目次
音楽起こし人
1.個人の作曲のはなし
作曲するわたしについて
いつも気がついたら、あんな感じの音楽作品ができあがっている。それはたしかに「音楽」なのだ。「音楽」なのだが、「曲」なのだろうか。最近は、作曲家という言い方がはばかられて、音楽創作家と名乗ってみたりもする。それでもしっくりこなくて、一体なんなのだわたしから出てきたものは、と途方にくれたりもする。でもここでは、さも当たり前のように自分のしていることを作曲と名乗ってみる。そうやって騙していけば、いつのまにかこういうことも当たり前に作曲で、当たり前に音楽になっていく気がする。
わたしにとっての作曲は、人同士の発音を中心とした出来事を掬い上げて書き落とす、というのが感覚としては近い。この出来事は「音楽」というより「音楽性」と呼んだ方が伝わりやすいかもしれない。音楽のエキスみたいなものである。「頭で考えるより先に身体が動く」ような回路で、自分にとって腑に落ちる一連の流れが自然と形作られていく。
作曲する手順として、まずはじめに、楽器(あるいは普通は楽器とは呼ばないような発音体、例えばガムテープなど)と仲良くなる時間を設ける。使いたい楽器や試したい楽器と、誰にも邪魔されない静かな場所でひたすら一緒にいるのだ。音を出してもいいし、出さなくてもいい。その楽器と一緒にいるときに、身体がどう動くのか、何をどう聴くのか、ということと向き合う時間をたっぷりと取る。この時間はわたしのお気に入りの時間でもある。とにかくモノと対話することを通して、自分の調子を取り戻していけるような気がする。モノを写し鏡にして、わたし自身とゆっくり向き合うような満ち足りた時間なのだ。奏者があらかじめ決まっていて、創作段階から協力してもらえるようなときは、並行してその協力者と一緒にリサーチを重ねたりする。
ちなみに、昔は机に向かって構成を考えて、うんうん唸りながらノートと睨めっこしてアイデアが萌芽するのを待っていたこともあったが、それは苦しかったし、いつまでもヘルシーに作曲行為と付き合えず、気がついたらやめていた。曲は最初から楽器や身体が持っていて、わたしはそれをただ拾っていくだけなのだ。「作る」のではなく「拾う」。そういう風に身を構え直したら、フッと力が抜けて、これから長い人生、創作活動を続けていける希望が湧いてきた。さらにいえば、どんなに調子の狂った楽器とでも、どんなにドジな身体とでも、うまくやっていける気がして嬉しくなった。
そうやって、楽器とうまく時間を過ごせるようになったら、ここから先は、自分にとって腑に落ちる一連の出来事を見出していく。この時の過ごし方はさまざまで、身体を動かしながらのこともあるし、寝ながらのときもあるし、机に向かって大人しくしているときもある。ただ、いずれの場合も何かしらのかたちで即座にメモをとれるようにはしている。(といってみたものの、机の上の白い部分や、その場にある適当な書けそうな素材のものに殴り書きしているだけのことが多い。)なんというか、頭の中で勝手に立ち上がってくるのだ。だから、素敵な瞬間が生まれたら、その場で書き留めておかないと逃がしてしまう。あるところに何人かヒトがいて、楽器があった。そのヒトたちがする営みとしての音楽を妄想するのだ。当然行き詰まることもあるが、それまで過ごした時間の中で、楽器や身体が、作られるべき内容やそのためのヒントを「幸運な落とし物」としてわたしが歩く道に落としてくれている。あとはわたしがそれにちゃんと気づいてちゃんと拾うことができれば、全てうまくいく。とても感覚的な話になってしまうが、下手に具体化しようとするよりも、この方が実際の感覚に即していると思う。一連の出来事が定まれば、最後にそれを実現できるように譜面というフォーマットに落とし込むだけである。
ここで気をつけたいのが、実現のために必要な条件は、「何分何秒にどのような音が鳴る」ということではない。わたしがみているのは、「音」ではなく、「ヒトが音を鳴らしているという現象」だからだ。つまり、思い描く「ヒト」には感性があって、その瞬間瞬間、「今ここ」を生きている。それを立ち上げるためには、音をベースに記述するのではなく、人をベースに記述しておくべきだと考えた。もちろん、音にこだわりがないということではなく、人ベースの指示から「発音」を導き出し、それによって思い描く「音」も現れるといった考え方である。
思い描く「音」によってできる、わたしにとって愛おしい音世界は、定拍もなく音も小さい、音色も不思議で記号的に解釈できず、音同士の関係性にも出会っては離れるような儚さがある。そこでは人の気配(細かくいえば人が止めようとしても生きている限り出してしまうノイズ)すら音楽の一部になってしまうような、全ての音が音楽としてギリギリ繋ぎ止められている状態がある。このような音楽が、上演される演奏環境にかなり影響されやすく、かつ脆弱な性質を持つことが伝わるだろうか。このような音楽こそ人ベースの譜面が活きてくるように思う。実際に、《樹海になりたくて for a vocalist and a percussionist》(2021)のインストラクション中、「記譜について」の項目では人ベースの譜面とその必要性、演奏の仕方について次のように言い表している。
では人をベースに記述するとは、どういうことだろうか。例えば、《ぴあのを好きでいてくれて、ありがとう for 3 performers》(2023)の7ページに、次のような記譜がある。
上部に示された、A、B、Cはパートを表し、各パートは上から下に読み進められる。その「ヒト」がどのような行為をしているのかが中心に書かれ、移り変わりのタイミングは計量的な時間ではなく、主観を軸に指示されている。例えば、一番上のBからA、Cに向かって伸びる矢印に書かれている「響きを認知したら」の指示が特徴的である。これについて言及する前に、まず、このページに入る瞬間の各奏者の状態を説明しておこう。A、Cはピアノの周りにおり、両手で持った筒を耳にあて、筒の先をピアノに向けている。まるでピアノから何かを一生懸命聴こうとしているみたいに。何も音は鳴っていない…ように見えるのに。
Bはピアノのペダルの位置にしゃがんだ状態で潜り込み、右手をサスティンペダルの位置にかけている。
