世界と響きあう術を求めて 宮内康乃 

世界と響きあう術を求めて 宮内康乃 

                             

世界と響きあう術を求めて

                                         宮内康乃

1耳を澄ます

耳を澄ます。

途端に、自分を取り巻く世界が、同心円状に広がっていく。

風の抜ける微かな響きや、人々の喋り声、遠くで電車が通り過ぎる音。木々の葉擦れや鳥のさえずりから、日の傾きや季節の移ろいに意識が向かう。

そうしているうちに、自分が次第に小さく目に見えない存在になっていく感覚になる。自分は世界の中の、ほんの小さな一点であることに気付く。するとだんだん、身体が透明になっていくように、私と世界との境界線がなくなっていく。

耳を澄ます、これは私にとって、一種の瞑想行為だ。そうやって私は時々、体に溜まった澱を浄化させていく。そして同時に、作曲するという行為の入り口でもある。

私はなぜ音を紡ぎ出すのか。

私にとって作曲という行為は、少なくとも「自己表現」ではない。もちろん私というフィルターを通しているので、紛れもなく「私らしさ」は音に反映されるだろう。でも、私なんぞというちっぽけなものが捉えられることなんて、たかが知れている。そんな矮小な自己の内面を他者に披露することにはあまり興味がないのだ。

それよりはどちらかというと、イタコのような感覚に近い。自分が「メディア(媒介)」となり、音楽の持つ、とてつもない力を、降ろしてきたいのだ。

音楽というものは、我々が普段意識する以上に、強い力を持つ。その力は太古の昔から脈々と継承されてきたもので、今でも人間が捉えきれないほどの、永遠の神秘でもある。私はその真実に少しでも近づけないか、ということを、活動の原動力にしている。音楽が持つその人智を超えた力が秘められた「神秘の箱」を、開けてみたいのだ。それは怖いもの見たさのような感覚もある。その箱の開け方が分かることは、悟りを開くことと同じなのかもしれないし、一生かかっても容易には辿り着けないだろう。開け方が分かってしまったら、そのかわり自分も滅びてしまうかもしれない。でも私はその箱を開けてみたい。そこに向かうことこそ、私が生きる意味だと感じるからだ。

それはなぜか。これを機に、まずは私自身の頭の箱を、開けてみたい。

2楽譜のない、生きた音楽

私は音楽を生み出す活動をしている。ということで、「作曲家」と名乗っているが、一般的にイメージされるものとは少し異なるかもしれない。紛れもなく「音」を表現の主軸に置いているので、私はそれを「音楽」だと捉えているが、身体や空間がシームレスにつながりを持つ表現ゆえ、音楽としてだけでなく、パフォーミングアートやサウンドアートの文脈で、また時には芸能や儀礼の一種と解釈される場合もある。私の中では、もともと音楽と舞踊や演劇、美術といった芸術表現、さらには祭りや宗教儀礼は不可分のものだと捉えているため、その立ち位置は一番腑に落ちている。では、まずは自身の音楽の特徴、コンセプトをまとめてみたい。

私の作る音楽は、基本的に楽譜を持たない。ここで言う「楽譜」というのは、いわゆる西洋音楽で用いられる五線譜のことを指す。事前に音高やテンポ、リズムなど、曲のタイムラインを書き記した設計図は存在しないのだ。だからと言って、設計自体がなく、感覚的に即興演奏をする、ということではない。音を指定しない代わりに、どのような行為をするかを指定した、確固とした「ルール」が存在する。そのルールは、言ってみればじゃんけんやサッカーのルールのように、シンプルなもので、理解すれば誰でも実行できるものだ。また、そのルールのトリガー(きっかけ)になるのは「呼吸」といった人間の身体に沿った有機的に変化していくものである。詳しくは、のちに具体的な作品例を挙げながら紹介するが、タイムラインを細かく指定した「楽譜」がなく、自然に変化するものを取り入れていくゆえ、演奏のたびに生まれる響きは生きて変化していく。

五線譜で記した音楽は、例えば、川の流れをコンクリートで固めるような感覚だ。そこに水が流れても、すでに決まったルートを通り、終着点に辿り着き、何度流れても必ず同じ流れを辿る。しかし私の表現は、始点から終点まで、ルートは必ずしも固定されていない。途中A、B、Cと中継地点でこちらへ向かうように、というトリガーは定められているが、AからBまで、どのように流れるか、それは毎回変化する。自然の摂理に従うのだ。私はそういった、自然の摂理に沿い、変化していく「生きた音楽」を紡ぎ出したいのだ。

もう一つ大事にしているのが、誰もが参加できる音楽、という点だ。近年は演奏技術もどんどん上がり、より専門性が増している。その一方で、ポケットに入るほどの端末でいつでもどこでも音楽を再生することができ、その場で人間が演奏しなくてもそれを楽しむことができる時代だ。よって演奏は一部の高い技術を持つ者が行う行為で、一般の人は聞き手に徹するといったように分業されがちである。しかし、本来音楽は誰もが奏でられるもので、共に奏でる、自分も響きの一部になるという行為からしか得られないものもある。よって私は、誰にでも参加の機会が開かれた表現を目指したい。

