プログラムノート 宮内康乃

プログラムノート 宮内康乃

2025年4月11日

宮内康乃

《風の雫正倉院復元楽器のために》(2011)

編成:箜篌、方響、笙
委嘱、初演:2011年3月5日 神奈川県民ホール「千年の響き」
演奏:佐々木冬彦(箜篌)、神田佳子(方響)、真鍋尚之(笙)

再演:2015年5月2日 「妙音会Ⅲ」
編成:ゴシックハープ、アンティークシンバル、竽に変えて
演奏:彩愛玲(ゴシックハープ)、篠田裕美(アンティークシンバル)、中村華子(竽)

この作品は、堆積していく時間というのがテーマとなっている。木戸敏郎氏の復元楽器に関するレクチャーで伺った神道には時間の概念がなく、まるで版画を刷るようにずれた時間の音を空間に重ねていくという御神楽の話からインスピレーションを得、そのコンセプトを意識して作られた。よって、音がまるで堆積していくように、だんだん増え、重なっていくような構造になっている。

そして、この作品を含む私の作曲法の一番の特徴は、五線譜を用いず、人間の身体的特徴や楽器との関係を重視し、決められた音の並びやタイミングではなく、その関係ややりとりを指示するように作られていることである。五線譜から音を暗記して演奏するのではなく、楽器と身体の関係から音を紡ぐことによって、より身体感覚が有機的に音に反映され、お互いの呼吸を意識して奏することができるのではと考えるからである。この作品も、それぞれが楽器の配列と身体の関係による単純なルールをもとに音を出しあい、またお互いの状態をきっかけにして次の流れが決まっていく。音の長さや発するタイミングの指定はなく、お互いの呼吸で合わせ、笙の場合は呼吸の長さが音の長さに相当する。特に今回のような古代楽器は、楽器そのものが非常に原始的な状態で、改良の歴史を辿っていないぶん、楽器それぞれが強い癖と質感の差を持っている。だからこそ譜面や西洋音楽の合理的な方法論では表現しきれない部分が多く存在する。もともとは身体と楽器の関係から音が生まれ、響くツボを探りながら音を紡いでいったに違いなく、身体の自然な摂理に即して曲の流れがあったはずである。よって、今回のようなアプローチこそ、このような楽器の魅力を最も引き出せる表現方法だと考えるのである。

この作品は、大きく3つのシーンに分けられる。それぞれを A、B、C とし、それぞれの演奏法をこれから述べていく。まずは、それぞれのシーンのコンセプトを以下にまとめる。

A このシーンは音の堆積がテーマとなっている。それぞれの楽器は、音数をだんだんと増やしながら、その響きが堆積し、降り積もっていく。時の砂がさらさらと降りつもっていくようなイメージである。
それぞれ一連の流れを4回繰り返して行い、繰り返す度に音はどんどんと低い位置に下っていく。そして、回を追うごとに、だんだんと流れが速く、大きくなり急き込んでいく。その流れを持って B に進んでいく。

B ここでは、Aの流れが一気に沈まる。まるで水滴が静かにランダムに水面に落ちるような、一瞬の音の質感や余韻、音と音の間の静寂の緊張感を特に表現したいシーンである。音を出すタイミングの指定はいっさいなく、お互いの呼吸と「間」の感覚を探りあいながら、その音の水滴を落とすタイミングを探りあう。笙の響きが点から線へと変わるのを合図に C へとつづいていく。

C ここは風の流れのような動きのあるシーンである。それぞれは同じことをひたすら繰り返しながらそのスピードと勢いを増していく。最終的に最も速くなり、その勢いで駆け抜けた音の長い余韻が残る。残った長い余韻のすべてが、空間に溶けて消え入るまでを音楽と考え、最後まで静かに耳を澄ませて聴き入る。

《Mimesis》(2011)

第6回JFC作曲賞受賞作品
編成:複数台の鍵盤ハーモニカ(3~20名程度の任意の数の奏者)
初演:2011年11月11日 トッパンホール 日本作曲家協議会「第6回JFC作曲賞」本選会
演奏:赤羽美希、大島菜央、坂本洋祐、ツダユキコ、中尾 果、福井香菜子、正木恵子、やまもとまりこ、渡邉達弘