この「響きを認知したら」の指示を挟んで営まれる行為としては、まず、Bが右手をかけているサスティンペダルを押し込む。そうすると、ピアノの内部にあるダンパー(フェルト素材でピアノ弦を押さえつけているもの)があがり、そしてそのときに、わずかに雑音が鳴るのである。クラシック音楽のピアノソロでは気にもとめられないような小さな音が「ぅぁん」と聴こえる。この「ぅぁん」という音が「響き」である。この「響き」をAとCが耳に当てている筒越しに発見し、矢印の先にある「ピアノを諭すように囁く」指示へと移行する。仮に「響きを認知したら」を人ベースから音ベースに書き換えるとしたら、「ピアノのサスティンペダルを押し込んだ際に生じる微音が鳴ったら」などになるだろうか。つまり、サスティンペダルを押し込んだときに鳴る音が実際に振動として空気を震わせた瞬間のことだが、対する人ベースの場合にいわれているのは、その現象に立ち会ったときに、その振動を耳がキャッチし、何か音が鳴っていると認識するまでのことであり、そこには主観に応じた差がある。極端な話、マイペースな人であれば、振動をキャッチしてからしばらく咀嚼して、ああなんだかさっき音が鳴っていたなと思い返すタイミングが「響きを認知したら」の指示に従うタイミングとなる。
以上が人ベースの記述の一例である。譜例のうち、灰色で網掛けされたテキストは、するべき行為をさらに内面から説明しているものの、実のところ、行為に対する意味づけではない。つまり、「ピアノを諭すように囁く」という指示だからといって、「ヒト」はピアノを諭したくて筒に息を通しノイズを発生させているわけではない。ややこしいし些細なことなので、いちいち言及したことはないが、全てのことに意味はなくて、ゆえに意味が連なってできる一貫性のようなものもない。あくまで先に現象があって、時間を遡るようにして現象を書き起こそうとした結果、このような表現で書き留めることに落ち着いたというだけである。
作品のタイトルについても同様に、「ここで起こった一連の出来事が一体なんだったのか」というのは、作る前ではなく、一通り何が起きるか把握できた後に見出される。ただし、ざっくりとした題材はあらかじめ設けることもある。例えば《樹海になりたくて for a vocalist and a percussionist》(2021)では「樹海」という最初から決めていた題材があったし、創作の一番最初の段階で、実際に奏者と共に樹海探索に出向いた。しかし出来事を立ち上げていく段階では、それがどのように作品内容に結実するかはあまり考えずに制作を進めており、一連の出来事と樹海が結びついて、演奏している「ヒト」が「樹海になりたい」のだと見出されたのは、譜面をほとんど最後まで書き終えた段階だった。わたしは、自分が生み出した一連の出来事に一定の責任と誠実さを負いつつも、こうした「一体何だったのか」ということに対しては、誠実であることや責任を負うことを一切しないと心に決めている。だからわたしはこれが何であるかについて、言いたくないことは言わなくていいし、嘘をついてもいいし、わからないことはわからないと言ってもいい。勝手に解釈されていいし、またその解釈について説明なしに、違いますよ、とだけ伝えてもいい。その日によって言うことが変わってもいい。それは所詮、後からわたしに見出されたものでしかなく、秘密にしようが後から変わろうが些細なことなのである。
このように考えるきっかけとなったのは、《愛文鳥の別れを知るために for 8 violas with wooden clips》(2020)作曲時の経験だ。昔、文鳥を飼っていたのだが、彼女がこの作品の制作年に亡くなっており、このことを題材に作品を作ろうとした。この年はこの作品に注力するようにして時間が流れていった。10年連れ添った強い絆で結ばれた文鳥との別れは、一大事である。それを全部、作品に背負わせようとした。なによりも彼女に対して誠実でいなければならない、絶対に嘘をついてはならない、と思った。
結果として、作品を作ること/上演すること/聴くことで、彼女とわたしがこの出来事を受け入れることができたなら、というケアを目的とした側面を持ち合わせることになった。表向き、わたしはプレッシャーに打ち勝って、亡くなった文鳥に対して誇れるクオリティの作品を作ることができたのだ。もしかすると当時の実力以上の作品になったかもしれない。けれども、ずっと背負っていた何かはそこで下ろせないどころか、一気に噴き出して身動きが取れなくなってしまった。肝心のグリーフケアには大失敗したのだ。
誠実さは、たしかに最高の作品を作るために大きく貢献した。しかし、そのためにこんなに苦しい思いをしなければならないのだとしたら、わたしは作曲を、表現を、続けることはできないと真剣に思った。そんなことで頭を悩ませていたら、ある日突然、先の考えに至ったわけである。頭に浮かんだ一連の出来事に対する、それが一体なんだったのか覗いてみたくなる気持ちは保持しつつ、それでズルッと、例えばトラウマ的なものが出てきてしまったとしても、公開しなくていい自由があれば、嘘がつける余白があれば、乗りこなせる予感がした。今考えるとおかしなことだが、ノンフィクションである必要はないとこの時初めて気がついたのだ。
そんなこんなで、わたしがやっている作曲は、何か重大な意義を持つものではなく、些細な、一人間の可愛らしい営為に過ぎない。けれども、この営みから生まれた音楽を慕ってくれる人が最近着実に増えているのだ。不思議なことに。
「外の世界と繋がれる」まで
さて、ここまで書いてみて、ようやくここまで言語化できるようになったのかと、ちょっとした山に登頂したような気分になっている。というのも、やはり、自分の作曲は、「なんかそうなっちゃってた」部分が大きく、何も策略などないままに腑に落ちていってしまうのだ。長らく自分が何をしているのかよくわからなかった。自分の行っていることに対する納得感だけが先行してそこにあった。
そして、これは大事なことなのだが、こうした自身の作曲行為に対する解像度の低さによって、わたしはずっと、周りの作曲家と大差なく、ごく普通に作曲をしていると思っていたし、「わたしが作った作品も全然音楽だよね」と思いしれっとした顔で作品発表をしていた。
わたしはかつて音大の作曲科にいて、2017年の学部一年生の作品提出のときからこんな感じなのだが、「自分の中から自然と音楽として出てきたもの」は、どうも「普通の作曲」とは受け取られなかったように思う。「普通の音楽」とも受け取られなかったかもしれない。 なぜか、一定の評価はされていた。そこでは「独創的」とか「我が道をゆく」とか形容されることが常だった。でも、特に、目上の立場の人から投げられるこれらの言葉には「わたしたちとは違うことをしているけれども」という一線を引かれた感覚を覚えることも多かった。(悪意で排他的であったというよりも、「この人は野に放った方がすくすく育つだろう」みたいなある種の期待がこめられていたとは思う。)どうやらわたしは「はみ出しちゃってる」らしいという感覚をじんわりと持ち続けた。