そこでたどり着いたのが、主に「声」という楽器を使った表現である。声は言わずもがな、誰もが持つ、そして皆違った音色を持つ、唯一無二の楽器である。そして、身体の摂理に一番寄り添った表現であり、その上、想像を遥かに超えた多様な音を、比較的容易に作り出すことができる。擬音であれば、むしろ大人より子供のほうが豊かな表現力を持っているし、言語の壁を超えて世界中誰とでも行うことができる。この「声」という表現の魅力に導かれ、今日まで多種多様な人たちとさまざまな実践をしてきた。

3音楽との出会いと歩み

私の表現の主なコンセプトを語ったが、なぜこのような表現に辿り着いたのか、今度は背景の部分に触れたい。

私が幼少期から主に親しみ、学んできたのは、西洋音楽だった。子供の頃から、音楽好きの母がよくレコードでクラシック音楽(今思えばバッハ、モーツァルト、シューベルトなど、ドイツ古典派の音楽ばかりだったが)をかけていた。通っていた教会の幼稚園では讃美歌やお祈りの時間のオルガン演奏などに触れることが多く、原体験としては教会音楽が私の音楽のルーツかもしれない。

いつからか音楽は私にとってかけがえのない存在になっていた。音楽に触れた時のこの上ない喜びに惹きつけられ、生涯を捧げたいと思った。徐々に、自分は演奏するより、創造するほうに興味があると気が付いた。習っていたピアノは、楽譜通りに弾くより、自由に即興するほうが好きだったし、中学時代に、自身が創作した合奏アレンジを演奏してもらう体験をした際、頭の中で鳴っていた音が、実際の音になった瞬間の、全身の鳥肌が立つような感動が、今でも忘れられない。

結果、大学では作曲を専攻した(とはいえ、本格的な作曲の勉強を始めたのは、高校卒業後からというスロースターターだったが…)。大学時代は西洋音楽の作曲法を学んでいたし、無意識的に西洋音楽が自分の表現の中心にあった。それが大きく変わることになるのは、大学院進学がきっかけだった。大学院は音楽大学ではなく、メディア・アートと呼ばれる先端テクノロジーを用いたアート表現を研究する学校に進学した、というか、してしまった、が正しいかもしれない。師匠である、作曲家の三輪眞弘氏に学びたいという思いだけで、さほどメディア・アートが何かとか、三輪氏の提唱する「逆シミュレーション音楽」についても、情けなくも不勉強なまま、新たな環境で刺激を受けたいと、入学してしまった・・・・・・・・、のだ。

結果、入学してから大変な思いをする。これまで培ってきた作曲、演奏技術は、そこではほとんど求められる機会がない。代わりにコンピュータープログラミングや、電子工作など、全く学んだことのない課題が次々と課せられ、全然ついていけない上に、自分が何を学びにきたのか、何を作りたいのか、全くわからなくなってしまった。同じ「音楽を作る」という行為でも、楽器や楽譜、人間の身体を介した演奏というベクトルからしかアプローチしてこなかった私は、コンピュータープログラムによって、PCやスピーカーを介して、逆に楽器や身体を介さずに、音を生み出す、というベクトルからのアプローチに困惑し、音楽という概念が大きく広がったと同時に「私は何を、どうやって表現したいのか」が全く見えなくなってしまった。

思い切り壁にぶち当たってしまった私は、音楽とは何か、なぜ存在するのか、という今も取り組む壮大な問いに立ち向かい始める。なぜ音楽は生まれたのか、その起源を探っているうちに世界中の民族音楽に出会い、そこで頭を殴られるような衝撃を受けた。その多種多様な表現の中には、私が想像していた範疇を大きく超えるような衝撃的な響きがいくつも存在した。そして、それを演奏するのはプロの演奏家ではなく、皆その地域に住む一般市民だ。決して「自分たちは高尚な芸術をやっているのだ」という気負いはない。そして、それらの音楽には大抵、楽譜がない。人から人へ、脈々と受け継がれ、時代を経て、様々な地に伝播しながら、どんどん生きて変化していく。その「生きた音楽」のあり方、そして音楽を日常の一部として捉えている姿に、深く感銘を受けたのだ。

そこで気がついた。私がいかに、「西洋音楽」という、ある一地域の音楽から、「音楽」を捉え、その尺度で図っていたのか、に。音程やリズムを揃えることを大事にする美意識もあれば、あえてそれをズラして唸りやノイズ、間合いを楽しむ美意識もある。美しさの基準は、多種多様なのだ。

それから私の作曲法は大きく変わった。世界中の多様な音楽から見えてきた「生きた音楽」を生み出すことを目指し、これまで培った方法論から一旦離れ、楽譜のない、そして誰もが参加できる独自の表現を切り開く、という長い旅路にこぎ出した。

4breath strati

この大転換ののち、四苦八苦しながら初めて独自の方法論で形にした作品が、大学院の修士制作である複数の女声のための《breath strati》(2006)だ。これがのちに「声」を用いた方法論を確立していく最初の一歩となった。

