広がる関心
——まず、宮内さんの音楽の原体験から伺えますか?(小島)
宮内康乃さん(以下、宮内):母が音楽好きで、バッハやモーツァルト、ベートーヴェンなどのレコードをよくかけていました。それから、通っていた教会の幼稚園で「お祈りの時間」があって、そこで聴いた教会音楽は、私にとっての原体験のひとつだと思います。どうやら先生がオルガンで弾いてくれる曲を耳で覚えて自分でも弾いたりしていたようで、先生が母に「この子は耳がいいですよ」と言ってくれたという話も聞いたことがあります。実は伯母が作曲家なんです。だから、「作曲をする人」がいることは子供の頃から知っていましたし、自分は演奏するよりも作る方に興味があるなと徐々に気づいていきました。
——作曲の勉強は、その叔母さんのもとではじめられたのですか?(小島)
宮内:残念ながら伯母から作曲を習う機会はありませんでしたね。今思うと本当に悔やまれます。伯母は母とはすごく歳の離れた姉でしたが、とても厳しい人だったようで、母が子どもの頃に少しピアノを教えてもらったりしましたが、 フェルマータかなにか、わからない記号があったときに「これなに?」と聞いたら、「あなたそんなことわからないで、いままで習ってたの?もう教えない!」って怒られて(笑)。それから本当に教えてもらえなかったとか。なので、母も私が作曲を学びたいと言った時、すぐに姉に頼むのはちょっと躊躇したのかもしれません。結果、専門的に作曲を習いはじめたのはすごく遅くて、正直に言うと、高校を卒業してからです。ピアノはといえば、4歳くらいから習いはじめ、中学生の時には都立芸術高校のピアノ科を受験しないかとピアノの先生に勧められました。その時にも先生に「私は作曲で受けたい」と言ったら、「まだ何も習ってないのに無理よ」と言われてしまい、少しピアノ科受験に向けて勉強しましたが、受験に向けてピアノを弾くことが苦しかったし、早くから音楽に道を限定してしまいたくないなとも思って、結局、普通高校に行くことに決めました。いろんな将来の可能性を残したいと思ったんです。当時はクラシック以外のロックやポピュラー音楽なんかにも興味が出てきた頃だったので、ギターを習いたくて高校ではフォークソング同好会に入り、そこで友達と自分で作った曲を演奏したりもしましたし、他にも写真部で焼き付けをしたり、山岳部で山に登ったりと、趣味の幅は広がりましたね。本当はピアノの先生に、「大学で作曲を学びたいなら、高校入ったらすぐ作曲の先生について習ったらいい」と助言も受けたのですが、私は早々と決められた道筋で、受験に向けて音楽をやることがどうしても抵抗があり、結局始め損ねてしまいました。
——大学受験の際には、東京学芸大学への進学を決められました(小島)
宮内:そんなうちに高3になってしまい、音楽の道に進みたいけど受験のための作曲の勉強は始めてないままという状態でしたので、大学受験の時は、まず長年やってきたピアノで受けて、入ってから作曲に転科すれば良いや、と甘いことを考えていたんですよね。でも、学芸大は募集人員がとても少なく、合格できるのは数名のみ、とかなり狭き門で…。ピアノを本気でやりたいわけではない私が受かるほど甘くなく、学芸大しか受けなかったので結局、浪人することになってしまって。でも、本当は作曲を学びたいのに、再びピアノを一生懸命練習して受験する気も起きず、悩んでいました。その時、高校の音楽の先生が国立音大の作曲科ご出身だったことを思い出し、相談しました。「私、作曲をやりたいんですけど、いまから一年間で勉強して来年受験するのは、さすがに無理ですよね…?」と話すと、意外にもさらっと「普通は高校に入ってから三年ぐらいかけて赤・黄色・青という信号機みたいな本で和声の勉強をするんだけど、がんばって1年でやれば、受験できなくはないよ」と言ってくれたんです。「じゃあやります!」と翌日には和声の本を買いに行き、その先生に習い始めました。そこから1巻と2巻を2ヶ月ずつ、夏までに2巻まで終わらせ、3巻を残りの時間でやって、受験まで本当に1年間で終わらせました!