作品に対して、自分からは「自然」、周りからは「特殊」と見られる際に現れる軋み感。ほんとうは音楽じゃなかったりするのかと思ったこともある。分野横断的な場所に行けば、意外と同志がいるのではないか、と。でもそういう情報は、今まで過ごしてきた環境からはアクセスしにくく、根拠もなくぼんやりと、海外にしかないのかな、と思ったりもした。自分にぴったりな居場所がよくわからなかった。気が付けば、自己紹介で「音楽」や「作曲」という分野を名乗るときに少しのためらいを、心の奥に感じるようになった。
そんな折に、コロナ禍を迎えた。コロナの影響で、2021年春頃からじわじわと行動範囲が狭くなった。それまで、家と学校と学外の演奏活動(主にシンセサイザーでJ-POPのセッション会とたまにバンドサポートを行なっていた)の3つの場で忙しくしていたのが、家の方針もあって、しばらく電車も乗らないような生活に変わった。特にセッション会はわたしにとって大切で、高校生の音大受験を志していた頃から、いわばサードプレイスとして機能していた。そんな生活ががらりと変わって動転する中、家でできること、まず本を読むことから始まったと記憶しているが、作編曲や演奏から離れたいくつかのことに純粋な好奇心のみを動機として取り組む時間が生まれた。
その時間は、意図せず自分の作品の正体を求めて彷徨うような時間になった。オンラインの読書会に参加したり、作曲家の知人を集めて月一の対話会を開いたりした。そうした言葉のやりとりをする場から、わたしは特に「その人の感覚の話」に癒されていた。さまざまな人が、さまざまな自分自身を表す言葉を持っている。自分の作品を表す言葉はない(言葉で表すと溢れてしまうものが多すぎる)と思っていたけれど、誰かが持っている言葉が当てはまったり、うまく表せなくても言葉にしてみることでわかりあえたりする、と思えるようになった。情報が情報を呼ぶようなかたちで、そうした自身が興味深く思う音楽分野外の取り組みをいくつか見聞きすることになる。そのうちの1つが、今でも一部交流が続いている「松井周の標本室」(以下、標本室)という表現者コミュニティだ。
標本室は、演劇の作演出・俳優業を行う松井周が立ち上げた、ジャンルを問わず何か実験したいことや表現したい人がプロアマ問わず集まってくる場で、まさに好奇心の溜まり所といったクローズドのスタディグループである。このコミュニティはわたしが発見したタイミングで第三期(春から始まって一年間の会期で毎年募集をしていた)の募集を行なっており、オンラインベースであったことも幸いして応募するに至った。
標本室に入ると、まず、会期を通した自分のテーマを設定する。第三期のコミュニティ全体でのテーマが「癖」ということもあり、なぜかこういう音楽が出来上がってしまう、という自身の状態と真正面から向き合いたいという思いを込めたセルフテーマとして、「小さな刺激(主に聴覚/視覚)に感覚を澄ませる」を設定した。テーマ作成当時、自分の作品の特徴は薄暗がりと微弱な音量にあるとだけは掴み取れていたからだ。
標本室では、全体で行ういくつかのイベントと並行して、個人個人のセルフテーマに自分のペースで取り組むことができる。面白いのが、セルフテーマの探求であっても、周りの人に協力を仰ぎ放題という空気感で、人の興味に乗っかっては面白がり、同様に自分の探求したいことに関しても募集を出せば誰かしら興味を持って集まってくる。詳細な実験プランを出して募集をかける人もいれば、よくわからなくなっちゃったというだけでZoomでオンライン会議をする人もいた。わたしも《樹海になりたくて for a vocalist and a percussionist》を演奏してみる会を設定して、音楽経験もまちまちなメンバーに集まってもらい、一連の流れを身体に通してもらった上で、そこで起きたことや感じたことについて、一体どのように形容できるのか、文化背景が異なる各参加者が持ちあわせた固有の感覚・言葉で綿密なフィードバックをもらったりした。その活発さと金品の報酬を伴わない(けれども搾取されている感覚もない)参加の循環、他人への興味・好奇心が回すエネルギーは、標本室外まで影響して、人と関わる際、コロナですっかり内に篭ってしまったため重くなった腰をぐんぐん持ち上げてくれた実感がある。
また、会期の終わりには、標本室主催の一般公開イベント「標本の湯」にて、自分の持つ音楽世界の入り口的体験ができるワークショップという位置付けで、音楽経験を問わない表現に興味がある人を対象に、《言葉のない世界で出会おう–音を発することから起こされる「夜」の出来事–》(2023)というワークショップあるいは参加型作品を、主催の松井周や標本室の運営陣、標本室メンバーの鈴鹿通儀、私道かぴの監修のもと制作して発表した。制作には、監修だけでなく、標本室メンバーやYAU(有楽町のビル中にあるアート活動を盛んに行なっている場所。リハーサルはここで行われた)のインターンとしてリハーサルに参加してくれた複数人の意見が反映されている。
ワークショップを通して、参加者とワークショップを見ていた周りの人から、自身の音楽観に対して理解や共感が示されたことは大きな出来事だった。このワークショップは、それまで作ってきたものと比べて、うるさくなるかもしれないし、即興要素も強い、発音も甘くていいという「入り口」的作品とはいえ、音楽の専門家でなくても(むしろ専門家でないからこそすんなりと受け入れられたのかもしれないが)伝わることがわかって初めて、ずっと1人で音楽をしているような感覚がほぐされて、「外の世界と繋がれた」心地がした。
誰かと共に音楽を立ち上げる「グループクリエイティビティ」
同じ頃、修士論文を書き上げた。作曲(創作)分野の論文として、「グループクリエイティビティ」と呼ばれるクリエイティビティについて理論整理し、創作への運用を模索したものだ。このクリエイティビティの特徴は、2人以上のグループによる同時的かつ相互作用やコミュニケーションを伴う性質である。音楽の例だと、作曲家や指揮者不在の複数奏者による即興演奏で、自ずから1つの音楽が立ち上がっていく(=クリエーションされていく)様子を思い浮かべてもらうと伝わりやすいだろうか。