この作品は、口腔変化によって多様に生み出される「倍音」の神秘と、「呼吸」という生物が持つリズムに着目したものだ。呼吸の「吸う」と「吐く」のリズムは動物が皆持つリズムだが、各々が異なるタイミング、長さを持ち、さらに常に伸縮している。その呼吸のリズムをそのまま音の長さへと生かすことを考えた。よって、それぞれのテンポで奏される音のズレが重なり合って、複雑なレイヤーを生み出していく。また、呼吸は個別に行われているようで、無意識に影響しあうということも、作りながら気が付いた。「息が合う」とはよく言ったもので、他者と声を重ねていると、いつの間にか呼吸がシンクロしていくのだ。この共振をさらにルールに取り入れていった。

2007年度 IAMAS卒業制作展での《breath strati》(2006)発表時の様子

演奏は円になって行われ、各々声を出すのだが、出す音の指定は一切ない。女声のための作品であるため、ファルセットで出せる高さあたりを基準としているが、初めに出した人の声から各々少しずつズラして声を出していく。結果、微分音のような複雑な音の雲が立ち上がる。音が指定されていないので、音痴という概念もないが、むしろ音がキレイに揃わないほど差音が生まれるので、そういう意味では「音痴」のほうがうまくいく。音楽の素養がなくても誰でも演奏できるが、それでいてとても複雑な音色を生み出すことができるのだ。

また、呼吸をきっかけとしたルールが設定されている。演奏者は、左隣の呼吸(息継ぎ)をトリガーに、与えられた3種類の発声(倍音を多く発生させる母音の変化)を順に切り替えていくが、逆に自分の呼吸は右隣にとってのトリガーとなっている。左から影響を受け、右に影響を与える、という円環構造になっているのだ。

先に述べたように、呼吸はだんだんシンクロしていく。そのうち自分の息継ぎと隣の息継ぎのタイミングが合う瞬間がくるのだ。もし同じタイミングで息継ぎをしたら、今度はあえて合わせていく。左が呼吸をしたら、自分も呼吸をして次の発声に変える。これを繰り返すとだんだんと呼吸が連なり、いつの間にか一つになっていく。誰かが呼吸をすると、その呼吸が連鎖し、息継ぎの「スー」という呼吸音が円を回り始める。この状態になったら、曲は終わりに向かう。

《breath strati》(2006)初演(大学院修士研究発表時)


この曲は、ルールの手順を料理のレシピのように文章で記した指示書と、流れを図式化したフローチャートで書き記されている。指示書のみから立ち上げるのは少々難儀かもしれないが、口伝で直接ルールを伝えればより簡単だ。慣れれば演奏はそう難しくない。プロの演奏家でもそうでなくても、共に音を重ねることができる。

《breath strati》(2006)のフローチャート

実際、この曲の初演(添付映像のもの)は当時の大学院の女子学生たちに協力してもらい、私自身も参加して演奏した。皆バックグラウンドはまちまちで、美術畑や理系、中にはホーミーが得意な人もいたが、概して音楽が専門でない学生たちが中心だった。誰でも参加できる音楽、という点を実証した形だ。

この《breath strati》が、その後立ち上げ、現在まで私の活動の核をなす音楽パフォーマンスグループ「つむぎね」へとつながっていく。つむぎねが演奏する作品は、皆この曲同様、楽譜を持たず、呼吸などの身体的特徴や、他者との関係性をもとにしたシンプルなルールでできている(いつからか「つむぎねメソッド」と名付けられていった)。メンバーは女性が中心だが、音楽家だけでなく、ダンサーや哲学者など多様なバックグラウンドを持つ。既存の音楽の概念に捉われず、新たなアプローチに楽しんで取り組んでくれるメンバーたちと、作曲したアイディアを実際に試しながらブラッシュアップし、形にしている。《breath strati》も、その後つむぎねを通して数えきれない再演を繰り返しながらルールを改変し、進化してきている。

つむぎねパフォーマンス風景 (愛知県芸術劇場小ホール「サウンド・パフォーマンスプラットフォーム」)(2015年)

5.「音」が「音楽」となる間(あわい)の響き

私の表現する音楽は、相当シンプルで原初的な響きである。例えば、一人1音のみ、声をロングトーンで重ね合わせ、五度のハーモニーを作る。その「五度」のハーモニーだけをひたすら奏でる。呼吸をベースとしたルールに従って、奏者各々が母音を変化させていくと、倍音の響きが光のプリズムのように変化していく。また各々の声の差音が生み出す唸りや共鳴も重なり、たった2つの音のハーモニーの中に、無限の色彩が浮かび上がるようだ。こういった非常にシンプルでミニマルな表現を好んでいる。

よく私は複数の声、とか、複数の鍵盤ハーモニカ、複数の弦楽器など、同質の楽器を重ねた作品を作る。それは「アンサンブル」と言う構築的なものより、もっと音の質感そのものを聴くというようなプリミティブな発想だ。アンサンブルが色彩豊かな絵画だとしたら、私の音楽は、同じ青の濃淡だけで、その青の微妙な揺らぎを描いたような、ミクロな世界だ。また、呼吸などの揺らぎを取り入れているため、生まれる響きは、人間が構築した「楽曲」と言うより、自然界の木々のざわめきや波の揺らぎのようなものに近く、いわゆる「音楽」になる以前の、自然現象のような音の響きである。無秩序に重なりあう自然界の響きが、ある秩序を持って構築され「音楽」になっていく、その間(あわい)のような絶妙なところに興味がある。