——すごい熱量ですね(小島)
宮内:私、一度スイッチが入ると結構ガーって行くタイプだったので(笑)。ただ、2巻が終わったタイミングで先生から「僕はこれ以上教えられないから誰か他の先生を探してくれ」と言われて、 さあどうしようと。ちょうどその夏、学芸大の作曲家の人たちの作品発表会があることを在学中の先輩から教えてもらって、聴きに行き、打ち上げにも連れて行ってもらったんです。その時にたまたま隣に座っていた作曲科の学生の方に、「和声の本でわからないところがあるので教えてください」と頼んで、その場で教えてもらったりして(笑)。そのまま無理やり「実は今、先生探さないとなのですが、これからも見てもらえませんか?ちゃんとレッスン料払いますから!」ってお願いしたら、引き受けてくれたんです。それからは、まだ入学してもいないのに、毎週のようにその学生さんに習いに学芸大の個人練習室に通いました。入る前から音楽科の学生たちにすっかりお世話になって、もうこれは落ちられないなと(笑)。
さらに運よく、私が浪人した年から、ちょうど受験の仕組みがかわって、教員養成課程の小学校免許をとるためのコースを作曲で受けられるようになったんです。それまではピアノや声楽といった共通科目で受験して、三年生から専門が分かれるという仕組みだったんですが。それもあって、本当に一年の勉強でなんとか作曲専攻で合格することができました。ただ、もっと専門的に作曲を学びたいし、教職関連の授業と私が本当に履修したい作曲関連の授業が重なったりして、履修がうまくいかなかったこともあり、途中で芸術文化課程の作曲専攻に転科し、そちらを卒業しました。
——大学時代には、どのような音楽を聴き、どのような作品を書かれていたんですか?(小島)
宮内:作曲の勉強をはじめてから、聴くものの幅は広がりましたね。フランス印象派の和声から影響を受けたり、ストラヴィンスキーにも一時期はまって、変拍子のリズムや土着的な力強い大地の響きみたいなものに惹き込まれて、スコアを見ながら集中して何度も聴きました。大学一年生の終わり頃に聞いていたのは、そういうものです。大学二年生のころには、ジョン・ケージやモートン・フェルドマン、スティーヴ・ライヒといったアメリカの音楽にも影響を受けました。そのころ、ペーター・ガーンさんというドイツ人作曲家に音楽科の友達とドイツ語を習っていたのですが、彼は学生によるミニコンサートを企画してくれたりしました。そのコンサートで向き合った2本のトランペットの音を微妙にずらしていく曲を発表したところ、「あなたの曲はフェルドマンに似てるね」と言ってくれて、それで興味をもったんです。当時は、ミニマルに影響を受けたような、音を重ねたりずらしたりする曲なんかも書いていましたね。
いまにして思えば、ペーターは、自身の作品のおもしろい現場を覗かせてくれましたね。能の津村禮次郎さんと三味線のデュオの現場や、ガムランの現場もあったように思います。彼はある意味で「ドイツ的」というか、「あなたは何を表現したくてこの曲を書いたんですか」「なぜフルートとピアノを選んだんですか」といった、単なる技術的なことを超えた、本質を考えさせるような問いを投げかけてくれました。
——大学ではオーケストラの曲なども書かれましたか?(小島)
宮内:学芸大は学生の人数が少なく、音楽科の学生だけでオケを組めないので、他の大学のようにオーケストラの曲を演奏してもらう機会というのがなかなかなく、どうしても編成の小さなものでないとむずかしいところはありましたね。大学の授業でオーケストレーションとかをきっちり学べるカリキュラムがあったわけでもなかった。