この作品は、私独自の作曲法を用いて構成された曲であり、とりわけ「模倣」という表現に着日したものである。芸術、表現の生まれた原点は、自然界の模倣からである、と言われるほど、 一番根源的な表現法であり、もっともシンプルな方法である。小さな子供は、大人の行動や言葉をまねするところから人間としての営みを覚えていき、このことは人間に限ったことではなく、すべての動物に共通して言える。音楽も、伝統的に受け継がれているもののほとんどは、このように先陣の演奏を聴き、それを模倣するという方法で伝わってきた。また私自身は、作曲する際自然界の流れや変化からもっとも多くのインスピレーションを受けるので、自然界の現象から学び、模倣することが、作品を作る上での根幹であるという意味も含んでいる。今回は、この最も単純で根源的な方法をもとに、まるで木々のざわめきや虫たちの歌声のような、音のゆらぎを生み出すことに挑戦した。タイトルの「mimesis」とは、ギリシャ語で「模倣」を表す言葉であり、その言葉は、「自然界を模倣する芸術の根源思想」を表す意味も持つ。

この作品は、まず音のパルスからロングトーンヘの移行から始まり、しだいに自身の鳴き声を各々奏で始め、それを模倣しあうことで最終的に一つの響きへとたどり着く、という流れでできている。また、すべての音の長さは自身の呼吸の長さに相当し、呼吸の違いが音の長さやボリュー ムの変化を生み出していく。最後には同じ一つの音で呼吸のゆらぎを重ねることにより大きなーつの響きの伸縮やうごめきを形作る。とくに音の「疎」と「密」のバランス、そして全体のダイナミックレンジの変化を意識して、音が空間の空気としてうごめき、霧のようにすっと消えていくまでの時間を最も表現したいと考える。さらに、どのシーンもお互いの音や全体の変化をよく聴きあわないと模倣しあえないということもあり、今形作られている響きそのものを「よく聴く」という行為の大切さ、また、まるで会話をしているような音を通してのコミュニケーションの部分も表現したいと考えた。

そして、今回は特に、「鍵盤ハーモニカ」という楽器の特性を生かすことも作品の大きなテーマと考えている。正当な楽器群からは外されがちな存在だが、非常に魅力的な音を出し、また演奏が比較的容易であるため、誰でもすぐに演奏しやすい楽器であるという大きな利点を持っている。以下に私の考える鍵盤ハーモニカの特徴と魅力を述べ、なぜ鍵盤ハーモニカを用いるのかについて述べる。

鍵盤ハーモニカとは…

日本ではいわゆる学校教育の現場で、教育用楽器として用いられ、「吹く」ことと、鍵盤を指で「弾く」ことが融合した独特の楽器である。また、吹奏楽器でありながら、単旋律楽器ではなく、複数の音を同時に奏でられるのも大きな特徴である。

1.子供から使えるとても簡単な楽器

子供でも使えるとても簡単で身近な楽器であるので、比較的誰でも演奏をすることが容易である。しかしシンプルなわりに表現力にすぐれ、息により、音のボリュー ムの変化が自在に表現でき、指使いで細かいパッセージも素早く演奏できる。また、ものすごく小さな圧力で音を出すことができるので、肺活量が弱くても音を出すことが容易である。

2.高音部の神聖な響き

同じリード楽器で構造上似ているということもあるが、とりわけ高音部の響きは、まるで笙やパイプオルガンを思わせるような神聖で崇高な響きがする。また、とても小さな圧力で、本当に繊細なピアニッシモの音が出せるので、高度な技術を持った演奏家でなくても、ピアニッシモによる美しい高音が表現しやすい。また、この音色は、日本人にとっては学校で音楽の時間に使う「鍵盤ハーモニカ」というイメージを覆す音色であり、そのギャップにますます感動を覚える。

3.音程が安定しない安価な楽器の魅力

鍵盤ハーモニカはいわゆる「教材用」としての用途が高いため、西洋楽器に比べれば安価で手に入る一方、調律が非常にズレやすい。その結果、楽器によって同音でも少しずつピッチがズレていることが多く、2台の楽器で同音を重ねた時に、その微妙な周波数のズレにより、強いうなり音が発生する。このうなりの響きがなにより魅力的と考え、まさにその響きの変化を表現したいと考える。(よってこの作品では、極力調律をせず、それぞれのピッチがズレた状態で楽器を使用してほしい。)