例えば、第6回JFC作曲賞を受賞した作品《mimesis》(2011)では、初演時は9台(数は3台以上なら自由)の鍵盤ハーモニカで奏したのだが、やはり一人1音のみを奏し、同じく円環構造でルールに従って隣の人の音を模倣していく。途中、その1音に半音上の音を重ねてそれぞれの「鳴き方」で音を奏で始めると、コンサートホールは、まるで蝉や蛙たちの大合唱のような、楽音とは思えない響きで満たされる。「教育楽器」として身近な鍵盤ハーモニカから、想像のつかない、自然界の揺らぎのような音を生み出した作品だ。

《mimesis》(2011)初演ダイジェスト映像(「第6回JFC作曲賞本選会」)(2011年)

6空間を作曲する

さらに、私の音楽において、音と同じくらい重要なエレメントとなるのが、「空間」である。例えば、つむぎねのパフォーマンスでは、舞台と客席がフラットな会場で客席の中央にパフォーマンスエリアを据えることが多い。時には観客をとり囲むように演者が立ち、空間全体を包み込むようなサウンドを生み出したり、動き回りながら音を発したりする。全て生音で演奏するため演奏者が移動すれば音の位相は変化し、いわば「人力によるマルチチャンネル音楽」が実現できる。一般的なマルチチャンネルの音楽は、スピーカー自体が移動することはないが、人力なら発音体そのものが移動するゆえ、より響きは複雑に変化する。楽譜がなく、また「声」という身ひとつで表現できる音楽ゆえにこのような表現が可能になる。

また、曲間や演者の移動もパフォーマンスの一部と捉え、一連の流れを一つの舞台作品のように表現する。照明や衣装などの演出も取り入れ、観客が音だけでなく五感全部を通して、「聴く」にとどまらず、全身で「体感」するような表現なのである。発表の際、音はもちろん、空間の使い方や全体の構成、照明の演出も含めて作曲(演出)する。毎回キューシートを作成し、舞台上の動きや照明のキューなども作る。

つむぎねパフォーマンス《モ リ ニ ハ イ ル》(2020)

この空間表現は、つむぎねのパフォーマンスのみならず、その他の作品にも用いられる。例えば、2023年に「サントリーホールサマーフェスティバル2023」で発表したガムラン曲《S i n R a》(2023)では、冒頭に短いワークショップをし、観客全員が声で参加し、小さな子音の音で大ホール全体に豊かな森の風景を立ち上がらせた。

音を創造する際、私は空間上の空気の疎密変化のようなものを、感覚的にイメージしている。空間の中で音がどの位置でどのような形に広がり、ぶつかり合い、重なり合い、減衰し、消えていくか、そうした形のようなものが同時にイメージされる。ある種、音を空間上で視覚的に観ている、という感覚かもしれない。

《S i n R a》(2023)演奏風景1(サントリーホールサマーフェスティバル2023「ありえるかもしれない、ガムラン」) 
《S i n R a》(2023)の構成図
《S i n R a》(2023)のCueシート

7音楽の根源にあるものを見つめる 

音楽とは何か、なぜ存在するのか。その問いを探りながら、独自の方法論で活動を続けているうちに、少しずつ見えてきたいくつかの答えがある。

私の音楽は楽譜がないので、互いによく聴き合わないと演奏ができない。他者が出すサインに感覚を澄まし、微細な変化に反応していく。すると、言語よりもずっと繊細で深いコミュニケーションが行われることになる。

また、非常にシンプルな響きゆえに、音を重ねていると、だんだん他者との境界線が曖昧になり、皆で一つの生命体になったような、なんとも言えない感覚になる。冒頭に触れた、耳をよく澄ますときに感じるものと近いのだが、それは私だけが感じているのかと思うと、演者が皆同じことを感じていたりするし、聞き手も同じような感覚になっていたりする。それは音楽の趣味嗜好や世代、人種などに依らず、老若男女、どの国の、どんなバックグラウンドの人も、同じような反応をする。人類が音から感じる、普遍的な何かが存在するようだ。

さらに、音に反応しているのは人間だけでないように感じることもあった。プリミティヴな響きゆえか、鳥たちの鳴き声や木々のざわめきも、それに応答するように響いてきたりすることもある。これは言葉を超え、さらに人間同士だけではなく、自然界や目に見えない存在とも対話し、共鳴し合える、ものすごいコミュニケーション方法ではないのか?と気が付いたのだ。