私は当時映像の音楽がやりたかったので、映画研究会に入り、そのサークルで撮った自主映画の音楽を作ったりもしました。いわゆる「宅録」というのか、学生センターの機材を借りてきて、友達を巻き込んで演奏してもらい、自分で録音したり。当時、私の身近でもコンピューターが日常的に使われ始めた頃で、大学二、三年生くらいの時に家族でノートパソコンを購入して、自分で録った音を波形編集ソフトでいじったりと、独学で色々とやっていました。サークルでは、美術科の学生たちと接する機会が多かったのですが、かれらは現代音楽を含む色々な音楽や映画、演劇なんかに通じていて、刺激をもらいました。映像を作っている学生の作品に私が音をつけて、大学祭のときにゲリラ的に壁に上映するなんてこともしましたね。音楽以外のアートとの繋がりに興味があって、それは卒業後に岐阜にある情報科学芸術大学院大学(IAMAS)へ進学したこととも関係してくるんですけど。
テクノロジーとの出会い、「起源」への遡行
——IAMASを受験された経緯はどういったものでしたか。(小島)
宮内:そのきっかけがまさにペーターなんですよ。当時、もし学芸の大学院に行っても今の環境を2年間延長するにすぎないのかなという思いがあったし、サウンドアートやコンピューターを使った作曲にも興味があったのでそういうことをもっと幅広く学べる大学院に行きたいとペーターに相談したら、IAMASについて教えてくれました。「IAMASに行くんだったら、とにかく三輪眞弘さんに会いなさい」と言われて、夏のオープンキャンパスの機会に岐阜へ向いました。いざ、三輪さんに会ってみると、「一体何がやりたくてここに来たいんですか?」ということを厳しく言われてしまって。私のなかで、やりたいことが明確になってないのを見抜かれたんです。それで、その時は落ち込んで帰ってきました。。その後に芥川作曲賞の本選で三輪さんの作品を聴いたんですけど、その響きが今まで聴いてきた現代音楽とは全く違う感じがして、魔力に取り込まれるというか、「なんだこれは!?」と衝撃を受けました。アルゴリズムで作品を作っているとか、彼の「逆シミュレーション音楽」というコンセプトとか、当時は何も知らなかったんですけど、とにかくその不思議な力に惹かれて 「この先生のところで学んだら新しいことが見えるんじゃないか」と思いました。それで、メディア・アートやコンピューター音楽の素養もほとんどないままに受験して入学してしまったんです。
——IAMASはどういった環境でしたか?(原)
宮内:学生は、いわゆる工学系の大学出身の人や、アートにしてもテクノジー・アートをやってきた人がほとんどで、ゼロからスタートなのは私ぐらいでした。授業では、先に話したペーターの問いと同じように、とにかく言語化を求められましたね。「自分がなぜこれを選んだのか。なぜあなたは赤を選ぶのか。その意味をよく考えて言語化できなければいけない」というところがあって。先生たちからはアーティストの視点から、作品についてかなり厳しく批評されました。おかげで深く考え、言語化する力はつきましたが、当時ゼミでは、毎回ボロボロでした。課題も多くて、「来週までにこのプログラミングソフトでゲームを作って出しなさい」とか、素養が全くない私には不可能な課題で、フランス語がわからない私に「来週までフランス語で論文書け」というくらい難題でした。だいぶ追い詰められていましたが、東京のように気晴らしに出歩ける場所もないし、ただひたすらに学校と寮を行き来する日々で、毎晩深夜に田んぼの畦道を寮まで自転車で走りながら「もうこの夜の闇に消えてなくなりたい」と思っていました。
何もできない自分が本当に情けなくて、学校を辞めるしかないか悩んでいるうちに1年生の終わりの年次発表に向けて、今後の研究計画についてプレゼンする場面がやってきました。私は覚悟を決めて「もう何をしていいのか、何のためにここに来たのかもさっぱりわかりません」と正直に言ったんですね。そしたら、三輪さんに「はい、研究室に来なさい」と呼び出されて。「これまで色々学んできて、これも音楽かあれも音楽か、と価値観が広がったんだけど、結局なにがしたいのか全くわからなくなってしまいました」と相談したら、先生はちょっと嬉しそうにニヤニヤしながら「音楽とは何かということを、いちから徹底的に考えてみたらいいんじゃない?」と助言してくれました。