また、音の重なりあいにより強い倍音が発生し、まるで鈴の音のような強い高次倍音や、逆に「ぐぐぐ」とうなるような低次倍音も多く発生し、吹いている音以外の複雑な響きがたくさん同時に生まれる。このような二次的に生まれる複雑な音の重なりあいや、有機的なうごめきも私の表現したい音の大きな特徴である。

以上のような点から、鍵盤ハーモニカがこの作品に最適で、その楽器の特徴を活かした楽曲を制作したいと考えた。

◉新作聲明《海霧讃歎》(2012)《海霧廻向》(2021)

《海霧讃歎》委嘱、初演:2012年10月8日 神奈川県立音楽堂
《海霧廻向》委嘱、初演:2021年3月6日 やまぎん県民ホール
演奏:声明の会・千年の聲
詳細

 「海霧に とけて我が身も ただよはむ 川面をのぼり 大地をつつみ」

《海霧讃歎》は、この短歌と、そして作者のご子息である佐藤慧氏、晃氏ご兄弟との出会いから生まれました。東日本大震災から半年の頃、東京のとあるギャラリーで、弟の晃さんが作られた震災ドキュメンタリー映像を偶然拝見し、陸前高田にて津波で亡くなられたお母様が生前に詠まれたというこの歌の存在を知りました。歌に詠まれた森羅万象に対する深い畏敬の念と愛、誰もがいつか自然に還るという達観した死生観に深く感銘を受け、また、その場で私の声の音楽を聴いてくださった晃さんからいただいた「その響きに救われた」という言葉は、私の心に強く響きました。音楽家の端くれとして、私も人々の心の救いとなる響きを生み出すことができないだろうか、と強く感じた矢先、聲明曲の作曲依頼をいただき、この《海霧讃歎》作曲につながったことは、なんだかとても運命的な気さえします。

楽曲は、あくまで現代に作られた新しい「聲明曲」であることを目指し、古典の旋律型やスタイルを継承した形で作曲し、博士(聲明独自の譜面)で書き記しました。また真言宗、天台宗それぞれの性格の違いをそのまま生かした旋律を、独自の作曲法で構成し、その二つを対比させながら何度も繰り返し、混ざり合い、中盤では僧侶たちが客席を縦横無尽に動き回りながら唱え、ホール全体に響きの渦を立ち昇らせ、まさに短歌に歌われている、響きの波に溶けて漂うような音風景を描き出しています。

《海霧讃歎》は2012年神奈川県立音楽堂での初演以来、おかげさまで多くの再演の機会に恵まれ、これまでに兵庫、静岡、愛知、山形、高知、栃木、東京など、日本各地で十数回にわたりお唱えされる機会を得ました。中でも2016年3月には、作曲当初からの願いであった、短歌の生まれた陸前高田での上演が実現しました。今度は兄の慧さんとともに、震災から五年の節目に被災地の皆さまにこの歌を届けたいと立ち上がり、地元の方々の多くの支えや奇跡のようなご縁に導かれるように、手作りでの公演が実現したことは、かけがえのない思い出です。

また、2021年3月の山形公演では、震災から十年という節目に、未来へ向かっていくラストにしたいと、新たに《海霧廻向》を作曲し、初演されました。《海霧廻向》には、兄の佐藤慧さんに、“返歌”となる「彼岸に渡り 銀河の砂塵と 散りゆきて なおもあまねく 命のほとり」を詠んでいただきました。その歌を初めて読んだ時、なぜだか被災地で慧さんが撮影された、更地に咲く一面のシロツメクサの写真が脳裏に浮かびました。どんな状況でも湧き上がってくる大地の生命力の強さのようなものを感じ、今を生きる私たちがどんな困難に打ちひしがれても、必死に向き合いながら、それでも生きていくしかない、という決意表明のようにも感じられました。そのようなインスピレーションを聲明の旋律に乗せ、ラストは《海霧讃歎》と《海霧廻向》が時空を超えて共に重なり合い、ハーモニーを奏でるように構成しました。

本公演は、このように震災から十四年の時を経て歌い継がれ、新たな作品を加えて発展してきましたが、今回いよいよ、両作品を含めた完全版を、改めて短歌の生まれた岩手の地に届けられることは感無量です。また、この作品の演奏が続いていくことが、震災の記憶の継承にも繋がればと願ってやみません。今年は阪神淡路大震災から三十年となる年でもあり、昨年の能登半島地震の復興もままならない状況です。地震や自然災害と隣り合わせに生きていくしかない私たちは、改めて《海霧讃歎》に歌われている、自然の恵みや脅威に対する畏敬の念を感じざるを得ません。もちろん、被災者に限らず、身近な方を亡くされたり、様々な苦しみに心を痛めていらっしゃる方にとって、この聲明の響きが、少しでも救いになることができればと願っています。

