構成で現代の表現に置き換えた。
 全くの新規発明ではないと承知の上で、流派やスタイルを発展させるには「新しいこと」を「続けること」「継承すること」も重要だと思う。私個人の名が後世に残らなくても構わない。まだ発展の余地がある「VOCALOIDと現代音楽」の可能性を、私は追求し続けていきたい。

自身の作風との親和性

 私が作品を生み出すとき、大切にしていることに「ビート」がある。私は、音楽のもっとも重要な要素のひとつは「推進力」であると考えている。時間を扱う芸術である以上、音楽には「この先」という概念が存在するが、いかにして聴衆に「その先」を期待させるか、そこが作曲家の腕の見せどころではないだろうか。もちろんビートではなく音(音高や音程)を使ってその先を期待させることはできるだろうが(これが上手な作曲家もたくさんいますよね、憧れちゃいます)、私は自分の個性としてビート、つまり「脈拍」にその思いを託している。これはおそらく、ポップス音楽に長く触れてきた影響も少なからずあるだろう。このように能動的で推進力の伴う音楽を好むので、自然に拍動のある音楽が増える。そうした作風と、ポップカルチャーの文脈で活躍するVOCALOIDの相性は悪くはないのではと考えた。もちろん、ビートレスな音楽に初音ミクや巡音ルカの声を使っても面白くなるだろうし、むしろそこから新しい発見が生まれる予感もある。あくまで、まずは手始めに、というところだ。
 エクリチュール(和声や和声進行)について、まず和音は三和音やセブンス、時には四度堆積を使うことが多く、一曲ごとにコンセプチュアルに素材を絞ることが多い。「この曲は三和音!」「この曲はセブンス中心!」のように素材を決める感じである。その上で、和声進行については、「デジタル」と「アナログ」という観点で考えている。従来の西洋音楽の和声進行は、前後関係=文脈を非常に大切にする。基準となるⅠがあれば、属和音Ⅴがあり、Ⅴの次はⅠ(またはⅥ)に帰結する。CメジャーならGの次はC(あるいはAm)へ行く、といった具合である。これに従わないと、緊張と緩和のエネルギーの流れに反する。つまり、同じCコードであっても前後の関係によって捉え方が変わるし、元のキーによって役割が変わる。こうした「連続性」を私はアナログ的と捉えている。(これをアナログ的だと言い切ると反論が飛んできそうだが、どうか噛み付かないでください…)
 それに対して私は、ひとつひとつのコードを独立した存在として扱う「デジタル的」な捉え方をする。Cコードの世界とGコードの世界は全く別のパラレルワールドであり、それらが仮に隣接したとしてもそれは「偶然」だ、という感覚だ。さらに、従来の和声では繋がらなかったコードが繋がることで初めて、新しい文脈が生まれるのでは、という期待もある。繋げ方は曲によって様々で、たとえばbit列を数字に変換し、それをコードに割り当てるなどが挙げられる。この法則で書いた作品が、VOCALOIDとピアノのための《Cold×Code》-Edit 2025-である。

《Cold×Code》-Edit 2025-

ピアノがセブンスコードを分散して演奏し、一定の小節ごとにコードが切り替わるが、前後に伝統的な和声の文脈はない。bit列から割り当てられた和音が淡々と連結されていくだけである。
 しかし、ただ繋げて終わりというわけではなく、一貫してセブンスコードを使うことで統一感を損なわないようにし、且つセブンスの中でもメジャー/マイナー/ドミナントの種類が与える印象の変化をドラマツルギのように扱うことで、新しい文脈の発生を期待した作品である。
 そもそもVOCALOIDとは、録音(サンプリング)された50音の声優の声素材から当該の音を並べて言葉を作り、その再生速度をコントロールすることで任意の望む音程を得る仕組みなのだが、この作品では、私が試みるデジタル的な和声進行と、VOCALOIDというデジタルメカニカルな操作とがどこかで親和性を持つことを期待していた。
 曲が出来上がってみると新しい発見があった。当初危惧していたことのひとつに、VOCALOIDとアコースティック楽器が音質的に合わなければどうしよう、ということがあったが、意外にもそこまで大きな(問題視されるほどの)違和感が生まれることはなく、良き距離感で相互的に響いていたことが印象的であった。それは楽器奏者や、エレクトロニクスのオペレーターの弛まぬ努力も不可欠であったと思われるが、他にも、VOCALOIDの根本原理によるものも大きいと考えられる。
 ヤマハ株式会社が持つVOCALOIDの特許技術というのは、文字ひとつひとつが独立して発声させられるのではなく、前後の発音を加味した発音をすることで、より人の発音に近づける技術である。下図のように、例えば「ボカロ」と発音させるとき「ボ」「カ」「ロ」と単独で発音するのではなく、”bo”, (ok),”ka”,(ar),”ro”といったように、前の母音と次の子音も素材としてサンプリングされている。