——そこから論考にもあった、音楽の起源という問いに向かわれるわけですね(原)
宮内:一年目にはメディア・アート的な作品に多く触れましたが、それが正直私にはそれほど魅力的に感じられなかった。複雑なプログラミングをして、スピーカーアウトでノイズミュージックのようなものを流すけれど、舞台上には誰もいない。身体が不在であることがとても不思議に思えました。私には単なる「技術の表明」みたいにも見えてしまったというか。そんな中、音楽の起源を求めて色々な民俗音楽を聴きはじめたら、ガーンと衝撃を受けたんです。それはほとんどが口伝で、人から人へと、ずっと変化しながら受け継がれてきた生きた音楽です。例えば、プロ、アマの区別なくその村にいる人なら誰でも演奏できるとか、普通の床屋のおじさんが四分の一微分音で歌えるけど、彼らにとっては当たり前だったりとか。音楽が特別なものではなく、日常の中に自然に存在するものだということに感動したんです。「私が本当の音楽だと思うのはこれだ」って。 私がそれまで音楽と思っていたものは、西洋という地域の音楽の価値観だったなと気づきました。西洋音楽では綺麗に揃えることが美しいとされるけれど、そうした西洋からすればズレや唸りなど、ノイズとされるものを大事にする価値観もある。IAMASで色々と新しいテクノロジーを知った上で、そういった人々の関わりのなかでかたちを変えながら生きている音楽を作るには、どういう方法論が考えられるだろうか。この問いが見つかったとき、ようやく私はスタートラインに立てたんです。それがIAMASの二年目です。
——その問いは、どのように修了作品である《breath strati》へと結実していったのでしょうか?(原)
宮内:IAMASに進学して、音楽と私の関係に「テクノロジー」という新しいベクトルが入ってきた時に、それらをどう繋げていくか、そこが最初はなかなか見えなかった。では、テクノロジーも最初から拒絶しないでまずは挑戦してみよう!と少しプログラミングにも挑戦していました。三輪さんのゼミでの課題のなかで「来週までに、世界中から30個の数列を見つけてきて、それを音楽にしなさい」というものがあって、私は、たとえば長崎県の年間降水量をダウンロードしてきて、Max/MSPで とにかくパッチを作って、まずはピッチに当てはめ、その次にはビートに当てはめといったように色々試したんです。だけど、なかなか音楽的にならず、壁にぶつかっていました。そのとき副査である映像の前田真二郎先生から「宮内さんは、数列を音楽にするのにあんまり向いてないと思う。もっと有機的なものの方がいいんじゃない」とアドバイスをいただきました。そのときに、 呼吸のような人間の体が持っている自然のリズムに注目したらどうだろう、みんなが違う呼吸のタイミングや長さを持っているし、それをトリガーにして、音を変化させたらどうだろうとか、色々なアイデアが浮かんできました。
それで、同じIAMASに通う女子学生に声をかけて、集まってもらって、実際にやってみると、呼吸は人と一緒にやっているとだんだんシンクロしてしまうといったような、Maxでシミュレーションしていた段階ではわからなかったことも、見えてきました。では、シンクロしてしまったらそれをトリガーとして、次にどうするか。こうしたトライ・アンド・エラーを繰り返した上でルールを修正していって《breath strati》が完成しました。
——民族音楽のなかに発見したものはどのように活かされているんですか?(原)