ここではっきり断っておくが、もちろん私はオカルティックな新興宗教の勧誘をしているわけではない。不思議な力を語って、「私の音楽を聞けばあなたも救われますよ」などと言いたいのではなく、このようなプリミティブな音楽に向きあっていると、自然とそういった音楽の持つ不思議な力を体験することがあるのだ。音楽はやはり現代の科学技術や理論でも解明しきれない「神秘」を含んでいると言わざるを得ない。よくつむぎねのパフォーマンスは儀礼的だと言われることがある。それは、儀礼を目指してパフォーマンスを作っていった結果ではなく、音楽の根源的な響きを求めていたら、結果的に儀礼的なものにとても近くなっていたのである。人類はそうして、音楽の響きから何か不思議な力を感じ、その力に魅了され、音楽を自然に対する畏敬の念や祈りの心を伝えるメディアとしたり、人間同士、さらには死者や目に見えない存在とのコミュニケーション手段として、活用してきたのではないか。その音楽が辿ってきた流れを、活動を通して再度辿ったようだ。もちろん良い面での活用ばかりではないだろう。音楽の持つ強い力は、使い方を間違えれば、人の心をコントロールし、狂わせたり、戦争などの士気高揚に使われるなど、恐ろしい力ともなりかねない。そう思うと、音楽それ自体が、人間にとってコントロールできない、捉えどころのない何かと対峙するために生み出した「智慧」そのものなのかもしれない。

8多様性と調和の音楽

ちょうど先日、つむぎねを研究対象にしたいという大学院生からのインタビューの申し出を受け、メンバーたちと互いの感じていることを語り合う機会があった。インタビューで「演奏時にどのような感覚を受けるか?」との質問に、皆が共通して挙げたのが、上に述べたような「他者との境界線がなくなる感覚」と「自我がなくなる心地よさ」だった。これはつむぎねという集団が、皆個性がバラバラで、バックグラウンドも様々でありながら、それぞれの突出した個性を主張し合い、ぶつけ合う集団ではない、ということの現れだ。「楽譜がない作曲法」というと、皆がアイディアを出して即興的に音楽を作っていく「集団作曲」と誤解されがちだが、実際は私が作曲したルールをもとに、そのルールの中で各々が表現を自由に行うという方法だ。いわば私が土台となる根や幹を作曲し、そこからどう枝葉を伸ばし、花や実をつけるか、がメンバーらの役割である。それぞれがてんでバラバラな個性を主張するだけだと、一つの木としての一体感がなくなってしまうので、全体の色彩やバランスはどうか、と互いに感じ合う協調性は必要だ。

このように述べると、ともすれば個性を殺して従順になる集団と勘違いされるかも知れないが、もちろんそれも全く違う。つむぎねでは協調性も必要だが、自分はどんな花を咲かせたいか、それぞれの能動的な感性を求められる。ここでいう「自我がなくなる」というのは、「自分を失う」という意味ではなく、「自分を主張しなくてもありのままでいられる」という心地よさなのだ。それぞれ持つありのままの「個性」を、無理に主張することも、変に隠すこともなく、そのまま出す。それを互いに認め合い、受け止め合う土壌があり、一人で全てを背負わなくても、他者と皆で一つを作り上げる、音の粒子の一つとなる心地よさ、安心感を皆が感じているのだ。

個性を主張し合う表現者集団でも、作曲家に従順な演奏者集団でもない。このあり方はとても稀有かもしれないが、私としては音楽を通して実現したい理想のコミュニティ像が、つむぎねでは確かに実現していると感じることができた。これはもちろん、参加するメンバーの考え方もあるが、音楽のあり方がこのような関係性を作るとも言えるかもしれない。実際、ワークショップで多様な人たちが一期一会に集まっても、同じ状況が起こり得るからだ。「初めまして」で集まったワークショップの参加者たちは、はじめはぎこちない空気だが、ほんの1時間も声を重ねていると、いつの間にか一体に溶けあい、終わる頃には昔からの友達のような感覚になる。

そのようなコミュニティを育むためには、様々な立場の人の視点を取り入れながら、ルールを改正していく必要もある。先に、私の音楽は、サッカーのルールのようだと述べた。サッカーもルールを知れば誰でも試合に参加できる。その度に試合展開は変化し、もちろんプロの試合は高い技術ゆえの面白さがあるが、たとえアマチュアや子供の試合でも、その試合展開の面白さも、そこから得られる感動もあり、どちらが優れている、というものではないだろう。例えば、サッカーの試合に、目の不自由な方が参加するならどうするか。最近は「ブラインドサッカー」というものがある。ボールに鈴を入れて音で聞き取れるようにし、目の見える人もアイマスクをつけて同じ環境になるようルールを改変したものだ。私は音楽でも同じ事を考える。様々な人が平等に参加できるよう、参加者の個性に合わせて音楽のルールを改変していくこともできるのではないか。高い演奏技術を持つほど美しい音色を生み出せる表現だけではなく、例えば重度肢体不自由の方の人工呼吸器の呼吸音も、楽音の一つと捉える表現があってもいいだろう。私はそれぞれの持つ「個性」に優劣をつけるのではなく、音色や楽器の違いのように、楽音の一つと捉えるアプローチをしたい。そして、それはいわゆるハイレベルな演奏と比べても劣らないほど、美しい響きを生み出すことができると確信を持っている。2023年のサントリーサマーフェスティバルで発表した《S i n R a》の冒頭、観客の皆さんに参加いただき生み出した響きは、まさにそれを実践したものだが、そこで生まれた森の風景の響きがそのことを証明してくれたなら、何よりだ。