この、より人の発話に近づける技術によって、「デジタル的」な音や音の連鎖が緩和され、アコースティックの楽器とも分離しすぎることも、融合しすぎることもなく、良き距離感が保てているのではと考えている。

※ちなみに、このヤマハ社の特許技術が使われていたのは2020年ごろまでで、2020年6月に公開されたクリプトン社が新たに発明した音声合成エンジンや、2022年にヤマハ社から発売されたAIが搭載された「VOCALOID6」の発売により、近年はさらに人の発話に近づいている。しかし私が『Cold×Code』『BUG BORDER』で使用したのは、VOCALOID2である。

 VOCALOIDはひと文字ずつ(ひと発音ずつ)打ち込むというため「デジタル」の印象が強いが、仕組みとして文字と文字を繋げる二層目が仕込まれており、アナログ的な効果が期待できる。その点において、私の和声の取り扱い方とシンパシーを強く感じた。ひとつひとつのコードの置き方はデジタル的であるが、そこから新しい文脈が生まれることを目指す作風(「新しいアナログ化」)との親和性は、悪くはないのではないだろうか。
 この点に特にフィーチャーした、「VOCALOIDと和声のデジタル/アナログ」について、そしてVOCALOIDの面白さと可能性について、さらに考えを深めたい。

単純に、愛。

 え、そんな理由?(笑)とどうか思わないでいただきたい。私にとっては、これも大切な理由のひとつなのだから。私はやっぱり、好きなものに囲まれながら、好きなものを生み出したいと思ってしまう。(自称)芸術家としてこの姿勢が褒められるものかどうかは意見が分かれるであろうが、自分が好きだと思ったものやことを信じることが、自分のこれまでの人生を辿る手段であり、自身の存在を肯定しているのだ。これが自分の作風や音楽に関して、少なくとも1周か2周は悩んで辿り着いた今の回答だ。
 おわかりであろう。理論より何より、直感と感情でやってみるタイプ。
 より正確に言うと、うだうだ考えるも進まず、結局やってみる方向に帰着するタイプ。

日本語のオペラ

オペラとの出会い

 私がオペラに興味を持ち始めたのはそこまで遠い昔のことではない。本格的にオペラに触れるようになったのは、修士課程に入ってからだ。しかも当時はなんとなく、オペラとか作ってみたいな〜なんて思ったからという、舐めプをカマしたとんでもない理由であったが、まあ物事のはじめなんてそんなものである。とは言いつつも、そもそもドラマツルギが好き、音楽以外にも多様なコンテンツ(演劇や美術、ファッションに至るまで)に傾倒する私が、オペラが好きになるのは必然と今となっては思う。
 結局、修士課程の一番の課題としてオペラの作曲を掲げ、なんとかそれを上演まで漕ぎつけたわけで、ボカロの次はオペラを作曲するときに考えていたことについて語っていこうと思う。ただ、オペラそのものに関しては、私よりも詳しい方が山ほどいらっしゃるので、そこは悪しからず。
 思えば、学部前半時代の師匠・前田守一先生が大のオペラ好きでいらっしゃったことが全ての始まりだった。学部1年生の頃、レッスンで守一先生は私にこう聞くのである。
 「君がもしオペラを作曲するとしたら、何を書く?」
 オペラのオの字も考えたことがなかった私は、適当に「小説か何か、ですかね」と答える。
 「君はもう決まってるじゃない、”乱歩”」私が大の乱歩好きであることをご存知だった先生はそうおっしゃった。
 私は当時、全然ピンと来ていなかったが、その言葉がずっと忘れられず、結局、江戸川乱歩原作の短編「押絵と旅する男」で初めてのオペラを作曲することとなる。言葉の力というのは、斯くも恐ろしいのか。