今日の響きが皆さんの心に息づき、これからの心の支えになれたら何よりです。

 (2025年3月1日 一関文化センター公演版)

《糸つむぎ視覚を用いないハープ独奏曲》(2014)

編成:独奏ハープ
委嘱・初演:2014年1月16日 東京オペラシティリサイタルホール 日本作曲家協議会「日本の作曲家2014」
演奏:内田奈織(ハープ)

この作品はハープ独奏曲だが、視覚を用いず、目を閉じて、もしくは完全なる暗闇で演奏するための曲である。それは、演奏者の身体と楽器の関係性を一度ゼロに戻し、技術や慣習を抜きに、新鮮に楽器の響きへと向かうことを狙うためである。視覚を使える状態で弦を選んではじくという前提をなくすことで、視覚なしでも感覚で演奏できるところ、逆に視覚に頼っているところを再認識することになる。それによって、楽器と身体の関係性を再認識することにつながるのではと考えた。

また、視覚を遮られることにより、耳や他の感覚が鋭敏になり、それまで気づかなかった微細な響きや感触の違いに気づくようになる。何の音を弾くという意識ではなく、何の音が響くか、という新鮮な音との出会いは、視覚を遮ることによって初めて感じられる感覚である。それによって、複雑な技術抜きにしても、たった1音の響きとその変化だけでも無限の広がりと色彩が浮かび上がることにたどり着けるのではと期待する。もっともシンプルな音の響きそのものへと向かうことにより、複雑さ、難解さではなく、シンプルさゆえの強さや、音の質感やニュアンスの違いを丁寧に描くような意識を開いて、演奏に臨んでもらえることを願っている。

よってこの作品において、五線譜による音の指定やタイムラインの構成はいっさいなく、どの音をはじく、という音の指定もいっさいない。与えられた4つのシーンそれぞれに単純な指示があり、それをもとに毎回新たな音を紡ぎ出していく。視覚が使えないため音を恣意的に選ぶことは不可能で、よって選び出される音は毎回変化し、演奏家の感性や身体的特徴によっても異なる響きが浮かび上がってくるだろう。また、Bのシーンでは、呼吸の音を重ね、呼吸の長さがそのアルペジオを繰り返す長さに匹敵する。すると呼吸の長さの違いによって演奏の長さも変わってくる。また、同じアルペジオを繰り返しながら意識しなくてはならないのは弦をはじく行為ではなく、自身の呼吸となる。結果として自身の呼吸の伸縮へと意識は向かっていくのである。私は、演奏という行為が、人に美しい音色を聞かせるため、という目的だけとは限らないと考える。元来音楽が生まれた本来のあり方としては、演奏行為=神と繋がる儀式や祈り、他者との呼吸を調和させるための手段、であったりした。この作品では、演奏する行為が、美しい演奏を、技術を駆使して表現したい、という恣意的な意識を離れ、見えない分それ以外の感覚を研ぎすまし、ひたすら弦を弾く行為へと没入し、自身の呼吸と向き合うことで、自分の内面へと向かっていく、ある種瞑想行為のようなあり方へ向かうことを望む。また、そういった状況で浮かび上がってくる響きが、聞き手の存在を意識して見せようとしている状態より、むしろもっと強い響きを生み出すのではないかと考えるのだ。

作者の期待としてはそういった境地を感じてもらえればと考えるが、演奏家の方には、これまでにない新鮮な状況で、音との出会いに意識を開き、新しい感覚を発見したり、慣れ親しんだ楽器との新たな再会の機会となっていただけたら幸いである。難しい解釈よりは、新鮮な心や身体の反応を感じ、その場で起きる未知の響きに素直に反応し、楽しんでいただけたらと願う。

《波の切れ間に風うたう瞬間とき》(2015)

編成:三味線、天台聲明、ヴァイオリン
委嘱:コロンビア大学中世日本研究所
初演:2015年11月9日 銀座シャネルNexusホール

再演:2016年2月 フィンランド大使館ほか
演奏:本條秀慈郎(三味線)、末廣正栄(天台聲明)、枝並千花(ヴァイオリン 初演)、佐藤公哉(ヴァイオリン 再演)