メインにあたるのは、4章立てのうちの第2章で、 インタビュー分析によって「グループクリエイティビティ」に関する先行研究の検証を行った上で、演奏過程における奏者の困難解消と満足度獲得の条件を導出するという内容である。具体的には、2人組の(現代音楽作品を上演する奏者として想定される高等西洋音楽教育を受けた)奏者2組に即興演奏をしてもらい、後からビデオで振り返りつつその時の感覚をインタビューで調査した。こうした即興演奏のように、奏者自身、その場で音楽を立ち上げるというクリエイティビティを持っている。そのクリエイティビティと、作曲家が作品を作る(この場合は譜面作成が前提とされる)ときのクリエイティビティは共存できないかというのが主な問いだ。論文全文は国立音楽大学の図書館で閲覧できる。
もともとは、自作における「人ベース」(この言葉は本稿で初めて使った造語であるので論文には登場しない)の記譜では、音と音が鳴るタイミングについて定量的な指示ができないから、その場で奏者がクリエイティビティを発揮して音楽を立ち上げている側面があるのではないか、というアイデアがきっかけで始まった研究だが、そこから興味が広がり、「グループクリエイティビティ」を発揮する場面は、共作や即興演奏など、個人の作曲に限らない音楽を立ち上げる活動全般で増えつつある。そうした活動についても記述してみようと思う。
2.インプロのはなし
インプロヴァイザーになった日
2023年9月から、インプロヴィゼーションのライブにパフォーマーとして出演するようになった。きっかけは、標本室経由で知ったエンニュイという劇団の演劇「きく」を観に行った数ヶ月後、演者の1人として出演していたミュージシャンのzzzpeakerから突然連絡がきたことだった。わたしはzzzpeakerという人のことをあまりよく知らなかったし、弾き歌いをしているところと、劇中でトランクケースを叩いているところしか見たことがなかったから、一緒に「音が鳴るもの」で「即興」がしたい、という誘いを快諾したものの、その「即興」はどこまでやっていいのだろうと思いながら本番までの日々を過ごした。例えば、わたしが突然うめき声をあげても相手を困らせないか、リズムを外すことや不協和音に対してどれくらい寛容かといった心配があった。
即興の「なんでもしていい」は罠で、実は、人によって寛容になれることとなれないことがある。わたしも同様に、断末魔の叫びがとても良い音だからと動物を持ち込まれたりしたらその場から出ていくと思う。少なくともパーカッション的なアプローチは大丈夫だろうと思い、いくつかのパーカッションとして使える音具を持ち込むことにした。即興は打ち合わせである程度流れを決めることもあるが、このときは驚くほど何も事前情報を共有しなかった。相手がどんな演奏をする人かわからなかったのはzzzpeakerにとってもほとんど同じ状況だったといえる。依頼文を読むに、未知なる人への好奇心から即興を申し込んだらしい。わたしたちはそれまで一言二言しか交わしていないから、互いがどんな人間性を持つのかを知る手掛かりすら持ち合わせていなかった。わたしは会話があまり得意ではないから、会話より先に音でコミュニケートできる環境はありがたかった。
会場に着くとすでにzzzpeakerがセッティングを済ませており、zzzpeakerの手によっていたるところが装飾されていた。素朴な素材に粗雑な手書きやスプレーで手が加えられた装飾は、どのように捉えても、どのように扱っても良いように思われて、豊かだった。
それまでのわたしは、フリーインプロヴィゼーションを身内との遊びやセッションイベントで何度か行ったことがあったが、その際は声やピアノなど特定のパートを受け持っていて、アンサンブルを立ち上げることしか経験がなかった。わたしは、この装飾にそうした場とは異なる印象を受けつつ、しかしどうやら多分何をやっても悪い意味で困らせてしまったり、場を壊してしまうことはないだろうという確信を持ち始めた。装飾のひとつひとつの表情や多義性が見えてくる空間は、これまでのフリーインプロの経験だけではなく、それと同じくらい1人で作曲しているときの「楽器と仲良くなる時間」を思い起こさせるようだった。
肝心のインプロの内容はというと、ディスコミュニケーションを披露しているのかというくらい、破天荒な内容だった。わたしたちは何をしていたのだろう。突然zzzpeakerが喋り始め、わたしにもあれこれ質問し始めたとき、これはMCの時間なのか、まだパフォーマンスが続いているのか大変戸惑ったことをよく覚えている。(おそらくzzzpeakerもわたしの音楽の節感や楽器や装飾といったモノの扱い方に混乱していたのではないだろうか。)
共演しているときはただ一生懸命に奏でていたから気が付かなかったが、振り返ったとき、その全てが、これまで体験したことのない時間で、興味深かった。ここまで共通言語を持たない2人だと、空気を読んで盛り上げたりだとか、アンサンブルをきちんとしようとすることがそもそも成立しない。しかし、たしかに面白かったのだ。結果的に「相手に合わせなくても大丈夫」ということが身を通してわかった。それまで、フリーインプロは、西洋音楽教育の中で培った音楽観や発音法を用いて行うものだったが、こうした多義性に溢れた環境と、暗黙の共通言語を持たない者同士であれば、普段作曲しているような「自分の持っている音楽」とも地続きになれるのかもしれない。
「座敷童子スタイル」
即興をしているというと、どのパートですかとまず質問されることが常だから、最近は「座敷童子スタイル」と紹介している。会場を部屋として住み着くようにして、そろりと動きながら、そこらへんにある窓や床、扉が気になっていじって音を鳴らしてみたり、その延長線上で、持ち込みの音具をさまざまな方法で鳴らすことになったり、あるいは実際には音が鳴らない道具を扱いながら、何かを鳴らそうとする身体だけがそこに現れるような「踊り」の要素が入ったりする。「踊り」とはいえ、ダンサーのようなオーラを放ち舞台映えする身体ではなく、もっとなよなよしい自然体のわたしの身体がそこにある。
共演者とのコミュニケーションも妖怪的と呼べるようなかたちで立ち上がる。共演者とわたしは、「出会っていない」瞬間が多々ある。わたしは、どちらかというと周囲にあるモノたちとコミュニケーションをとっているのだと思う。そういうときに、他の共演者と異なるレイヤーの時間を過ごしていると感じる。そこに、他の演者がやっている内容がリンクしたり、物理的に相手の身体が認知できるくらい近い距離に置かれたり、わたしに向けて音が発せられたり、あるいは気まぐれでわたしから誰かに対して関わりを持つことで「出会う」ことになる。こうした「出会い」の時間のリズムもまた音楽にみえる。わたしと共演者が「出会っている」時間、もしくは偶然「出会っているかもしれない」時間には、無反応を含む何かしらの反応によってコミュニケーションが発生する。