日本で、日本の、日本語のオペラを作るということ

 エンタメ大国、日本。なのになぜ日本でオペラがこんなにも普及していないのですか!!!と、私は思う。そもそもオペラがエンターテインメントかどうか論争が起こりそうな議題ではあるが、みんなそんな難しいこと考えずに、よしもと新喜劇を見るみたいに、宝塚歌劇団を見るみたいに、オペラを見る風潮があっても良いのではないかと私は思っているくらいである。そこには言語、格式(という名の先入観)、お高い観劇料など様々な要因があるとは思うが、興行についてはまたの機会にでも。
 それにしても、他のエンタメは日本独自のスタイルが発展しているにも拘らず、なぜオペラはさほど発展せず、新作オペラの初演が少ないのか、とても悲しい。そこで、私は日本で、日本の、日本語のオペラを作曲するという課題を自身に設けた。

オペラ《押絵と旅する男》(2023) ダイジェスト映像

江戸川乱歩という特異性

 守一先生の言葉が一種の呪縛のように心に刺さり続け、何の疑いもなく私は題材を江戸川乱歩の短編小説「押絵と旅する男」に設定した。ただただ乱歩が好きで、その中でもこの小説が特に好きだったから、というのが一番の決め手であった。また私が初めてオペラを観劇したのが青島広志の《黒蜥蜴》(1984)(原作:江戸川乱歩)の再演で、乱歩の作品の演劇性の可能性を無意識に感じていたこともあると、今となっては思う。
 乱歩の小説をオペラにするにあたって、もちろん彼や彼の作品について調べ、乱歩を選択したことへの説得力や、彼の文学的・作劇的魅力について考えていくこととなった。それは主に、次の二つにまとめられる。

①「日本的」性質

 江戸川乱歩といえば、明智小五郎シリーズや少年探偵団といった推理小説を思い浮かべる方も多いかと思うが、私は「もうひとつの乱歩」である、「怪奇小説」や「幻想小説」に着目した。
 乱歩の怪奇小説には一貫して見られる傾向がある。それは、「覗く」や「隠れる」といった、相手に姿を悟られず、こちらから一方的に相手のことを見る、という描写が多く出てくることである。ことに、「隙見」をするパターンは多く見られ、「屋根裏の散歩者」「一人二役」「蟲」など挙げ出したらキリがない。オペラの題材に起用した「押絵と旅する男」も例外ではなく、作中、男が浅草の十二階という相手から見られない場所から、遠眼鏡を覗いて意中の女性を探すシーンや、覗きカラクリ屋のレンズを覗いて押絵を見るシーンなどが登場する。
 この隠れて覗くという行動には、各作品の登場人物の「恥じらい」や「コンプレックス」が表れており、もはや「性癖」や「嗜好」の域である。今となっては日本人のグローバルイメージである、良く言えば奥ゆかしい、悪く言えば内気、という面が丁寧に描かれている。(乱歩が生きた時代から100年ほど前から、根本的に日本人の性質が変わっていないのが面白い。)
 イタリアのオペラによく見られる、大っぴらな恋愛模様を描いたオペラとは程遠い、恥じらいや人には言えない趣味嗜好を多く扱った乱歩小説は、日本を意識したオペラの題材にぴったりなのだ。日本の歴史などを扱った題材よりも、よほど日本的だとさえ思う。