宮内:こうしたことは民俗音楽とも一致するところなんです、楽譜のない音楽にはシンプルなルールがあって、何らかの変化や次の展開のきっかけとなるトリガーがあるわけですね。太鼓がこういう合図を出したら、次に進むとか。でもそれはあらかじめプログラムで確定できることではなく、人がリアルに関わりあうからこそ生まれる予測不能な面白さなのです。また、民俗音楽を聴いたときに、その中心に「倍音」の存在があるのに気づいたことも大きかった。倍音を一番簡単に作れるのは声だなと思ったのですが、ホーミーや倍音唱法には男性の地声のものが多い。そこで、世の中にあまりない、女声のファルセットを使ってみようと考えました。声は、身近にあって一番実験しやすいし、音楽的なバックグラウンドがなくても誰でも参加しやすいものでもあります。
それから、実験に参加してくれた人たちは同じIAMASの女子学生たちで、美術畑の人も多かったので、最初は声を出すことに慣れていなく、細い声しか出なかったのですが、だんだん皆さんのびのび声が出るようになって。ああだこうだ言いながら練習してるうちに、どんどん豊かな響きになっていって。ある意味でプロの演奏家ではない人たちとやる面白さみたいなものにも、そこで目覚めたと言いますか、かけがえのない体験でした。
——その場合、テクノロジーはどのような位置付けになるのでしょうか?もちろん、トリガーなどを組み込んだコミュニケーションの仕組みもひとつのテクノロジーと言えるかとは思いますが。(原)
宮内:私にとっては、一つの道具ですね。例えば、シミュレーションでコンピューターを使うことはあっても、それ自体が表現の目的になることはない。一緒に何かをして感じ取る体験、人と人を繋ぐメディアとしての音楽というものが大事であって、それが実現できればどのような技術を使っても良いのですが、私はやっぱり生の身体や声を通してコミュニケーションして音楽を生み出したいと思います。
——いま改めて、電子的な音を採用しようと考えることはありますか?(小島)
宮内:今の時点でもないですね。やっぱり私は、有機的なものがはらんでいる自然界の神秘や不確実性みたいなものに興味があるんです。そして音楽自体がある意味メディアになる、つまり何かのつなぎ目になるために存在していることを重視しています。そうすると、音楽はコミュニケーションの結果二次的に生み出されるもので、単に物質的に音を生み出すことには、あまり意味が感じられないのです。
ただ、AI同士に同じようなルールを当てはめた時に、 そこでコミュニケーションが起きて、コミュニティが成立したりするのかといった問いには興味があります。AI同士が音を通して他者を感じ取り、互いに思いやれるのか。それは興味深いですが、できないでほしいとも思いますね。やはりそれは唯一生物にしかできない部分であると信じたいというか。あるいは、演奏にしてもコンピューターがどんどん性能がよくなって人間にとって代わるような演奏ができるようになったとして、そこで感動が生まれるかといえば、私はそうではないと思います。感動を受けるのは「技術」ではなく、音の内に込められた「エネルギー」ではないかと思うからです。コンピューターシミュレーションを通して、人間と機械の違いとか、人間にとって音楽とはなにかといった、物事の理解が進むことはあるかもしれませんが、私がアウトプットにおいてテクノロジーを中心に据えて何かしようとはおそらく思わないです。
音楽の継承という問い
——宮内さんが取り組まれている「つむぎね」は、さきほどの《breath strati》制作の流れで結成されたグループなのですか?(原)
宮内:大学院を卒業した後に東京でIAMASの学外展みたいなものがあり、そこで《breath strati》を発表することになりました。元々のメンバーにはもう卒業した人も多くて散り散りになっていたので、東京を中心としてメンバーを集めて上演しました。今後も同じような機会があったときに演奏してくれる人たちを募りたいなと思ったのが「つむぎね」のきっかけですね。なので、大々的にグループを立ち上げようと気負って始めたわけじゃないんです。
——「つむぎね」は、どれぐらいの期間、どれぐらいの密度でリハーサルを行っているのですか?(坂本)