共演者とコミュニケーションが発生したとき、そこに「誰にどうして欲しい」といった欲望はなく、気まぐれに出会ってしまったという状態だけがそこにある。支配欲があるとするならば、それは場全体に対しての曖昧なもので、座敷童子を例にすれば、家に住み着くとなぜか家族は幸せになり出ていくと不幸のどん底に突き落とされるといった、何か直接働きかけるわけではないが因果関係をそこに住む人々と築くような、ただ影響していたい欲望がそこにある。
このコミュニケーションのあり方は、日常を過ごす上で、特に会話の中ではなかなか成立させるのが難しい。会話をするときに、テンポが早すぎてついていけないことがある。そもそも言葉を使わないでただそこでじっとしていたいこともある。話している途中にふらっと席を立ってしまえばネガティブな印象を与える。それで、知らない間に自分を作り替えて、相手の話をちゃんと聞いているとアピールしながら、人間同士の会話をする。(だからといって日常会話が嫌いなわけではないし、人と話したくなる気持ちも日々持ち合わせている。)インプロや個人作曲での「楽器と仲良くなる時間」においては、そうした今まで過ごしてきた社会から離れて、自分自身の自然・本来をとりもどしているような気がする。そして、これが複数人によるインプロであった場合に、その本来の自分と他の人間が一緒の時を過ごすことで、それまでいた社会とは別の、演者(観客が含まれることもある)によって構成されるその時限りの小さな社会において、自身のふるまいが受容され、かつ、その特殊な社会の中で影響を受けながら変容する。
このようにして一時的に発生した別社会の中で人々がうまく共存できた時に、演者としての「成功体験」が得られる。そしてそれが観客の立場から側から見ていても面白いと信じているのは、個人の作曲で描いている内容がまさに演者の中で閉じた特殊な社会の上演であって、そこに面白さが見出されるのを知っているからである。あくまでこれは、わたしにとっての「インプロ論」であり、わたしが見聞きした人たちのインプロに対する態度は千差万別である。それらを擦り合わせることもなく多様な人たちと共演でき、同じ時間を過ごした気になれるインプロの土壌もまた興味深い。
こうしたインプロと個人の作曲の間くらいに、共創の活動がある。インプロ中の異なる人とも共存できる豊かさと作曲中の思う存分思慮を重ねて作品を作りこめることの両立が叶う…というと立派にきこえるが、出口が見えない時間に立ち会いながら、どうしたら豊かな共創が生まれるのかひたすら泥臭く試している。
3.共創のはなし
わたしを共創に導く3つの動機
誰かと一緒に作品を作る、ということに、ここ1、2年力を入れている。2人や3人といった小規模な人数で、リーダーを設けず、何かしらの作品を立ち上げていく。作曲家同士であれば曲を作ることになるし、ジャンル横断的なアーティストと組むときはアウトプットの形が曲であることにこだわらない。その中でも特に今、大切にしていることは、制作過程である。いずれの場合も、専門分野によって役割分担を行なったり分業することを極力避け、全ての制作段階において全員が関われる状態のまま進行する。そうすることで、ここで発生するクリエイティビティの質を、より集団的で同時性のあるもの(=「グループクリエイティビティ」)へと寄せていこうとする目論見がある。まだこの取り組みは実験段階であって、効率とは真逆の制作過程に時間を大量に費やしたり、解決すべき問題を抱えながら、それでも積極的に関わってくださる多くの共創メンバーや協力者のもとで日々試行錯誤を重ねている。
共創に取り組んでいる理由は主に3つある。1つ目は、先に述べた「グループクリエイティビティ」への関心があるからである。1人で作品を作るときの、徹底して一貫した内容を考え抜くような質とは異なり、その場で立ち上がる「今ここ」の他者との相互作用によって何かが創造されるといった質のクリエイティビティ。共創では「作曲家の小栗舞花」として自他ともに期待してしまう作風にこだわらず、むしろ予想もしていなかった未知の領域に自分と共創相手で辿り着く体験を夢想している。
2つ目は、個人の作曲をとりまく閉鎖的な環境を悩ましく思ったからである。個人の作曲では、結果に満足しつつも、繊細な作品は小規模で管理された環境でしか耐えられず、己の内にこもるような作品の性質も相まって、こだわり抜くことが、かえって風通しを悪くし、好ましくない固執に導かれるのではないかという心配があった。また、「人ベース」の譜面や、編成などから、外部企画に出そうとしても公募要件から外れやすく、さらに時折音楽人から語られる「音楽」「作曲」の話におそらく想定されていないであろうと感じる自分の作曲作品を、孤独感に負けず1人で制作・発表を粛々と続けることが、それだけに専念するかたちでは厳しかった。音楽大学の学生という身分を抜け出してから一層そう感じる。共創では、共創相手の思考が、その人の語りやさまざまな実践を通して流れ込んでくる。わたしの思考もまた同様に共有される。流れが滞った自分の頭の中をまるで換気するように、新鮮な視点や知識、感覚が取り込まれる。さらに、こうした他者との創作活動と並行することで、わたし個人の取り組みも風通しがよくなり新たな視点が生まれたり、活力が回ってきたりする。
3つ目は、共創の機会を通して表現者と密に交流できるからである。これははじめから意識していたわけではなく、共創をするうちに大切なこととして認識し、今では活動の動機の一部になっている。わたしの周りで行われる共創では、作ろうとする作品についての真面目な話し合いや綿密に計画が練られた実践だけではなく、それ以前の、なんでもないような会話やとりあえず会ってみること、誰かの興味に付き合ってみることなどから作品が萌芽することがある。そうした一見すると無為に過ごしているような時間を許容できる背景には「作品を作ること」に収まりきらない心づもりが双方にあるように思う。実際に今まで共創してきた相手はフランクに話せる間柄(もしくは共創していくうちにそうなっていった間柄)が多く、友人と真剣に遊んでいるような気兼ねなさと思考を重ねることとの両立がある。実際、共創活動に関わった人から「楽しい」という声をきけることが少なからずあり、素朴ながら、創作は「楽しく」できるのだと毎回新鮮に思う。この「楽しさ」は、作品のコンセプト(エンタメ要素のある題材であるかどうか)に依拠するものではなく、創るという行為そのものに対する「楽しさ」である。