インドネシア、ジョグジャカルタの子供たちとのワークショップ風景

このように私が理想とする音楽の状態は、皆のびのびと自分らしく表現しながらも、一体感があり、グルーヴが生まれている状態だ。それには作曲家が、どういう音が生まれるか、だけでなく、そこで演奏者同士、また聴き手や周りの環境とどのような関係性が生まれるか、も考えることが重要だと考える。それを「多様性と調和」と言っても良いだろう。昨今では東京オリンピックのテーマにも挙げられた言葉で、少々上滑りな流行り言葉になってしまっていることは残念だが、私はこのコンセプトを長年心の奥に持っている。 

9歌うことは祈ること

かつて、アウグスティヌスの「歌うことは、二倍祈ることである」という言葉を聞いたことがある。学生だった当時の私にはまだ理解しきれなかったが、今はとても分かる気がする。そしてそれは「人はなぜ音楽をするのか?」の答えの一つでもあるかもしれない。もちろん、先に述べたように宗教の「布教活動」として音楽をしているわけではないが、やはり私にとっては「歌うこと」「音楽すること」は、「祈ること」ととても近い感覚がある。

私のパフォーマンスで、演者が観客と対峙せず、中央で円を閉じるように演奏するのは、音楽を観客に向けたショーとして行うのではなく、演者と観客の境界線がなく一体となり、もう一つ別の次元に向けて行うような意識があるからでもある。その行為は、ある種の「祈り」の時間なのかもしれない。

では、「祈り」とはなんだろうか?私が捉える「祈り」とは、神にすがることとか、自分の願いを託すこと、とはちょっと違う。祈りは、自然界や故人、目に見えない存在、もしくは自分自身の内面と対話するための行為のように思う。また、宇宙や自然界、身体の法則を、理屈ではなく感じ取ろうとする行為でもある。まさに上述の、人間にとって捉えどころのない、コントロールできない何かと向き合う行為は、祈りであり、その手段として音楽の存在があるとも言えるのではないか。

聲明曲《海霧讃歎》(2012)演奏風景©︎MATHRAX

「歌うことは祈ること」という言葉の意味を実感することになった作品が、聲明曲《海霧讃歎》(2012)である。2012年に神奈川県立音楽堂の委嘱で作曲した作品だが、その前年に起きた東日本大震災の犠牲者への弔いの歌として制作したものだ。この聲明曲は、陸前高田で津波の犠牲となられた一人の女性が生前詠まれた短歌を祈りの言葉としている。私は作者のご子息であるご兄弟との出会いにより、この歌を知った。詳細は二つの記事を参照いただきたい。

海霧に とけて我が身も ただよはむ 川面をのぼり 大地をつつみ
                               佐藤 淳子

津波に消えた母への返歌、聲明に 東北に響くお経と旋律」『朝日新聞デジタル』(2021年3月10日
〈一首のものがたり》どこにいても母に包まれている」『東京新聞 Tokyo Web』(2024年2月27日)

この歌との出会いが、聲明という、まさに祈りのための歌、聲との出会いや、歌うこと、そして音楽することの真の意味や目的を感じる大きなきっかけとなった。

作品は真言宗、天台宗の総勢30名の僧侶たちによって唱えられる。古典を踏襲し、また二宗派それぞれの特徴を活かした各々別の旋律を、上述の短歌に乗せている。旋律は古典の記譜法(博士と呼ばれている)により書かれているので、僧侶たちは古典の時と違和感なく唱えることができる。それを、ルールに従って何度も繰り返し唱え、重ねていく。

《海霧讃歎》(2012)真言宗の博士

始めは斉唱だった旋律は、だんだんとズレ、カノンになり、中盤は客席を含めてホール全体を練り歩きながら、全員バラバラに唱える。結果、「旋律」や「歌詞」は姿を消し、ハーモニーとさまざまな倍音や差音が空間全体にぶつかり合う、凄まじい響きの渦が立ち現れる。聞き手の感想によると「その凄まじい響きの渦は、すでに人間の声ではなく、波のうねりやどよめき、時には死者たちの魂の叫びのようにも聞こえてくる」という。まさに短歌に詠まれたように、そんな響きの渦の中に身を委ねているうちに、自我が消え、自然と一体になり、たゆたっていくさまを描くことができたようだ。

先に引用した短歌の文面からは、一見津波の風景を彷彿とさせられるが、ここに込められているのは、「人間は自然から生まれ、いつかそこへ還っていく」という、自然に対する強い畏敬の念と圧倒的な死生観だ。私はこの短歌と出会い、《海霧讃歎》を作曲したことで、音楽家としての「使命」を与えられたと感じている。この作品はありがたいことに2012年の初演以来、兵庫、静岡、陸前高田、愛知、山形、高知、東京、栃木など全国各地で10回以上の再演の機会をいただき、多くの反響を得ることができた。これは私の音楽の魅力というよりは、「祈りの歌」という音楽の役割、使命が作品に宿ったからだと感じる。この作品は、津波で亡くなられた多くの犠牲者の魂や、すべての生命の源であり、時にはとてつもない脅威を人間に見せつける、「海」という大自然の力と向き合う、祈りの時間を作るという使命を持つことができたのだ。