この作品は、俵屋宗達画、本阿弥光悦書による巻物「鶴図下絵和歌巻」をテーマに、三味線、ヴァイオリンと天台聲明ソロのために作曲したものである。巻物には万葉集からの三十六首の和歌が書かれており、全面に渡って宗達による鶴が折り重なって飛んでいく風景が印象的に描かれている。この曲では、その絵に描かれた、冬の海辺の鶴が飛び交う風景や空気、響きを音で描こうと、特に三味線の、通奏低音のように繰り返される開放弦のアルペジオをオリジナルの「波の手」とし、ヴァイオリンの細い糸のように伸びるポルタメントの旋律を「風の手」として風景を描写し、その中に、まさに絵の題材となったとされる、山部赤人の歌「若の浦に 潮みちくれば 潟をなみ 葦辺あしへをさして たづ鳴き渡る」を、天台聲明によって唱えられるよう構成した。

この曲には、全体の縦の重なりを固定する、いわゆるスコアというものは存在しない。3つのプレーヤーは、それぞれ自分の持っているタイムラインを、自分の間合いやテンポ感覚で進めていき、それがどう重なり合うかは毎回変化する。いくつかのシーンにより構成され、それぞれの終わりでは、息の音で風や波のような響きを奏する。それが他の奏者への合図となり、次の流れを決めていく。よって、時間の流れ方は流動的で、お互いの間合いや呼吸を聴き合い、リアルタイムに音の重なりを描いていくこととなる。

また、3つの共通点と差異に着目し、それを模倣することにより、伝統的な表現の中に新しい奏法を開くことを目指した。例えば、いわゆる西洋音楽のヴァイオリン奏法には少ない、ポルタメントや左手のピチカートは、聲明や三味線の要素を模倣する発想から生まれた。同じく、聲明には少ない子音や短いパルス音を三味線から取り入れ、新しい可能性へ挑戦している。こういったアプローチは、琳派の絵における「過去の作品を模倣し、そこから吸収したものを独自に発展させる」という重要なコンセプトと重なるものとして取り入れた。

《すまひのしらべ》(2017)

編成:2台ピアノ
委嘱、初演:2017年8月6日 両国門天ホール「第3回両国アートフェスティバル」
演奏:野村 誠、片岡祐介

相撲における日々の稽古、所作やお互いの呼吸を合わせる立会いの緊張感、そこから瞬発的なエネルギーのぶつかり合いと、毎回変化する勝敗、といった一連を、二台ピアノの掛け合いで表現しました。曲の前半は「稽古シーン」。朝稽古で日々黙々とそれぞれ基本動作やぶつかり稽古を重ねていきます。「四つ組」「四股」「てっぽう」など、相撲の基礎練に相当する演奏技法を、それぞれ自由に組み合わせながら稽古を進め、その重なり合いの関係性で毎回流れが変わります。

後半はいよいよ「取り組みシーン」。呼び出しから仕切り、立会いを経て、実際に取り組みを演奏にて行います。どのように取り組みを行うかというと、グランドピアノの響き線の上に紙でできた力士をそれぞれ立て、いわゆる「紙相撲」の要領で、鍵盤を弾くことにより伝わる弦の振動で、力士人形を動かして倒すように取り組みを行います。最終的に勝敗もつき、結果はわかりませんので、観客の皆様は本日の取り組みの流れと結果をお楽しみに、ぜひ掛け声や拍手で盛り上げながら応援お願いします。

《廻節楽複数の笙のために》(2017)

編成:複数台の笙(3~20名程度の任意の数の奏者)
委嘱、初演:2017年8月26日 東京オペラシティ 近江楽堂 shogirls定期公演「響会 Ⅵ〜新たな息吹〜」
演奏:shogirls(田島和枝、三浦礼美、中村華子)