現在は、「共作プロジェクト緒」という作曲家の山田奈直と共に立ち上げたプロジェクトと、「矢野かおる」という社会学者の鈴木南音、演出家の熊谷ひろたかと3人で組んでいるユニットを共創活動の中心に据えている。いずれも2023年から活動し始めた。その他に単発で「一緒に何か作りましょう」という誘いに乗るかたちで進めているプロジェクトがいくつかある。共創するメンバーによって対話の仕方も多様で興味深い。ここでは主に、「共作プロジェクト緒」の前身となった山田との共作《みみなりbased on our obsessed ears for Clarinet and Electronics》(2022)という作品と「矢野かおる」で初めて制作した作曲作品《訥》(2023)の制作過程について、記述したい。
《みみなりbased on our obsessed ears for Clarinet and Electronics》(2022)
山田奈直は大学の1学年上の先輩で、かれこれ7、8年にわたって交流があり、お互いの作品を見聞きしてきた。山田の作品はアコースティック楽器のために書かれることが多く、個別の楽器というより全体の音響をとらえ、音響効果を大胆にもたらす作品が多い印象がある。楽器や音楽への深い理解と裏腹に、どこか無邪気さが失われない音楽に魅力を感じる。
山田と初めて共作したのは、偶然まわってきた大学での新作初演の機会である。共作で参加したいとわたしが申し出たことから始まった。その演奏会ではライブエレクトロニクスであることとクラリネット属の楽器編成であることが指定されていたので、かつて吹奏楽部でクラリネットを吹いていて楽器に対して造詣が深い、山田に共作をしてみたい旨を伝えたところ、快諾された。作品の方針を話し合う中で、山田がかつてピアノとクラリネットのために書いた《みみなり》(2016)という作品の耳鳴りというテーマだけを抽出し、耳鳴りについての作品を改めて一から2人で作ることで合意した。それからお互いにひたすら顔を合わせ、楽器を鳴らして実験し、譜面を書いた。理路整然とした話し合いの中で生まれた音もあれば、音出しの実験をしている際に偶発的に鳴った音が素材として採用されることもあった。音楽教育に関して共通した背景を持ち合わせているからか、音楽の展開について大きく意見が割れることはなかった。強いて言えば、曲を終わらせるための時間を小栗は長めに取りたいのに対し、山田は比較的あっさりと終わらせるのが好みであったことくらいである。ライブエレクトロニクスのパートは、当時Maxを扱えるのがわたしのみであったことから、アイデアは双方から出し合いつつ、具体的なパッチ作成や最終的な仕上げはわたしが行った。
わたしにとって特に印象的だったのは、譜面を一緒に書いているときのエピソードである。譜面の提出締め切りが近づくと、大学近くのホテルに2人で泊まり込んで必死に譜面を書いた。山田のPCで譜面作成ソフトFinaleを立ち上げ、山田が譜面を打ち込み、わたしはそれを隣で見つつ内容の整理や提案をするために都度口を挟んでいた。
具体的な箇所を忘れてしまったのが非常に残念なのだが、どこかでわたしが譜面に書き込む指示文を口頭でかなり詳細に示したのだ。ここにこういう言葉を書いてください、というように。そうすると山田は、さも了承したそぶりを見せながら、わたしが示した言葉を相当省いてとても短い指示文を打ち込んだ。わたしは驚いた。(その直後にリハーサルで直接奏者とやりとりできる前提があることを山田は申し添えている。)同時に、自分では書かない簡素な指示を見た時に、目まぐるしく回転していた頭の中がスンッと軽くなった心地がした。再現性を考慮したときに譜面が詳細であることは良いことなはずなのだが、そのときのわたしは、なんだかそうすることが過保護に感じられるような不思議な感覚に陥った。何より、山田はわたしと比べて脳内が雑然としておらず、軽やかであることがやりとりを通して感覚的に伝わってきたことが新鮮だった。当時、知り合いの作曲家を集めて音楽観を探る対話会を月一で主催していたが、(それはそれで興味深い内容が豊富であったものの)この現象はそうした人の語りからは辿りつかない、肌感的な現象だったように思う。眠る余裕もない中ベッドに腰掛けながらタイトルを決めた。タイトルに「耳鳴り」という言葉を入れるかどうか決めるのに時間がかかった記憶がある。最終的に、アイデア元になった山田の作品タイトルの「みみなり」というひらがなに開いた言葉を採用しつつ、この機会に改めて耳鳴りについて調べた際、耳鳴りが「魔女に取り憑かれた耳」と言われることを知ったことや、我々の耳鳴り体験も内容に取り入れたことから、《みみなりbased on our obsessed ears for Clarinet and Electronics》というタイトルに落ちついた。音をシミュレーションしやすい環境があったことも幸いして、上演結果はお互いにとって満足のいく内容になった。この経験の一年後、また共作に取り組みたいという動機から「共作プロジェクト緒」が始動する。そこでは、こうした山田と小栗による共作を引き続き行いつつ、この組み合わせ以外の作曲家との共作や、共作に関するリサーチ、共作過程にフォーカスした展示など、共作するということを、より深く考察できる場を目指している。
《訥》(2023)
「矢野かおる」のメンバーとは、先述した標本室で出会った。熊谷とは、会期のはじめに行われたミーティングで抽象表現を行うことの難しさについて共鳴していたし、鈴木とは、会期の終わりまで話したことはなかったものの標本室のSlack上の個人のチャンネル投稿を追っていた。3人が初めて揃って話したのは、会期終わりのイベント「標本の湯」の帰り道で、当時全員が大学院生(小栗・熊谷が修士課程、鈴木が博士課程)ということや世代が近いこともあり、近いうちにご飯会をすることを約束して別れた。そのご飯会に、同じく標本室に所属しており人の話をきいてイラスト等で記録できる大森唯加も誘って、考えていることをだらだらと喋った。大森は、「矢野かおる」のメンバーではないもののご飯会のなごりで現在も連絡グループに入っており、第三者的立場から見守られているような安心感がある。