②ライトモチーフとなり得る物質感

 もうひとつ、乱歩の小説に欠かせないのが、鏡やレンズといった、硬質な物体である。「押絵と旅する男」や「湖畔亭事件」ではレンズが用いられ、「鏡地獄」では鏡が扱われる。乱歩の小説ではこのレンズを通した世界や、鏡に映った世界は非日常の世界だという見解もあり、一種のパラレルワールドや、ドッペルゲンガーのような恐ろしさを乱歩自身がこれらの物質に感じ取っていた可能性が高い。(鏡やレンズが出てこない作品でも、双子の設定を使ってドッペルゲンガーのようになりすます作品があったりもする。)
 この幻想やホラーのメタファーとなり得る硬質な物質を、物語を進めるトリガーにすることは乱歩作品を扱う上では必然であり、作品全体に統一感を持たせるモチーフにもなり、さらに物体の質感を音の質感にも置き換えやすい、かなり「便利」な道具なのだ。

日本語の難しさ

  日本人がオペラを作曲する上で、多くの先人たちがぶつかったであろう壁、それは日本語の難しさ。
 かの大作曲家・林光も、この日本語の扱いにくさには苦戦したようだ。

からたちの花がさいたよは、何回読んでも、タタタタタタタタタタタタと同じ拍が十二個並んでいるだけで、ドイツの『野バラ』の場合のような、伸び縮みや、うねり・はずみは現れてこない。(中略)ところがもうひとつ、高低アクセントというのがある。(中略、「靴」のアクセントにおける東京と大阪の違いが例示される)それは地域によってちがうけれど、ひとりの人間、ぼくならぼくの「靴」はいつもと変わらない。そして、旋律線、メロディーラインというのは、音の高さの並びだから、ことばの高低の並びが決まっている日本語にふしをつけようとすると、どうしてもそのことに縛られる。(中略)つまり、リズムについてはヒントをくれず、メロディーラインの高低については、むしろ注文をあれこれつける、というのが日本語なのだ。

林光 『日本オペラの夢』岩波新書、20頁。

歌曲に関しても言えることだが、日本語を扱うとき、メロディもリズムも、自然に且つおもしろく音楽を作るのは至難の業である。


日本語使い・椎名林檎

 この日本語の壁は、私自身も早い段階でぶつかることとなる。正直なところ、今でもどう扱ってあげるのが最適解なのか、模索しているわけだが、参考にさせていただいたアーティストをひとり紹介したい。歌手の椎名林檎である。
 彼女の楽曲にはファンクやソウルなどからの影響も見られ、それが日本語のリズムに表れる。1つの音符に2モーラの言葉を盛り込み、とりわけ「しゅう」「にゅう」「へい」など母音があとに続く英語的な響きに近い言葉が多く選択される。
 彼女の代表作である〈丸の内サディスティック〉を取り上げて見ていく。

椎名林檎、「丸の内サディスティック」『無罪モラトリアム』℗ 1999 EMI Music Japan Inc.
Provided to YouTube by Universal Music Group
筆者による採譜

1音1モーラには生み出せない、韻律のメリハリとスピード感が「丸の内サディスティック」にはあるのだ。
 オペラの話に戻ろう。先に話した、1音2モーラを実現するためには、母音が後に続く響きを多用していかなければならない。この響きは大和言葉にはなかなか存在せず、漢語由来、すなわち「音読み」に宿る魔法なのだ。しかし幸運なことに、そのときすでに書き上がっていた脚本(こちらも私が担当させていただきました。)には、とある言葉が連呼されていた。

 「兄さん」

 これは、林檎スキルを使う他ない!
 以下、ヴォーカルスコアより。

オペラ《押絵と旅する男》(2023)より

「兄さん」以外のセリフでも…

オペラ《押絵と旅する男》(2023)より

オペラ《押絵と旅する男》でも、この言葉とリズムの問題は大きな課題として取り組んだが、未だ最適解を見出せずにいる。うまく言葉とリズムと音が噛み合っていないと感じる箇所も残っている。そして今現在、新作のオペラに取り組んでいるところでもあり、そちらではより林檎スキルを活かした「音読みの熟語が多く出現する作品」を現在進行形で模索している。それによって新しい日本語リズムの発見があるのか、それとも特にないのか、どう転ぶかは私にもわからない。