この作品は、夏を送り出し、秋を迎え入れるため、三人の巫女たちが笙の演奏を通して行う密かな架空の儀礼のようなものをイメージして作曲した。

三人の笙奏者は、まず「夏送りの儀」で、異界の入り口を開けるように旋回しながら夏を表す「黄鐘調」の音を、各々呼吸の長さで奏し、その偶然の重なりあいで生まれるハーモニーが移ろっていく。その合間を縫って「虫の音」が静寂から少しずつ湧き上がり、徐々に賑やかとなる。夏の「蜩」の声はいつしか秋の「鈴虫」の声へと淘汰されていき、それを機に、夏から秋へと季節はうつり変わっていく。また、このシーンで夏を表す「黄鐘調」と次のシーンで用いられる秋を表す「平調」の音階で唯一異なる「比」の音から「言」の音へと切り替わり、調子も移り変わっていく。後半は「秋迎えの儀」とし、「平調」の音階による旋律を今度は逆に旋回しながら奏し、異界への扉を閉めていく。最後に一つとなった響きが消えていくと、儀式は静かに幕を閉じる。なお、初演は三人での演奏であったが、三人以上十数人くらいまで何人でも演奏可能である。

《S i n R aジャワガムランと声のために》(2023)

Ⅰ.水  −Jala 
Ⅱ.風  −Vayu
Ⅲ.地  −Prithvi 

楽器編成:Gender panerus、Gender、Rebab、Kendang dua、Ciblon、Sarong barung、Sarong demung、Slenthem、Bonang panerus、Bonang barung、Ketuk 、Kenong、Kempul、Gong、Voices、Melodicas、Gentorak、Tingsha、Ceng-ceng、Kajar
委嘱、初演:2023年8月27日「サントリーホールサマーフェスティバル2023」
演奏:マルガサリ(ガムラン)、つむぎね(声・鍵盤ハーモニカ・踊り)、ほんまなほ(ルバブ)
ガムラン・冒頭ワークショップファシリテート:宮内康乃

全編版はこちら

タイトルの「SinRa」は、〈森羅万象〉を意味しています。ガムランとは、万物を抽象化した象徴であると私は捉えており、この世の全て(宇宙)の円環構造を表していると感じます。生きとし生けるもの、生命の循環と自然界の巡りを描きたいと考えたこの曲では、仏教における、世界を構成する五大要素である「地・水・火・風・空」をテーマとし、その中から「水」「風」「地」の3つを楽曲化しました。よって将来的に「火」「空」も作曲することを目指しています。

楽曲は全て、・1・5・6・3・5・2・3・6という短い一つのバルンガン(骨格旋律)のみで構成されています。また、ガムランにはスレンドロ、ペロッグと2つの音階があり、古典曲では基本別々に使用しますが、この曲では時に重ね、それにより生まれる響きのズレやうなりを活かしています。3つの楽曲はそれぞれ独立して演奏可能ですが、私の表現の特徴として、一連をつないで1つのパフォーマンスとなるように構成しています。それは人々が長年行ってきた祭りや儀礼のように、音楽と踊りや祈りが渾然一体とし、観客と演者の境が曖昧な、より自然な表現だと捉えているからです。

それから、ガムラン音楽が持つ特徴を極力活かしたいと努めました。相似形構造、セレ1に落ちる感覚、Irama2の変化によるマクロとミクロの世界観や時空の伸び縮み、「インバル」「コテカン」などと呼ばれるインターロッキングな音構造、といった魅力的な特徴を取り入れ、自身の作曲法との融合を試みました。特に、「コミュニケーション音楽」であるという、二つの共通項であり、ガムラン音楽の最も神髄である部分を大切にしたいと考え、楽譜ではなくルールベースで作られています。そのため、他者とのやりとりで生み出される旋律やリズムは無限の組み合わせを持ち、誰かの合図で流れが多様に変化する「生きた音楽」が生まれる構造になっています。それは、私はあくまでも演奏を通して他者と、そして世界と〈深く響き合う〉ことを一番の目的としているためです。この複雑で多忙な現代に、それでも誰かと集い、音を重ねて響き合うということの〈意味〉を、私は音楽を通して発信していきたいのです。ガムランとの出会いによって、その生涯をかけた命題の、新たな道筋が見えてきたと感じています。

また、この作品は冒頭に観客との短いワークショップを実施し、観客の声による森の風景の音が描かれ、ガムランの音と重なっていきます。観客と演者の境界線を曖昧にし、誰もが響きの一つになり作り上げる音楽という、作曲のコンセプトが強く反映される、重要なシーンとなっています。

  1. セレ:一連の旋律の終始音 ↩︎
  2. Irama:イロモ、イラマと読む。テンポの変化を音の密度で表現すること ↩︎

(用語解説:中川 眞)
より詳細なプログラムノート

◉「つむぎね」関連パフォーマンス

photo by Kenji Kagawa

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