また、その響きが大切な人を失った、今を生きる人々の心の傷に寄り添うこともできるかもしれない。物理的に負った傷は、医学の力で治すことができるかもしれないが、心に負った傷に寄り添い、支えとなり得るのは、音楽や芸術の力に他ならないのではないか。それも音楽の持つ大きな役割の一つだ。

さらに、この曲が演奏され続けていくことは、震災の記憶を継承していくことにもつながっていく。音楽は未来に伝えるべき記憶の継承という役割も大きく担っている。人はいつか死ぬが、歌は生きて伝わっていくからだ。実際、この曲は2025年3月にも岩手県一関市で演奏されることになっており、記憶を継承し、祈りの時間を作る活動は継続されている。私はその「役割」を持った音楽を作る機会をいただけたことに、心から感謝している。

《海霧讃歎》(2012)演奏風景

10.ガムランに学ぶ、アジアの音感覚

最近はすっかりガムラン音楽の研鑽に没頭している。きっかけは2018年に国際交流基金アジアフェローで東南アジア4カ国(マレーシア、カンボジア、タイ、インドネシア)を半年かけてリサーチで巡ったことだ。その目的は、これまで述べてきた、音楽がコミュニケーション手段として社会に活かされている実際の現場を見聞きしたいことだった。そこで改めてそのコミュニティ音楽としての役割を強く実感したのが「ガムラン音楽」だった。

ガムランは、演奏してみるとその音楽が担っている役割がよく分かる。また、私が実践してきたアプローチと重なる部分がとても多い。まず、やはり楽譜はない(中部ジャワガムランにおいては「バルンガン」と呼ばれる骨格旋律を記した数字譜が近年使われているが、後に便宜的に作られたものだ)。そして、いくつかの楽器の合図によって多様に進み方が変化していく。同じ曲を演奏しても、地域や奏者によってさまざまなアレンジがあり、演奏のたびに進行も内容も大きく変わるので、生まれる音楽は無限である。また、合図を聴いていないとどこに進むか分からなかったり、指揮者がいない中テンポが変化していったり、互いに聴きあわないと演奏できないという点で、コミュニケーションを取る必要性が自然と生まれる。演奏を通しての微細なコミュニケーションは、他者との接し方を自然と身につけることができる、教育的な役割も担っているようだ。ガムランの演奏に参加したことで、この真の役割を知った私は「これまで求めてきた理想の方法論がまさにここに存在していた!」と改めて感動した。

また、ガムランを通してアジアの音感覚をもっと深く身につけたいという目的もある。ガムラン音楽は、音階はもちろん、合奏における音の捉え方や奏者同士の関係性が西洋音楽とは全く異なる。当初は西洋音楽の感覚で捉えてしまい、拍の裏表を逆に感じたり、独特なテンポの伸び縮みに困惑したりしたが、再び自転車に乗れなくなったように、これまで知らなかった方法論にあわせて一から身体を再構築していくのがこの上なく楽しい。これまでに聲明や邦楽のための作曲などにも挑戦してきた中で、だんだんとアジアの音感覚にアップデートされつつある、というか、アジア人としての音感覚を取り戻してきた私は、それが自身の表現方法と親和性が高いことも実感している。

私の感覚では、西洋は音を「点」で捉えているように感じる。譜面上に記譜された音は、もちろん調性上の関係性はあるにしろ、音のつながりは自由度が高く、跳躍で音を取ることも可能だ。(無調の音楽となると尚更だ。)それに対し、聲明にしろ、ガムランにしろ、東洋の音楽は音を「線」で捉えているという印象がある。前の音と次の音は関係性が深く、そのつながりで次の音が決まっていく。さらに、西洋は音を「縦」に捉える印象があり、拍節やハーモニーを揃えることにとても気を配るが、東洋の音楽は、音を「横」に捉えていくため、ハーモニーよりもヘテロフォニーで、テンポもメロディーもまちまちに、似たような道を辿りつつ、しかしいくつかの到達点に皆が一緒に「揃う」というか「辿り着く」ことが重要である。西洋が「頭」を揃えるのならば、東洋は「お尻」を揃えると言ったらいいだろうか。

また、これもあくまで私の見解だが、ガムランを通して感じる東洋の音楽は、西洋の音楽に比べて揺らぎがあり、絶対的な決まりや型がなく、どんどん変容していく。もちろん揺らぎのある音楽は東洋だけの特徴とは限らないことは大前提であるが、石造りの建物が何百年も残る西洋文化に対し、地震や台風など自然災害が多く、その揺らぎに順応しながら生きるゆえにアジア人がそのような表現の特徴を持っていると言っても、あながち間違いではないだろう。そういう意味では、東洋の表現は私の表現に非常に近く、私の音楽もまさに、東洋の音楽であるとも言えるかもしれない。