ご飯会の中で、わたしから「みんなで声作品の作曲をしませんか」という提案をした。作曲といっても、音楽理論や音感が必ずしも必要なわけではなく、現代では様々な作曲作品があるのだという話をしつつ、鈴木が行っている会話分析という手法(特に会話のイントネーションを記譜するように書き起こすトランスクリプションというやり方)も興味深いし、熊谷の演劇や演出の側面からのアイデアも活かせそうという話をした。この作品はのちに、アンサンブル「ロゼッタ」の公募「Notation:Mutation | 変異するノーテーション」に選出され、2024年5月に初演を果たすことになる。応募するにあたって名前が必要であるから、そのために我々は3人の名義を考え、「矢野かおる」という共同名義を名乗ることになる。ちなみに、この「矢野かおる」という名前には誰も特に思い入れはない。
制作期間はおよそ3ヶ月で、最初にそれぞれが普段行っていることを共有する会を開いた。わたしは《ぴあのを好きでいてくれて、ありがとう》の冒頭を、ピアノの代わりにアコースティックギターを用いて3人で実践した。熊谷は、3人で数字を被らないように1から順にカウントアップするゲームを導入として行った上で、自分の劇団で行なっている、セリフの読み手を割り振らずにその場でどちらが話すか見計らって話すという演出を小栗と鈴木に対して行った。鈴木はあらかじめ会話分析におけるトランスクリプションの規則について共有した上で、フィクションの短いトランスクリプションを創作し、それを小栗と熊谷で読み合わせた。それから、方針を絞っていくために、週一回ほどの頻度でオンライン会議を行い、興味があることや考えていることを話し合った。誰かの興味に誰かの知識や興味が連想されるようなかたちでまずは大きく風呂敷を広げた。我々の考え方の傾向は、ご飯会の際に大森が描いてくれたイラストがわかりやすいので、参照しながら紹介したい。
左から、小栗、鈴木、熊谷が描かれている。小栗は、手が生えている描写からもわかるように興味が湧いたら本を読むよりも現場に飛び込むような性格で、自身の経験に即して話をすることが多い。また、言葉数も他の2人に比べて少ない。鈴木は、豊富な知識を参照することに長けているが、情熱的であったり奔放な側面も持ち合わせている。熊谷は抽象的・感覚的な話と学術的な内容両面に共感を示せることから、誰かの話を汲み取って会話を進めることが多く、後に大森に、鈴木と小栗の溢れる蛇口を閉める人、と評される。わたしから誘っておいて無責任な気もするが、わたしが進行役と決まっているわけではないため、その時によって場を引っ張る人もまちまちである。あるいは、次にどうするかについて誰かが提案し、他の2人が採用すれば、提案した人が場を引っ張っているように見えるだけかもしれない。いずれにしても、誰もが舵を取る/取らせることができる状態は、この3人だと居心地が良い。
全員の専門分野が異なることもあり、広げた風呂敷はとても大きかった。どうしたら収束するか方針が掴めず1人不安に思っていたことを覚えている。それぞれが持ち合わせる知識や経験を参照しながら、上演という枠組み自体に疑いの眼差しを向けたこともあったし、民主的な音楽は作れるのかという問いが生まれたこともあった。さらにそこに音楽であることの意義をどう考えるかという投げかけも生まれた。
作品を作るための軸となる概念に辿り着く直前に『もう一人の自分と出会う 音楽療法の本』1中の「言葉になる前の声」としての音楽のあり方が提示され、そこから連想されるように、政治哲学者のジャック・ランシエールが唱える「声」以前の「音」に辿り着いた。この場合の「声」や「音」という言葉は、社会的弱者に置かれるマイノリティの人々の叫びが、意味を持った「声」として届くのではなく、単なる「音」として聞かれてしまうという文脈で用いられている2。この概念を手がかりにしながら、舞台上で歌ったり楽器を奏でる奏者にとっての「声」以前の「音」とは何かを考えた。
一般的に「フィラー」と呼ばれる、「あの」「その」「なんか」といった、会話の中で気がついたら発されている意味のない言葉がある。奏者が舞台の上で、観客に向けて発せられない「フィラー」を発話することと、それが音楽として聴かれるかどうかという問題が我々の中で「声」以前の「音」とリンクした。制作終盤は全員で何度か集まり、即興劇やカードを作って実験した。「矢野かおる」以外の協力者(大森唯加、小川敦子、佐藤鈴奈、森有希)を募り、実験とフィードバックに参加してもらえたこともある。《訥》は地面にフィラーの書かれたカードを複数置いて、下を向いて歩きながら足元のカードを読むシステムで上演される。「矢野かおる」の3人でカードを作り、並べ、協力者を含めて何度か試したうちの1テイクが作品に採用された。
採用されたテイクを再現できるように譜面に起こす作業はわたしが行い、コンセプトに関わるテキストを鈴木が書き加え、3人で確認と修正作業を行なった上で完成とした。面白かったのは、実践できるかどうかはともかくとして、3人とも(おそらく「演劇的」と比較した上での)「音楽的」という概念をどことなく持ち合わせていたことだ。例えば、制作途中で行なった、フィラーを書いたカードを3人が別の場所で適当に並べて、1人ずつ自分の並べたフィラーカードを読んでいくワークでは、小栗のみ並べ方と読み方が「音楽」になっているという声が熊谷と鈴木からあがった。ここで感じた「音楽」の定義ははっきりとしなかったが、声を用いながらも「演劇作品」ではなく「音楽作品」を作るとはどういうことか、がぼんやりと共有できた瞬間に感じた。(これは、あくまで制作中の小栗における相互主観の話で、作品としての《訥》は演劇としても上演できる可能性がある。)
「心ある道」としての創作過程
現時点で、こうした共創を経て一番自分が変容したと思えることは、まだ確実性のない状態や未熟な意見に対する受け取り方である。わたしはそれまで、まだ形になっていないものに対してその時点の状態のみを捉え、評価を慎重にしてしまうところがあった。しかし、未完結であったり未熟と感じるということは逆にいえば豊かな可能性が内包されているということでもある。それはどうも問題点を指摘したから引き出せるとは限らないようである。だから、もっと素直に素朴に反応して良いのだと最近は思う。少しでも共鳴したり、面白いかもしれないと思えた時、理由も明確にしないままとりあえず「面白い」とつぶやいてみることが増えた。これは標本室主催の松井周の影響でもある。松井はあまりコミュニティを仕切らないのだが、とにかく「それは面白いですね」を気軽に連発する人なのが印象的だった。驚きなのが、おそらく全て本心であることだ。でも実際に、その「面白い」の声かけを原動力に予想のつかない良い方向に制作が転ぶことがあるのだ。