宮内:「つむぎね」で何かをやるときには、3ヶ月ぐらい前から複数回のリハーサルを行います。最近では、だいたい5、6回ですね。作りとしては舞台に近いので、空間の演出とか移動とか全部を通して、楽譜もなく一連の流れを作りあげるのにはそれなりに時間はかかるんです。一般的な音楽のリハーサルよりは数は多いと思いますが、いわゆる演劇などの舞台の人たちからするとそれほどでもないですね。
大体の場合、私が最初のリハーサルに作曲のアイデアを持っていきます。やってることは大学院の頃と大きくはかわりませんが、最近は、もうコンピューターなしで脳内でシミュレーションしています。こうなったらこうなるという道筋が、経験を積むなかで、ある程度想定できるので。もちろん、ルールを説明して実際に音を出してみたら、あんまり面白い展開にならないな、ということもあるので、そういうときは、その案はボツにしてみんなでわいわい、忌憚なく意見を出し合いながらやります。そこはかなりフラットです。誰かが勘違いしたことが起点になって変容していくこともありますね。
——脳内でシミュレーションされるときには、ルール先行で作るのか、それとも出てくるであろう音響を第一に考えるのか、どちらのことが多いのでしょう?(原)
宮内:両方合わせて考えますが、比較的、ルール先行のことが多いです。音楽上の構成のようなものをいくつか考えて、どういう順番が良いかとか、こことここのあいだにはどういうシーンを入れようかとか、そういったかたちでプログラミングしていく。最初のリハーサルの段階では、全部の構成が決まっていないことがほとんどです。「今日はこのネタをやります」「次回はこれとこれ」といったように試して、リハを重ねた後半で、各曲を繋いで構成していく。そのときにも、いろいろとフォーメーションや動きなんかをトライ・アンド・エラーしながら作っていきます。
それから、空間ありきで考えることもありますね。この空間でやるんだったらこの場所を使いたい、という発想で組み立てていく場合です。 例えば2023年にガムランの曲(《S i n R a》)をやったときの会場はサントリーホールでしたが、後ろにも客席があるホールなので、そこから音を出したいとか、そこから後半どう舞台面に降りてこようかといったことを念頭に、それに合う曲の構成を考えました。それから、以前「つむぎね」のパフォーマンスを見た文化人類学の先生から「儀礼的に見える」と言われたこともあるのですが、それまでそのようなイメージで作っていたわけではなかったのですが、ではあえて儀礼の「次第」に則って作ってみたらどうだろうかという発想で、「神降ろし」と「神送り」のような流れをベースに作ったこともあります。
いずれにせよ、半分ぐらいは、ざっくり組み立てておいて、あとは実際に現場でやりながらブラッシュアップしていくという、ワーク・イン・プログレスのスタイルです。楽譜としてまとまるのは、曲を全部演奏した後という感じです。リハーサルの前に曲が完成しているのが一般的でしょうが、私の場合は、すべて終わった後にルールが確定する。
——《breath strati》について論考で書かれていたように、その確定されたルールも、完全に固定されているわけではなく、変わっていくんですよね?(原)
宮内:ええ。あの曲は3人以上20名程度なら何人でも演奏できますが、5人でやるのと20人でやるのとでは呼吸の繋ぎ方も変わってきますよね。多い場合は速く繋がないと一呼吸の間に全員回らない。逆に少ない時はゆっくり繋がないと途切れてしまう。いろいろな状況で演奏するなかで、今まで気づかなかったことに気付かされます。それで、「じゃあこういう場合はこうしようか」っていう風に、またさらにルールが改正されていく。最近も《breath strati》を演奏した時には、何回かやっているメンバーと初めて参加する人とがいたんですが、経験者たちが「こういう状況になったら、こうするんだよ、ああするんだよ」と一生懸命に説明してくれていて、作曲者が何も言わなくても演奏者同士で解釈を教えあうのは面白いなと思いました。経験を積むなかで、暗黙のルールみたいなものもできあがっている。ガムランでも同じことですよね。作曲者不明の曲を、あるグループと別なグループとでは違った風に演奏している。演奏のたびに、勝手にアレンジが加えられていって、異なる表現になる。私は枠は設定しているけれど、自然と変容していっても良いと思っている。そういう余白を持った作り方をしています。