ガムランを通して、アジアの音楽を学ぶと、そういった自身の表現の根っこを知ることができるように感じる。先のアジアフェローで東南アジア諸国を訪れた際に強く感じたのは、彼らは大抵、根っこに伝統音楽を持ち、その派生としてのcontemporary musicに取り組んでいるということだ。伝統音楽をベースに学ぶ機会がなく、西洋から輸入されたcontemporary musicをやってきた私は、自分の根っこのなさを感じざるを得なかった。しかし一方で、ガムラン音楽をやると、いかに自分の表現がアジアの音楽に近いかを思い知らされ、根っこに邦楽やアジア音楽を学んできたわけではなくても、何かしら継承されている日本人として、アジア人としての音感覚を持っているのかもしれない、と気が付いたのだ。もしかしたらもっと生活に根付き、私たちが意識しないような微細な部分に、アジア人としての感覚をきちんと継承しているのかもしれない。

その無意識下に潜むアジア人の感覚を、もっと表現に活かすために、私はガムランやアジアの音楽に触れることが必要だと感じている。そして、その東洋人の感覚をもっと「contemporary music = 今を生きる私たちの表現」として反映させていけたらいいのではないか、とも思う。日本における「現代音楽」と呼ばれるジャンルは、今は比較的西洋音楽をベースにしているが、その間口をもっと多様性に向けて開いていく時期が来ているのではないだろうか。私たちは長きにわたり西洋音楽を深く身につけてきたが、きっとアジア人特有の音感覚や美意識も内在しているはずだ。それを、西洋式の型で表現するのもいいが、東洋式の型を生かしての表現もできるだろう。もちろんそれは、邦楽やアジアの楽器を使う、という表面的なことではなく、西洋の楽器を使っても東洋人なりの方法論で表現していく、という意味だ。

いずれにせよ、「現代音楽」という枠組みの中でも、西洋音楽だけでなく、様々なバックグラウンドの表現が混ざり合う刺激的な場が開かれていくことを願う。また「楽曲」というフォーマットに限らず、ビジュアルや空間、身体、思想など、さまざまな表現手段をとりながら、シームレスに発信できる、新しい音楽の土壌が広がっていくことを願っている。

私自身は、これからもガムランの修行を続け、よりアジアの音感覚が自分の表現として消化、昇華されていく事を目指したい。また、今後雅楽や能楽などにも学びを広げ、東洋人としての新たな表現を探していきたい。

《S i n R a》(2023)演奏風景2(サントリーホールサマーフェスティバル2023「ありえるかもしれない、ガムラン」)

11終わりに 

ここまで私が歩んできた道のりと、その活動から感じてきたことなど、頭の中をひとまずさらけ出してきたが、ここで改めてまとめてみたい。

私はこれまで「音楽とは何か」という大きな命題のもと、自身のアプローチを探る中で、「誰でも参加できる、楽譜のない、生きた音楽」という表現に取り組んできた。「誰でも参加できる音楽」という点は、音楽を多様性に開き、様々な「違い」を楽音の一つとし、美しい響きへと昇華させるという新しい方法論の模索でもあった。また、「楽譜のない、生きた音楽」は、アジアの音楽観とも呼応するもので、自身がアジア人としての特徴を根っこに持ち、それを生かした表現をしたいことでもあるとわかった。

その上で改めて見えてきたことは、私にとって音楽とは、自己や他者、自然界や彼岸、ひいては宇宙など、この世界と響き合うための「メディア」であるということだ。音楽は人と人とが言葉を超えて繋がり合うコミュニケーション手段にもなり得るし、時には自然や死者たちの魂、自己の内面と対話するための「祈り」にもなる。その様々なものをつなぐ「メディア」となり得る音楽を紡ぎ出すことが、私にとって作曲する目的なのかもしれない。

そのためには、冒頭にも述べたように、私自身もそれらを受け止められる「メディア」とならなければならない。「メディア」となるために必要なことは、自身の中に透明な容れ物を確立し、その中身を「空」の状態にしておくことだ。自我の話をしたが、中身を「空」にすることは、自分がないということではなく、自身は容器の形として確立されている。その容れ物を「空」にしておけば、様々な要素を取り入れられ、容器の中で自分らしい形に変換される。また、容れ物が透明であれば、それは外界の全てのものと一体に溶けあうことができる。そんな透明な空の器に、イタコのように音楽の本来の力を降ろすことができる存在になれたら、と夢想してやまない。力を降ろすために必要なことはなにか。それは「よく耳を澄ます」ことだと思う。他者や世界によく耳を澄まし、互いに聴き合えば、きっと美しく響きあうことができるはずだ。「音楽」というメディアを通して、世界と響きあう「きっかけ」を作ること、それが私にとって作曲する意味である。というのが、現時点での私の結論だ。

これからもその力を手に入れるため、いわば「神秘の箱」を開けるための修行は続くだろう。次にこのような論考を書く機会には、どのくらい歩みが進められているか、どのような考えに辿り着いているだろうか。今より少し、その「箱」の開け方に近づけていたら嬉しい。