また、特に作曲では、これらの共創の結果というのはなかなか共創に参加した個人の栄誉や名声には繋がりにくいと思う。やりたいことをいかに貫けるか(一貫性)、構築能力を遺憾無く発揮させられるかは個人でのクリエイティビティによった方が成し遂げやすく、リーダー不在の複数人でのクリエイティビティではそもそもそうしたこととは別軸の魅力が存在する気がしている。そしてそれはまだ、作品に対する評価として見逃されている気がしてならない。これはまだ探求している最中で、はっきりとは言えないのだが、「結果より過程」に観客もまた目を向けられないかといった問いがわたしの中で生まれている。この考えに関連して、先日友人たちと読書会を行なった際の課題図書『気流の鳴る音』内の次の文章を引用したい。この本は、ドン・ファンというメキシコ北部のヤキ族の老人の教えを人類学者のカスタネダが実際に弟子入りした上で書き記した書物について、社会学者の真木悠介が具体的に解説するものである。次の文章は、ネイティブ・アメリカンの教えの核「心ある道を歩む」ことについて解説した文章の一部である3。
道のゆくさきは問われない。死すべきわれわれ人間にとって、どのような道もけっしてどこへもつれていきはしない。道がうつくしい道であるかどうか、それをしずかに晴れやかに歩むかどうか、心のある道ゆきであるか、それだけが問題なのだ。所有や権力、「目的」や「理想」といった、行動をおえたところにあるもの、道ゆきのかなたにあるものに、価値ある証しはあるのではない。今ある生が空疎であるとき、人はこのような「結果」のうちに、行動の「意味」を求めてその生の空虚を充たす。しかし道ゆきそのものが「何もかもあふれんばかりに充実して」(ドン・ファンの表現)いるかぎり、このような貧しい「結果」のために人は争うことをしない。
(中略)
富や権力や栄光といったものへの執着を欲求の肥大としてではなく、欲求のまずしさとしてとらえること。解放されたゆたかな欲求を、これらの人びとの目にさえ魅惑的なものとして具体的に提示すること。生き方の魅力性によって敵対者たちを解放し、エゴイズムの体系としての市民社会の自明の前提をつぎつぎとつきくずすこと。真木悠介『気流の鳴る音──交響するコミューン』ちくま学芸文庫(Kindle版)、2003年〔1977年〕、24-25頁。
共創中の「道ゆき」(=過程)そのものが充実していて、それを富・権力・栄光など「行動をおえたところにあるもの」(=作品の偉大さを誇示すること、コンクールで賞を取ることや、大勢の人に支持されること、偉大な人物に評価されることなど)へ執着している人びとにさえ魅惑的なものとして提示すること。これはいかにして成し遂げられるだろうか。
おわりに 誰と音楽をするのか
ここまで、個人での作曲、インプロ、共創、という流れで、音楽を立ち上げる諸々の活動について書き起こしてきた。冒頭、従来の「作曲家」という肩書きから得られる印象と異なる自身の音楽創作の在り方をどう定義づけるべきか答えを出せずにいたが、ここまで経験と内省を記述し、浮かび上がってきたのは、「音楽を起こす人」という概念である。それは、単に曲を作るだけでなく、様々なかたちで音楽を生み出し、形づくる人だ。より包括的なこの定義であれば、個人の作曲だけでなく、インプロや共創も含めた自らの活動を定義づけることができる。「作曲家」が限定的な意味を持ち、そこに当てはまらないのであれば、わたしは「音楽起こし人」である。
音楽活動の記述から誤解を招きそうな2点について明確にしておきたい。
まず、活動の開かれ度合いについてである。これまでの文章から、わたしを、個人の作曲における閉じこもり感を避けるために、インプロや共創で積極的に他者と交流する開放的な人物に思うかもしれない。実際、他者との交流自体は豊富なものの、誰に対してもオープンなわけではない。いわば「手の届く範囲」の人々に限定して関わっている。自分の身近にいる少数の人々との関わりが大切で、それを超えた範囲、一般的な意味での「世間」や「大衆」との繋がりは求めていない。つまり、ある意味では依然として閉じた状態を保ちつつ、その限られた範囲内でできる限り人と関わっているのだ。
次に、他者との関係性と相互理解についてである。わたしは他者と完全に「わかり合う」ことを目指してはいない。共創活動やインプロで関わる各グループと「1つになりたい」わけでもなければ、それらグループを統合したいとも全く思わない。あくまで他者とは一人一人他者として関わりたく、自分は自分の形を保ちたい。それが活動を大きく、公に開こうとするほど難しくなることもまた実感する。各活動が少人数単位でおさまっているからこそ、誰かが大きな力を持つことなく、外からの大きな期待に応えなければならないこともなく、そのとき身近な人と活き活きと何かを立ち上げることができる。
まだここまで自覚的に自分のことを捉えていなかった頃に、自分の音楽は「隠れ家カフェ」的ものになりたいと漠然と思っていた。知る人ぞ知る、という立ち位置である。今はもう少し奥まって「会員制のbar」だろうか。クローズドに関心がある。わたしとの距離感はまちまちだが、関心が近そうな、かつ信頼できる人たちに招待状を出して、クローズドの小栗作品セッション会をやりたい。セッション会とは、鑑賞するために人が集まるのではなく、演奏するために人が集まるイベントである。そこで賛美されるでも親密になるでもなく、小栗作品を実践することそのものを充実した体験として、共に時間を過ごしたい。最初はこうした小さな会から始めて、それを後から外向きに開くやり方の方が、作曲=「一人間の可愛らしい営為」と捉えるわたしとしては自然な気がする。
その開き方も、必ずしも小栗作品の上演に直接アクセスできなくて良いと思う。例えば、事後レポートだけが公に出されることで、簡単にアクセスできないが、こうした取り組みをしている人がいることは伝わる。謎めいているがなんだか気になってしまう、そういうところから始めてみたい。どれくらい開きたいかはきっとその時々で変わるだろう。アンビバレントなスタンスになることもあるかもしれない。けれども国や世界、地球…と大きく社会を捉えるあまり身動きが取れなくなってしまうよりも、「身の回り」を社会とおいて、じわじわと染みが拡がるように、着実に世界へ影響していく。ちっぽけなアーティストとして、そんなことを大切にしたい気持ちは変わらない。