どんな音楽でも、どんなコンテンツでも、楽しんでほしいし、楽しみたい

 ここまで、VOCALOIDを軸にしたサブカル/ポップカルチャーと芸術について、そして日本語のオペラについてを語ってきた。どちらも、完全100%エンターテインメントというわけではないが、かといって、オーディエンスに深い音楽理解や造詣を求めるわけでもない。その曖昧さ、いや、バランスが、結局のところ私には大切なのだと思う。

高尚で真面目な快楽だけを強調するひとは、自分で快楽を減らしているのである。彼は自分が楽しめるものをたえず制限する。そして、よい趣味をたえず発揮した結果、ついに彼はいわば自らに高値をつけすぎて市場から姿を消してしまうようなことになるだろう。

スーザン・ソンタグ 「キャンプについてのノート」(ちくま学芸文庫『反解釈』より)

✳︎column✳︎ 怪奇と音楽

 実は都市伝説も結構好きです。ホラーが好きというよりも、伝説のナラティヴ性に惹かれます。そして都市伝説を元にした作品や、怪奇現象を「イリュージョン」と捉えて音楽に落とし込んだ作品もこれまでに書いてきました。

《スクエア・ポルターガイスト》for 2 Cello players(2023)

Ⅰ.ストライプ Ⅱ.ボーダー Ⅲ.スクエア
 「スクエア」という都市伝説があります。部屋の四隅が物語の舞台という、なんともコンセプチュアルな設定の都市伝説です。詳しいことはググっていただければと思いますが、簡単に説明すると、知らないうちに人が増えてるーわーコワーイという話です。この都市伝説から着想を得て、2名のチェロ奏者のための作品を書きました。コンセプチュアルな都市伝説に肖って、作品も少々コンセプチュアルに仕上げてみました。目論見としては、舞台上にいるのは二人なのに、二人以上の音がする、「聴覚上の人数操作」イリュージョンをお聴かせするというものです。

《スクエア・ポルターガイスト》(2023)より

《ペポリカ ピリカ レパプリカ》for Alto saxophone (2020) 

 こちらは、某小説から作品の形式(時間の扱い方)の着想を得て、一人で二役を演じる構造を取り入れた、ちょっぴりミステリー要素を含む作品です。マルチタスクに翻弄されるサックス奏者をただ見て聴くだけでも楽しめるかもしれませんが、もっと俯瞰して構造から捉えてみると、違う人物が見えてくるかもしれません…。

《ペポリカ ピリカ レパプリカ》(2020)より

参考文献

鮎川ぱて『東京大学「ボーカロイド音楽論」講義』文藝春秋、2022年。
江戸川乱歩「押絵と旅する男」『江戸川乱歩全集第5巻:押絵と旅する男』光文社、2005年。
江戸川乱歩「屋根裏の散歩者」「江戸川乱歩全集第1巻:屋根裏の散歩者」光文社、2004年。
江戸川乱歩「一人二役」『江戸川乱歩全集第1巻:屋根裏の散歩者』光文社、2004年。
江戸川乱歩「湖畔亭事件」『江戸川乱歩全集第2巻:パノラマ島綺譚』光文社、2004年。
江戸川乱歩「鏡地獄」『江戸川乱歩全集第3巻:陰獣』光文社、2005年。
折口信夫『言語情調論』中央公論新社、2004年。
北村匡平『椎名林檎論:乱調の音楽』文藝春秋、 2022年。
丹羽みさと「覗かれるもの/覗くもの:「押絵と旅する男」再考」『大衆文化』第21号、立教大学江戸川乱歩記念大衆文化研究センター、 2019年、85-100頁。
林光『日本オペラの夢』岩波新書、 1990年。
スーザン・ソンタグ「〈キャンプ〉についてのノート」『反解釈』喜志哲雄(訳)、筑摩書房、1996年。

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