——宮内さんの《mimesis》をやってみたいと思って楽譜を購入したのですが、実を言うと、どういう作品なのかあんまり想像がつきませんでした。それが論考に載せていただいた動画をみたらよくわかりました。西洋音楽だと楽譜が本体のようなところがあると思うんですが、宮内さんの作品の場合、楽譜を通じた伝達よりも、実際に居合わせたり体験する方が早いように思います。(坂本)
宮内:五線譜って本当によくできていて、読み方さえ知っていれば音を正確に再現できるじゃないですか。でも、私の楽譜(指示書)はルールをわかりやすく伝えるため、手を変え品を変え、文章で書き、図で書き・・・という感じなので複雑になってしまいます。直接説明したら簡単なことなんですが。
先日「つむぎね」をテーマに論文を書いてくれた大学院生がいて、彼女が「書く-読むを介さない音楽」と論じてくれたんです。 確かにそうだなと思いました。私の作品は、ベートーヴェン作品のように後世にもそのまま蘇らせられるようには残らないと思う。結局、口伝で、「つむぎね」のメンバー内だけで把握されていて、記録されていないこともたくさんあります。身体を通して伝えて、誰かがそれを覚えてて、次に伝える。ある意味で根源的なこの方法論を私は信じて、任せてみようかなというところですかね。
そのときに、かたちが変わってもいいし、私の名前が別に残らなくてもいいかなとさえ思ってます。そういう意味では、一応譜面を記録として書いてはいますけど、それをそのまま立ち上げてほしいかというと、そうでもない。
——論考には誰でもできる音楽とありましたが、《mimesis》をみたときに、五線譜とはまた別のハードルの高さも感じてしまったんです。(坂本)
宮内:そうですよね。いま、五線譜が主流のなかで、あれを渡されたら、どう解釈するかも含めて、難しいかもしれない。そういえば、コロナ禍のころ、《breath strati》の譜面をタイ語に訳したものを、現地の何組かのグループに、一切説明抜きで上演してもらう機会がありました。伝統音楽をやっている人たちは譜面から少しはヒントを得つつも、結局自分たちの型で自由に演奏していたんですが、一方で高校の音楽の先生は、指示書をよく読み込んでほぼ完璧に再現できていたんです。なので、一応指示書を読めばルールはちゃんと伝わってこちらが意図した響きが再現できることはわかりましたが、やはりこの方は大学で西洋音楽をベースに学んでいたということが大きいと思いました。先ほど言ったように「書く- 読む」から立ち上げる音楽としてできていないので、文字として書き記す場合、結局どこかで西洋音楽の譜面の発想がベースにあると、私自身も感じていたんですよね。そうなったときに、「じゃあもっと誰にでも伝わるかたちで紙に書き記すか、でもそうしたら結局、従来の楽譜と変わらないことになってしまうし、映像や音源で残せば正解が1つに限られてしまい、解釈によって変化する余白が生まれなくなってしまう…」という葛藤が私のなかにあるんです。どうやって継承していくかというメディアの問題は、私にとって大きな課題です。
ゆるやかに開けた「場」へ
——宮内さんの作品の多くは、型通りのコンサートホールのためにチューニングされた作品ではないと思いますが、場についてのお考えを伺えますか。(小島)
宮内:確かに従来のコンサートホールや劇場には、なかなか合いづらいところがありますね。ひとつには、舞台面と客席とが明確に分離されてしまっていて、空間を自由に組めないという問題があります。もっと舞台と客席がフラットな空間の方が私の表現したいものには合っていると思います。それから、劇場は、それ自体には色がなく、会場、天候、時間などに関係なくいつでも同じ条件で上演できるよう、なるべくニュートラルであることが重要視されます。それは私の表現にとってはプラスにはならないんです。その場の変化に敏感に反応し、 空間自体が持っている独特の空気や響きをどう活かすかということが、私の表現の重要な要素のひとつなので。
——劇場の外の空間でのパフォーマンスなども考えられていますか?(原)
宮内:私がACCフェローで半年ニューヨークに滞在した時、例えば、美術館のエントランスホールで現代音楽のパフォーマンスをやるとか、貯水槽の残響を活かしてライブをしたりとか、島をまるまるパフォーマンス会場にしてしまうとか、いろんな企画を観られて面白かったです。日本では「決まった場所=文化施設」以外で何かをやろうとすると許可を得るのが難しかったりしますね。その辺がもう少し柔軟になったら、普段はアートに触れる機会がない人も思いがけずアートに出会うような場がゆるやかに開けていくし、ジャンルの垣根を超えたいろいろな取り組みが自由にできるようになると思います。
私は2025年4月から富士見市民文化会館「キラリ☆ふじみ」の芸術監督に就任しました。メインホールは音響が良く、館内はガラス張りで様々な空間が繋がって感じられ、外の水辺の空間と地続きな場所があったりするので、そういった個性的な空間を活かせたらおもしろいと思っています。それから、劇場を飛び出した活動もしたいですね。「キラリ」は、子どもからお年寄りまで、地域の人の居場所みたいになっていますが、それでもやはり一般の人たちにとって劇場はちょっとハードルが高い場所ではあると思うんですよね。地域コミュニティにもっとこちらから入っていって、ワークショップなど誰もが参加できるような企画をやりながら、それをきっかけに劇場にも関心を持ってもらい、足を運んでもらえたらと考えています。
——「芸術は日常の空間とは分離された特別なもの」という認識は根強いですね。そうした「非日常の体験」とは異なる芸術の在り方もあるわけですが。(原)
宮内:音楽は静かに聴かなきゃいけないと捉えがちなのを、もう少し崩せないかなと思います。それこそ盆踊りの輪やお祭りみたいに、どこからどこまでが演者なのかわからないような、輪に入って踊ってもいいし、傍で見てるだけでもいい。なんか食べながらぼんやりしてもいいし、おしゃべりしてもいい。舞台と客席の区別がフラットな、そういう場が理想ですね。
——最後に、改めて、今後のご活動や作品の展望をお聞かせいただけますか?(小島)
宮内:最近は、声明やガムランといったアジアの伝統音楽の新しい表現に挑戦しながら、それを舞台的なパフォーマンスと融合することに取り組んでいますが、それをもっと深めたいですね。論考にも書きましたが、ガムラン音楽には、ルールとトリガーによる無限の変化があると気付いたとき、自分のやってるアプローチとアジア的なアプローチが実は近いのではないかという発見があり、そこを活かしたいと思っているんです。西洋と東洋を対比したいわけでも、単に「アジアの音楽」をやりたいわけでもありません。私がやってきたシンプルなルールと自然の摂理に則って、様々なものが、自然に、もっと深いところで一体となった表現ができないかな、と。
それから、「つむぎね」はこれまで5、6人ぐらいでやることが多かったのですが、富士見市の機会をいただいたこともあり、もっと大きな編成で、それこそ一般の人たちにも参加してもらい、プロもアマも入り交じって作る新しいお祭りのようなパフォーマンスにも挑戦してみたいです。
2025年1月13日
Zoomにて
インタビュアー:小島、坂本、原